色々と思うことがあるので書くことにした。
実写ドラマ化する「幸色のワンルーム」への批判から派生した話。
自分は基本的には、完全な創作であれば、その内容が現実の道徳や倫理に反しているという理由で世にあることを否定されるべきではないと思っている。
それについては、宮崎勤が起こした事件の後に起こったホラーバッシングへの怒りから「殺人鬼」を書いた綾辻行人の姿勢や、後書きで書かれたメッセージを支持する、という記事を以前に書いた。
否定されるとしたら、名誉棄損やプライバシーの侵害、著作権侵害などの実在する特定の個人、もしくは団体、属性の権利を侵害しているものに限る。公共の利益などとの絡みがあるので一概には言えない部分もあるが、基本的にはそう考えている。
年齢制限やゾーニングについては、考慮されるべきだと思っている。
完全なフィクションについてはそう考えているが、実際の事件や出来事をモデルにしている創作品はどうか?
犯罪内容を描いた創作物はいくらでもあるし、実際の事件をモデルにした創作物は数多く発表されている。
「幸色のワンルーム」については、自分の感覚ではどの事件であれ、実際の事件をモデルにしているとは特に思わなかった。
ありがちな設定のありがちな物語だな、というのが正直な感想なので、いい意味でも悪い意味でもなぜこんなに騒がれるのかがよくわからない。
ただどうも心のどこかで何かが引っかかっている。
この心に引っかかる「何か」は何なのか。
それを考えながら書きたい。
以前、現実の事件とフィクションとの関係性で、心の引っ掛かりを感じたことがある。
重松清の「疾走」だ。
「疾走」はある少年の苛酷な運命を書いた小説だが、この少年の生い立ちが実際にあった事件の犯人と似ている。作者が明言していないのではっきりとは分からないが、偶然とは考えづらい類似だ。
それでいながら最後に犯す犯罪の内容や、彼が犯罪に至るまでの経緯は、小説と実際の事件ではかなり違う。
実際の事件では、何の罪もない人が命を落としている。しかし小説では、好きな女の子に性的虐待を加えていた人間を刺したうえで射殺されている。
ひと言でいうならば、主人公である少年に同情し、感情移入する作りになっている。
この小説に感情を動かされることで、何だか実際の事件の犯人に加担しているような気持ちになった。(あくまで自分が勝手になっただけだ。)
モデルとなったとおぼしき犯人が起こした事件は、当時、自分が頻繁に行っていた場所で起こった。
「殺されたのが自分や自分の友人知人でもおかしくなかった」
そういう自分の日常を浸食するような「物理的な近さ」を感じたのは、この事件だけだ。
それなのに自分がただただ運よく殺されなかったから、ああよかった、と言って、犯人側の事情を聞いたら同情するのか。
どの事件の話を聞いてもそういう側面があるが、それをはっきりと体感したのはあの事件だけだ。
「疾走」は、小説単体として見るならば素晴らしい小説だ。
でもどうしても、フィクションとして、現実と切り離して読めない。
この小説に感動することは、何の罪もなく、ただただ運悪く命を落とした人を傷つけることになるのではないか、それは自分だったかもしれないのに。もし自分があの事件で殺されていたら、この小説に対してどんな気持ちを抱くだろう。
小説の素晴らしさを認めながら、一方でどうしてもそういうことを考えてしまう。
「疾走」ほどではないが、「八日目の蝉」もかなり複雑な気持ちになる。
「八日目の蝉」は映画化もされたし、NHKでドラマ化もされた。
作者が明言しているかどうかは分からないが、1993年に起こった「日野OL不倫放火殺人事件」を彷彿とさせる設定だ。
下記の記事では「この事件をヒントに書かれた小説」という文言が出てくる。
「日野不倫殺人事件」北村有紀恵受刑者をめぐる24年目の新展開(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース
不倫相手の自宅を放火し、子供が二人亡くなっている。
犯人は不倫相手の子供を誘拐することも考えたようで、その「もしも」が「八日目の蝉」のヒントになっているようだ。
「八日目の蝉」は主人公の希和子の行動を否定的には描いておらず、むしろその心情に寄り添ったストーリーになっている。
あるいは「殺されないで、誘拐だとしても大切に育てられて生きた可能性」を追求することで、亡くなった子供の救済の意味合いもこめたのかもしれない。
実際の事件を彷彿させようが、フィクションとして楽しめばいいのかもしれない。
でも実際には少なくない人が結びつけるほど、内容に類似点があるし、そうであれば切り離して考えることは難しい。
同じように実際の事件をモデルにしたり描いていても、「グロテスク」や「冷血」はそれほど引っかからない。
「疾走」と「八日目の蝉」が引っかかるのは、物語が加害者側に寄り添っているように感じられるうえに、ところどころが加害者に有利な筋になっているからだ。
それも「あくまでフィクション」と銘打っていれば自由なのか?
この辺りは自分でも答えが出ないのだが、とにかく心情的に引っかかりは感じる。
だがそのうえで自分はこの二作を否定しないし、排除されるべきではないと考えている。
自分が「実話をモデルにしたり元にした創作品で、その存在を否定する」のは以下の条件がすべてそろったときだ。
①著者がその事件を基にしている、と明言している。もしくは特定の事件をモデルにしている、と断定できるほど酷似している。
②事件関係者の(特に被害者の)内面や周辺事情に踏み込んでいる。
③②をするに当たって、関係者の証言などの事実に対する綿密な取材が行われておらず、犯罪に至るまでの経緯、被害者や加害者の環境や心情の描写が、作者の創作や憶測部分が多い。
④③において、事実よりも自分の書きたいことを優先させている、という作者の姿勢が顕著。
⑤その事件をモデルにした必要性が、「刺激が大きい」以外にほぼ感じない。
⑥③や④⑤に代表される姿勢など、作者に実際の事件を扱い、向き合う真剣さが見られない。
この条件がすべてそろったときは、該当した作品は恐らく否定する。
「綿密な取材」とは、どこまで取材したら「綿密」なのか? 「実際の事件に向き合う真剣さ」は誰が判断するのか、など基準が非常に曖昧だ。
結局のところ、自分の基準で許せるか許せないかの話でしかない、というのはその通りだと思う。
ただ自分の中で「引っかかる、引っかからない」も、この辺りが基準になっている。
「疾走」と「八日目の蝉」は、③と④が引っかかる。
この二作は、実際の事件やその犯人を描くことを目的としているのではなく、その事件の一部を用いて作者が自分の描きたいテーマを描いたのだと思う。
その描かれたものが、作者がそのテーマに真剣に向き合ったものであるため深く心を打たれる人もいるだろう。
実際自分は「疾走」には、深く心を打たれた。
だからこそ余計に複雑な、どう考えていいか分からない気持ちになる。
では「幸色のワンルーム」はどうか?
自分の中では、仮に①が当てはまった場合、「幸色のワンルーム」は②③④⑤⑥すべて当てはまると考えている。
好きな人には申し訳ないが、描写のすべてが軽いし、リアリティも感じられない。
「誘拐」や「虐待」「いじめ」という、どれをとってもおろそかには扱えないテーマを、自分の書きたいことのために利用しているだけのように見える。
「自分を不本意な境遇から見返りなく救い出してくれ、何をしても自分のことが好きで全肯定してくれる人が欲しい」
というよくある話に、特に必要性もないし、向き合うつもりもないのに重い設定をてんこ盛りにする気持ちがよく分からないし、不快にも感じた。
自分が「幸色のワンルーム」に感じた心の引っかかりは、現実へのつながりはまったく関係なく、そこだったのだと思う。
「幸色のワンルーム」を批判している人の中には、実際の事件の被害者の心情を、この漫画を根拠にして憶測し、誹謗中傷する人間が許せないという人もいた。
その気持ち自体は分かる。
しかしその批判の矛先を、事件との関係を明示されていない創作品に向けるのはどうだろう。
自分はこの二つは、まったくの別ものだと考えている。また他のどんな実際の事件とも、結びつけて考える類似性も必要性も感じない。
批判目的であれば「結びつける人間がいるから、創作品を排除する」のではなく、「まったく似ていないものを、結びつけるのはおかしい」という方向性で、結びつけて語る人間の言動を批判したほうがいいと考える。
「その作品の内容が、実際の事件の被害者の心情の根拠になりうる」という可能性自体を否定し、排除したほうがいい。実際に何の根拠にもなりえない。
創作品そのものを排除しようとするのは、「根拠になりうる可能性」を暗に認めることだと自分は思う。
「そのふたつを結びつけて考える人間がいることが問題だ」というのは、あくまで「結びつけている人間の問題」だ。
その創作品が「結びつけている」と明言しているならばともかく(これが条件①)、結びつけられた側の問題ではない。
他人が何かと何かを結びつけて考えることを防ぐ手立てはない。「ライ麦畑でつかまえて」に影響を受けて人を殺す人間がいるのだ。
多様な人間が多様な創作物からどんな影響を受けるのか、どんなことを読み取るのか、ということを正確に類推することは不可能だ。
その影響からほんの少しでも害であることが生まれるならばその作品は有害である、と言うのならば、この世から全ての創作物を失くすしかなくなる。
自分はこの漫画にそんなに強い力があるとは思わない。
特定の事件がどうこう以前に、現実の生きた人間に結びつけるには、設定も登場人物の心情もリアリティを感じられない。
主要登場人物の二人が、自分の心境や行動の動機を延々と言葉で説明するので、読んでいると辟易してしまう。物語というよりは、キャラの口を借りた自己主張に見える。
個人的には、「アカギ」の鷲巣麻雀編に似ていると思う。「アカギ」は七巻までは本当に面白かった。
「作品としては素晴らしいフィクションと、モデルとなった実際の事件との折り合い」については、なかなか答えが出ない。
「疾走」のような作品に出会ったときに、自分はためらいなく、これはフィクションだから現実とは何の関係もない、と自分自身を納得させられるのか。
心を動かされることに、引っ掛かりを感じないか。
もう少し考えたい。
山本直樹「レッド」は、④の観点で疑問を呈している。
北九州監禁殺人事件の犯人たちの息子さんが、「あの事件の犯人たちの息子がマトモに育つわけがない、とさんざん言われて苦しんだ」というのを聞いて、申し訳ない気持ちになった。番組を観なければ、自分も何かの拍子に言ってしまっていたかもしれない。
実際に起こったことに関しては「まずは知る」ということを、出来うる限り大切にしていきたい。難しいことだけれど。