うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語るブログ。

「自分の育成に失敗した」増田を読んで思い出した、中学校時代の先生の話。

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この増田を読んで、学校の先生のことを思い出したのでつらつら書く。

増田の内容とあまり関係ないかもしれない。

 

自分は学校の先生に対する思い出が薄い。存在自体はさすがに覚えているが。

 

保育園、小学校低学年のときはほとんど記憶がない。

小学校四年生。ベテランの男の先生。クラスをまとめるのがすごく上手かった。

小学校五年生のときの四十代くらいの女の先生。物語のワンシーンを描く授業でイタチと蛇が戦うシーンを描いたら、「きゃあ! 蛇!」と言われて絵を放り出された。それが唯一の思い出。

 

中一のとき。前にも書いたけれど、ひどいクラスだった。

ここで生徒からのイジメでやめてしまった臨時の若い女の先生は、自分が感情と共に覚えている数少ない先生だ。

産休に入った担任の先生のことはほとんど記憶にない。

この件について若い女の先生に相談されたらしく、若い女の先生が辞めたあと「みんなも大人になれば分かるよ」と学級会で言われた。

中二。(たぶん)四十前後の男の先生。特に記憶がない。

高校のときは上記記事で書いた通り、行ったり行かなかったりだったのでほとんど覚えていない。

 

学校には色々な先生がいた。評判のいい先生もいたし、悪い先生もいた。嫌なことを言う人もいたし、それなりに熱心な先生もいた。

でも自分は、今でも懐かしいとか、個人的な感情と共に思い出す先生が誰もいない。

小学校五年生のときの出来事もその時はイヤだったけれど、じゃあその先生が好きか嫌いかと言われると、そもそもそんなことを考えたことがなかった。

 

教師は「教師という機能」であり、好き嫌いで考える対象ではない。

 

たぶんあのころの自分にとっては、この認識が当たり前のものだった。学校というシステムを回す機能の一部だから、先生の個性を付属品程度にしか考えていなかった。

「担任」は「担任」という機能であり、「英語教師は英語を教える人」という機能にすぎない。何かを考えたところで、子供である自分は学校に行かざるえないし、その学校の一部である教師という機能について考えても仕方がない。

友達の話には多少合わせて「あの先生が好き嫌い」と喋っていたけれど、それは処世術みたいなもので(これがきつかった)実際はまったく興味がなかった。

 

自分に救いがない点は、みんなもそうだと思っていた点だ。みんな本当は興味がないけれど、とりあえず共通の話題として喋っているのだろうと思っていた。

だから「〇〇先生のことが大好きでした」みたいなことを言っている人を見ると「すごいな、そこまでやるのか」と思っていた。

このころの自分にとって「現実」のすべてが、生きるために大過なくそれなりの基準でやり過ごすだけの課題のような感覚だった。

 

いまこうやって書いていると色々な意味でひどい。

さすがにその点ではあの頃よりは少しは成長したと思うけれど、考えていることと言えば相変わらず漫画やアニメ、本やゲームのことばかりだ。

この年になっても、銀英伝について熱く語っているとは思いもしなかった。ぜんぜん変わんねえ。

 

自分は中学を卒業してから、よく学校をさぼるようになった。

最初は学校に行ったふりをしていたが、もちろんすぐにバレた。

親は「なぜ、学校に行きたくないのか」と色々と聞いてきたが、むしろ「なぜ学校に行きたいのか」こちらが聞きたいくらいだった。人間関係を維持する処世術を常に要求される学校という場所は、自分にとっては負担と苦痛が大きすぎた。

でもそう言っても、理解されないことは分かっている。

お決まりの「仕事はもっと大変だぞ」とか「好きなことばかりして生きていけるわけがないだろう」と言われるのは分かりきっていたので、説明するのが面倒だった。

このころは親や大人の言うことを真に受けて「きっと大人になったらもっと大変なんだ」と震え上がっていた。

実際は自分は大人になってからのほうがずっと人生が楽だし、学校に行くよりは仕事をしているほうが好きだ。

  

自分の感じていることをそのまま言っていもきっと理解されないだろうと思っていたので、親が納得しそうな理由をひねり出そうともした。「いじめられている」とか「クラスの誰それから嫌がらせを受けている」とか「先輩に目をつけられた」とか「ひどい教師がいて心を傷つけられた」とか。

親が真に受けたときに辻褄を合わせられる自信がなかったし、やり玉に上げた人に申し訳ないと思って(当たり前だ)さすがにやめた。

自分はどこかおかしいんじゃないか、と思っていたし、そのおかしさを治そうと頑張ってもきたけれど「おかしくないように維持すること」がもう限界なんだ。そんなこと説明しても誰も分からないし、そのおかしさでこんなに周りを困惑させてこれからも生きていくのかと、考えれば考えるほど憂鬱だった。

 

自分が学校に行きたくないはっきりした理由を言わない(はっきりした理由なんてない、ということが納得できない)親は、「中学校三年生のときの担任の先生に相談してみたらどうか」と言い出した。

中学校三年生のときの担任の先生は、自分の感性がおかしかったことを差し引いても、大人しく影が薄かった。仲のいい生徒がいたりするタイプではなく、逆に恐れられたり、嫌われたりするタイプでもなかった。

若い女の先生だった。

自分が中学三年生のときは若い先生が多かった。松本先生だったら「まっちゃん」青木康生先生だったら「こうせい」、田中美穂先生だったら「みほちゃん」とみんな陰で、時にはふざけて目の前でも呼んでいた。

ところがこの女の先生は、みんなから一様に「成田先生」と呼ばれていた。成田先生は誰からも興味を持たれている感じではなかった。

 

一年間担任だったが、まったく仲良くなく、個人的に話したことすらない。そんな相手に何を相談しろと言うのだろう、大人というのはまったく無茶苦茶だ、と思いながら、親を納得させるためだけに仕方なく電話をかけた。

そのとき、何を話したのかまったく覚えていない。何を話されたのかも覚えていない。

電話をかけて話して電話を切って、「言われた通り相談したぞ」と親に対して思ったことしか覚えていない。

成田先生が親のように「大人はもっと大変だ」と言ったなら覚えているはずだ。

教師として色々な人生訓を話したなら、覚えているはずだ。

過度に心配されたり、しつこく質問されたなら覚えているはずだ。

そのころの自分は、そういうものに本当にうんざりしていたから。

成田先生は、このどれも話さなかった。

「相談してくれたんだから、元担任として頑張らなきゃ」という気負いのようなものもなかった。学校にいたころのまま「影の薄い担任と影の薄い生徒」の距離感で話したと思う。

 

年明けの正月に、成田先生から年賀状がきた。普通に近況が書かれ、普通に近況を聞くものだった。末尾に唐突に「大丈夫だよ」と書かれていた。余りに唐突だったので、「何の話だろう」とポカンとした。

ひどいもので自分は年賀状を出していなかったので、近況を書いて返信した。

それきりだ。

 

今でも「学校の先生」と聞くと、成田先生のことを思い出す。

親に言われてかけた「何の意味もない」と思った電話と、「大丈夫だよ」と書かれた訳の分からない年賀状のことを思い出す。

どう考えても他にもっと熱心で、教師らしくいい先生はたくさんいた。

でも「元気かな、元気だといいな」と思うのは、成田先生だけだ。

 

自分がいま、まあまあ楽しく元気にやっているのは、ある程度成田先生のおかげだと思っている。何故なのかは分からない。ただ、そう思っている。

 

成田先生はあのころ何を思っていたんだろう。

教師に向いていると思っていたんだろうか? 他の先生と自分を比べたんだろうか? 生徒のことをどう思っていたんだろうか? そんなことは考えもしなかったんだろうか? それともそれなりに悩んでいたんだろうか?

 

自分は、増田のような人にも教師になって欲しいなあと思う。

自分が想像する以上に大変な職業だと思うし、本人の気持ち次第なので押し付けることはできない。責任は重いし、「適性のある人以外はならないほうがいい」という人がいるのも分かる。

でも自分は悩んでいる生徒に上手く声がかけられなかったり、距離感が下手くそだったり、生徒に子供のころの自分を投影しているんじゃないかと悩んだり、自分は本当に教師に向いているのかどうかよく分からない、ダメな先生かもしれないと思っている先生がいてもいいと思う。

そういう先生にもいて欲しい。

 

成田先生は自分たちが卒業した数年後に、若くてイケメンで人気があった体育教師「まっちゃん」と結婚した。先生同士でも恋愛をするのか、ということも当時の自分にとっては衝撃だった。

まっちゃんの家は割と由緒正しき家で、成田先生との結婚を反対されて、成田先生が身を引こうとしたけれど、まっちゃんが追いかけたとか、どこまで本当か分からない話が風の噂で流れてきた。

明るくて誰とでも仲良くなれて、いかにも教師という仕事に情熱を持っていそうなまっちゃんが自分は何となく苦手だった。でもその話を聞いてから、まっちゃんに対する見方が少し変わった。

あのころ自分は、本当に何もわかっていないクソガキだった。

 

他に書くことが思いつかなかったので「刑事コロンボが好きで、昨日見ました」と日誌に書いたら、「へえ、私も好き」と返事をくれたことが、成田先生の在学中の一番の思い出だ。