うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

ポル・ポト政権下のカンボジアと、物語論の接続を試みた野心作 小川哲「ゲームの王国」感想

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小川哲「ゲームの王国」を読み終わった。

 

この本はとても不思議な本だ。公式のジャンルはSFなのだが「どういう本か?」と言われるとひと口では説明ができない。

レビューを見ると上卷と下卷の評価に落差がある。

上卷の主筋と下巻の主筋がかけ離れているので、「上卷が面白いと思ったのに、下巻でがっかりした」という感想も多い。話も五十年くらい飛んでいるのでついていきづらいし、上卷で語られた物語の結末が下巻、というわけでもないので、何だかスッキリしないという意見も分かる。

 

「ゲームの王国」あらすじ

サロト・サル(ポル・ポト)の隠し子であるソリヤは、優しい養い親に育てられた。しかし両親は共産党員と疑われ、苛酷な取り調べの末に殺されてしまう。

ソリヤが流転の末に神童ムイタックやその兄ティウンと運命的な出会いをしたちょうどそのころ、ポル・ポト率いるクメール・ルージュがプノンペンを占領した。

ロン・ノル政権の厳しい弾圧に苦しんでいた民衆は、ポル・ポト政権の誕生に歓喜の声を上げる。しかしその後カンボジアを待っていたのは、ロン・ノル政権下よりも厳しく苛酷な強権政治だった。

都市の人々は強制的に農村に移住させられ、お互いを監視し合う共同生活を強いられる。子供は親から引き離されて兵士として育てられ、少しでも挙動が怪しい者はより苛酷な環境に送られるか殺された。

ソリヤはカンボジアを、公正なルールが敷かれ誰でも平等に生きられる「ゲームの王国」にすべく、政権の打倒を目指す。

しかしその過程で夫に反体制の容疑をかけられ、その容疑を晴らすためにムイタックが住む村の人々を、子供も含めて虐殺しなければならなくなった。

村の虐殺にソリヤが関わっていることを知ったムイタックとティウンは、人生を賭けてソリヤに復讐することを誓う。(上卷はここまで)

 

五十年以上の時が経ち、ソリヤはあと一歩で政権が取れるところまで登りつめていた。ティウンもカジノを経営する富豪になっており、ここに至るまで何度もソリヤの邪魔をしてきたが、彼女のほうが常に一枚上手だった。

ムイタックは大学教授になり、脳波の研究をしていた。彼が研究している脳波は「P120 」と呼ばれるものであり、人が目の前の事象を認識する前に現れる脳波だ。

「事象を認識する前に反応が起こる」という特異な性質から、ムイタックはP120 は「未来を予知する脳波」であり、その人物がこれから起こることをどう解釈するか、ということを圧縮した「小説」ではないかと考える。

ムイタックはP120に反応してキャラクターが動作をする「チャンドゥク」という、ゲームを開発する。

特定の動作をするためには、特定のP120を発生させなければならない。

ゲームが広まるにつれて、プレイヤーたちが「自分たちが経験していない記憶を想起することによって、P120を発生させる」という異常な現象が起こり始める。

 ムイタックは自分のP120を測定させ、様々な物語を組み立てる。彼は二番目に気に入っている物語をソリヤの養子で、自分の教え子であるリアスメイに語ってきかせる。

ムイタックは「チャンドゥク」を開発する中で、自分の人生の物語が「ソリヤともう一度戦いためだけにあった」ことを悟った。

ソリヤが暴漢に襲われ刺殺された日、ムイタックも彼女と再び戦うために死ぬ。

 

「物語」の仕組みを解き明かす物語

ポル・ポト政権下の苛酷な環境の描写はリアリティがあるし、そこで生き延びようと奮闘する神童ムイタックや美少女ソリヤ、輪ゴムのクアンなどの登場人物も非常に生き生きと描かれている。

激動の歴史の中で、めまぐるしく展開する「動の物語」だった上巻に対して、下巻はいきなり上巻の物語を俯瞰して解体する「静止した物語」になる。上下巻は物語が同じ地平でシームレスに続くのが普通だが、「ゲームの王国」は違う次元に飛び移ってしまっている。

読者が戸惑ったり、ガッカリするのも無理はないし、自分も最初は「何だかなあ」と思った。

 

ただ最後まで読んで、何となくこの小説がやりたかったことが分かったような気がする。

この小説は「人はみな、自分個人の物語を生きている」という言葉における「物語」の仕組みの解体をやりたかったのではないか、と感じた。

普通は抽象的に雰囲気で語られる「個人が個人の物語を生きるとはどういうことなのか。個人の物語と現実との関係とはどうなっているのか?」ということを突き詰めて考えようという発想自体、よく思いついたなと思う。

また作者が考える(と自分が感じた)「物語」という装置の仕組みは、自分が考える「物語」の本質と近いので、大変興味深く読んだ。

 

下巻で語られる「個人の物語の成り立ちと仕組み」は非常に面白い。

ソリヤとムイタックの幼いころのゲームの勝敗の記憶の食い違い、「土の声を聞くために死ぬまで土を食べ続けた」泥の一生など、「ゲームの王国」では個人の哲学や信仰=「物語」の強さが色々な形で語られている。

「土を食べ続ければ土の声が聞こえるようになる」という泥の「物語」は他人には馬鹿らしいものであっても、彼の土の種類に関するコンサルティング能力は本物だ。

生まれ育った村での虐殺行為、という同じ事実を経験しても、クアンとティウンの記憶が異なるように、事実のうち何を記憶するか、そしてその記憶をどういう風に解釈するか=「物語」は人によって違う。

クアンがティウンの記憶とは違い、ソリヤがその場にいて虐殺を指揮していたという記憶を持つように、人は物語の中で時に事実すら飛び越えて、物事の本質=真実に至ることもある。

クアンの輪ゴムへの信仰も、他人から見れば馬鹿馬鹿しいものだが、クアンにとっては神聖な真理だ。

そしてその物語は強度によっては、多くの人々に影響をもたらす。

輪ゴムが切れるたびに人が死ねば、例え偶然にすぎないにしても、クアンの輪ゴムの信仰を信じる人が大勢現れる。そして大勢の人が信じれば、それは真実になりうる。

人はみな他人には荒唐無稽に見えかねない「自分だけの物語」を生きている。

 

「ゲームの王国」はカンボジアの歴史を語っているようでありながら、実はムイタックの個人的な物語だった。

そしてムイタックの個人史をカンボジアの歴史と錯覚(という言い方も適当ではないのだが、他にいい言い方が思いつかない)させるために、つまり読者にムイタックと同じP120を発生させ、自分の物語として味合わせるためにこういう構成になっているのではないか、というのが自分の考えだ。

 

その「物語」の仕組みを解体するための土台として、「ポル・ポト政権下のカンボジア」という現実の歴史を選んだことについては、賛否は分かれると思う。実際、「他国の凄惨な歴史を自分の思考の道具にしているのでは」という方向性の感想も読んだ。

自分は上卷全てを使ってその歴史を詳細に書き込んでいるので、仮にそれが作者の書きたいことの前提に過ぎないとしても、十分カンボジアの歴史に敬意を払っていると思っている。

ポル・ポト政権下であったことは何となくは知っていても詳しくは知らなかったので、そこでの生活が描かれた上卷も読み応えがあった。

 

また「ポル・ポト政権下の時代」そのものが、ポル・ポトの個人的な物語(P120)を人々が共有してしまったのではないか、と考えることもできる。

上卷に描かれたポル・ポト支配下のカンボジアの状況は、覚めない悪夢のようだ。単にひどいというだけではなく、余りに不合理だし非現実的だ。しかしこれは紛れもない現実なのだ。

物語は、そういう異常で恐ろしい 力を持つことがある。

日本でも、麻原彰晃の馬鹿馬鹿しいとさえ思える「悪夢のような誇大妄想的なお話し」が具現化してしまった。

 「個人のP120=物語」が「客観的な歴史」になってしまうことがある。 

 

他人から見て、それが事実ではなく勘違いの集積に過ぎないにしても、その個人にとっては「自分が生きた物語」こそ真実なのだ。

だからこそ、人は過酷な境遇にも環境にも潰されることなく生きる強さを持つことができる。 

ティウンにとってはそれが「天才である弟ムイタックを守ること」であり、泥にとっては「土を食べ続け土の声を聞くこと」であり、クワンにとっては「輪ゴムの神秘」だった。

ソリヤにとってはカンボジアを「ゲームの王国」にすることであり、ムイタックにとっては「もう一度ソリヤと戦うこと」だった。

 

苛酷で理不尽な環境下に生まれながら、彼らは自分たちの物語を生き抜いた。実際にカンボジアのポル・ポト政権下で生きた人たちも「虐げられた可哀相な人々」ではなく、強い意志で自分の物語を生きたのではないか。

物語の恐ろしさと同時に、歴史の重みに押しつぶされない個人の物語の強さと尊さが描かれていると思う

 

「ゲームの王国」は、個人が語る自分独自の哲学が印象的だ。マットレスが信望する綱引きとか。

泥の「チャーハンの声が聞こえるようになった」には笑った。何でチャーハン。泥は言っていることが無茶苦茶すぎて好きだ。

上卷と下卷のあいだの物語も読んでみたかった。残念。