うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語るブログ。

【ネタバレあり】今村昌弘「屍人荘の殺人」の設定はアリかナシか?

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少し前にミステリーの三冠をとったことで評判になった第27回鮎川哲也賞受賞作、今村昌弘の「屍人荘の殺人」を読んだ。

事件が始まるまでの状況や人物の説明は若干退屈に感じたが、事件が起こってからの展開は読むのがやめられなくなるくらい面白かった。

ジャンルとしては「本格」「パズラー」の推理小説なので、そういうものが好きな人は文句なく楽しめると思う。

 

*以下、「屍人荘の殺人」のトリックや犯人に関しての重大なネタバレが含まれます。未読のかたはご注意ください。未読のかたは作品を読んでから読まれることをおススメします。

 

引っかかりを感じやすい設定

この本は実家の兄ちゃんが「面白いよ」と言って貸してくれた。

評判にもなっていたし、「読みたい」と思っていたのだが、まずは両親が読みたいと言っていたようで二人が読み終わるのを待ってくれと言われた。読み終わった母親から「さすがに無理があると思う」と言われたので、どんな話かなあと読む前から想像していた。

メタ構造を取り入れているか、「僕だけがいない街」のように超常現象を取り入れているか、「概念としての殺人」のような形而上の話がメインなのかななど色々と考えたが全部違った。

 

この小説は感想を述べる以前に、その設定を受け入れられるか否かのハードルがある。

他の人の感想をいくつか見てきたが

①バイオテロによるゾンビの襲来、というクローズド・サークルの作り方

②登場人物の設定や行動原理

この二つの設定に引っかかりを感じている人が多いようだ。

 

自分は①は多少、②はかなり引っかかる部分があった。

ただ何故、それが「引っかかるのか」「OKなのか」というのは、「感覚的に」以上の感想が見当たらなかった。

この記事では「物語においてそもそも設定が不自然にならないラインとはどこにあるか」ということについて、自分の考えを述べたい。

別の言い方をすれば、読者に「この設定はどうなんだろう?」とまずは設定について考えさせてしまうのは何故なのだろう? ということを考えたい。

 

それぞれのジャンルには「リアルライン」が存在する。

物語において「リアリティ」は、設定のアリナシの基準にはならない。これが基準なら、SFやファンタジーは成り立たなくなる。

物語は読者がジャンルなどからある程度「こういう話だろう」ということを想定し、自分の中に「リアルライン」を設けて読み始める。

 

「リアルライン」とは、読み手が「こういう系統の話では、どういう設定ならば現実的ではなくとも許せるか」というジャンルごとのリアリティとの乖離の許容範囲を示す自分の造語だ。

例えばSFならば、現代が舞台でタイムリープなどの超常的な現象が起きても、「そんなことはありえない」という感想を抱く人は少ないだろう。

またライトノベルならば能力が極端に秀でたキャラクター「親が大富豪で、IQ180以上で博士号を持ち、国際的な研究機関に勤めている16歳の絶世の美少女」などが出てきても、物語内の設定として受け入れやすいだろう。

しかしこれが「社会派」と呼ばれるミステリーを想定して読んでいると、受け入れがたくなる。

「リアルライン」は、創作物を読んでから「この設定がアリかナシか」と判断するものではなく、読む前に読み手が無意識のうちにある程度設定しているものだ。創作物の中に「リアルライン」を超える設定があっても、書き手の説明に読み手が納得すれば、それは読み手の中で物語内の設定として受け入れられる。

 

 「リアルライン」は、その人が今まで読んできた、様々な本のジャンルから帰納されて作られている。ジャンルの定義はある程度決められているので個々人で多少見解に差はあっても、「リアルライン」はおおむねは一致していることが多い。

この「リアルライン」を打ち破るような設定を組み込むと、その話の感想以前に「その設定はアリなのか、ナシなのか」という疑問を持つ人が多くなると思う。

「屍人荘の殺人」における設定を、このリアルラインを鑑みて「アリかナシか」を考えてみたい。

 

「リアルライン」を超えても受け入れられやすい条件

自分が個人的に考えた、「リアルライン」を超えてもアリだ、と考えられる条件は二つだ。

(1)その設定が、本筋を語るうえで必要不可欠だ。

(2)その設定と、物語の他の設定のリアルラインとの差がそれほどない。

 

「屍人荘の殺人」における「リアルライン超え」はアリか、ナシか。

①バイオテロによるゾンビの襲来、というクローズド・サークルの作り方は、本作のトリックの肝とも言える部分だ。

 

自分は最初「今までにない、クローズド・サークルを作り出すためだけの設定」と思っていたので、そうであればナシだろうと思っていた。

トリックとからまないのであれば、災害や事故によるクローズド・サークルの形成でも十分代替が効く。代替が効くのであれば、「物語内でのその設定の意味」がほぼなくなるからだ。

「リアルラインを超えることだけしか目的がない設定」であれば、それをもって斬新と言われてもなあという気持ちだ。ミステリーの本筋は、あくまで事件への道筋やトリック、その解決の鮮やかさや納得度だからだ。

 

ところがこの設定は、第一の事件、第二の事件の謎解きにもしっかりと絡んできている。

「ゾンビによる殺人を、人間による殺人に見せかける」は、自殺や事故を他殺に見せかけるトリックの亜流だが、ゾンビだとまた可能性が広がる。

「ゾンビを凶器として使う」という発想も面白いと思った。

またそういう事件の中で、「ゾンビ」という存在のとらえ方、見方が人によって違う、と主人公が考えるのはすごく良かった。

ただの奇抜なトンデモ設定ではなく、事件におけるトリック、登場人物の設定や動機などにもしっかりからめてきている。

この話がリアルラインを逸脱していても気にならないのは、「ゾンビによって閉じ込められなければ成り立たない話」だからだ。

ゾンビによってクローズドサークルが形成されなくとも、美冬は殺人を起こす決意だったが、その時に起こる殺人事件は「屍人荘の殺人」とはまったく別の物語になる。

 

ただ(2)のほうは、若干気になった。

一番気になったのは、バイオテロを起こした後日談がかなりあっさり収束したことだ。

いくら世間が忘れっぽいとはいえ、さすがにこの規模のテロ行為が犯人不明のまま、二週間で収束してしまうということはあり得ないだろう。地下鉄サリン事件などと比べれば、かなり不自然な印象は免れない。

現代の日本でこの規模のテロ行為を「誰かの意図が働いて」二週間で収束できるというのは、「作者の意図以外では難しいのでは?」と突っ込みたくなる。

個人的には「リアルライン超え」は、「それは書き手の都合でしょう」と読み手に思わせたら失敗だと思う。

ただ次回作を想定してのことなのかもしれない。この物語は、班目機関にまつわる壮大なストーリーの冒頭に過ぎないのかもしれないので、そうであれば続編で納得のいく説明がなされるのかなとも思う。

 

 ②登場人物の設定や行動原理は、正直そうとう厳しいなと感じた。

かなり矛盾が目立つし、作者の好みが優先されているのでは、と思ってしまう。

一番気になったのは、犯人である静原美冬のそれぞれの行動の動機だ。

突然、ゾンビという非現実的な生物に襲われ、自分も含めた全員が生命の危機に瀕している。殺そうと思っていた出目はともかく、サークルの仲間である星川や自分を助けてくれた明智も犠牲になっている。

そんな状況を利用したトリックをとっさに思いついて、やろうと思うだろうか?

 

相当、臨機応変かつ冷静な思考力と強い意思と実行力を持たないと難しいと思うのだが、そういうものを持っているのならば、そもそも殺人ではなく標的の三人を社会的に破滅させられそうな気がする。

立浪の殺害方法も「二度殺してやろうと思った」のように、あっさり殺すよりも苦しめて殺してやりたい、という気持ちが先行している。そういう中で、これだけの頭と度胸を持っていて自分の人生を捨てているのに、殺人という方法をとったのがよく分からない。

沙知が妊娠していたから、というならばもっと精神的に追い込んでの復讐、という方法を取りそうな気がするし、それだけの能力は持っていると思うのだが。ゾンビに取り囲まれても自分の復讐を優先するのだから、現実的なもので怖いものなんてないだろう。

 

また標的三人の殺害を、閉じ込められた他の人たちの生存よりも優先している、(物語の中で、全員貴重な戦力だから生き残りを優先するならば殺すはずがない、という言葉が何回か出てきている。)のに、いざとなると犯行が発覚するリスクを犯して他人を助けようとするのがよく分からない。

殺人の意思は固く、他の人の生存よりも優先されるけれど、それでも確実に死ぬと分かっている人を見捨てられない。

そう言われてみればそういうものかな、と思うけれど、立浪を人間としてゾンビとして二度殺したいために、この状況下で他人に翌日も体に不調が残る薬をもっておいてそう言われても……という気はする。

しかも飲まない人がいる可能性を考えないのは……急に思考力が落ちたのか? と不思議な気がする。

 

ひと言でいうと、美冬というキャラの行動原理や思考力、物事の優先順位がその場その場で変わるので、一人の人物としてすごく不自然に思える。

人間というのはもちろん矛盾はあるけれど、他人から見て矛盾に見えても「その人物」というフィルターを通すと実は矛盾ではない、そのフィルターの名称が「人格」だ。この人格というフィルターが機能していないのが、人格が分裂している「統合失調症」という疾患だ。

美冬というキャラは法則性のある「人格」が見えてこないために、このフィルターを「物語の都合、もしくは作者の物語(人物ではない)の好み」と考えるしかないキャラになっている。

 

人物の設定や「人格というフィルター」の多少の目詰まりが許されるリアルラインは、小説ではライトノベルと呼ばれるジャンルだ。「ある部分では冷酷なサイコパスなのに、ある部分では聖女のような性格」などの極端な設定もある程度許容される。

探偵役である剣崎比留子の設定や語り手の葉村が美冬の行動を見逃した理由など、②はかなりリアルラインに引っかかる箇所が多い。

葉村の場合はそもそも美冬に黙ってもらう以前に、葉村自身にとって「その行為が耐えがたい悪」なんじゃないのか? 他人にバレなければいいのか? 

「他人にとってはさほどではないことでも、葉村にとっての死人の荷物に手をつけること許されざること」だからこそ、いまいち納得がいかない説明だなと思った。

 

登場人物の人格や設定は、極端にしたり作りこめばこむほど、その人物の行動を縛る。その縛りを無視すれば、読み手から見るとどうしても不自然で納得がいかないものになってしまう。

この点が、自分が「屍人荘の殺人」を読んで一番気になった箇所だ。

ちなみに「人格というフィルター」の目を限りなく粗くする(人物を記号化する)という手法と「本格ミステリー」は相性がいい。そもそも人格がないのであれば、その人物がどんな行動をとっても基本的には不自然ではないからだ。

ただそうすると「読み手に登場人物の名前を覚えてもらえない」などの弊害が出てきたりもする。

 

まとめ&余談

ちょっと不自然だな、と思う設定はあれど、ただただ読者を驚かせるためだけに奇抜な設定や展開を単発で使っている、と思わせるものはなかった。(そういうものは読んでいて白けてしまう。)

全体的に雑多で斬新な設定が一本の筋に綺麗にまとめられていてとても面白かった。選評を読んでも、その辺りが評価されての受賞なのかな、という印象を抱いた。

明智の死も、ホームズとワトソンの関係からの新たなホームズの登場に回収されていて良かった。

二人探偵が出てきて片方が死ぬ、もしくは探偵だと思っていたキャラが退場して新たな探偵が現れる、という展開は、そろそろスタンダートな設定になるかもしれない。

 

優秀作を受賞した「だから殺せなかった」も発売される予定のようなので、こちらも読んでみたい。筋と選評を読んだら、かなり面白そうだ。