この番組を見て、「そういえばそんなことがあったなあ」と思い出した。
1995年3月、地下鉄サリン事件の直後に起こった「警察庁長官狙撃事件」。
2010年に時効を迎えたこの事件の真犯人を名乗る男から、2013年にNHKに手紙が届く。
手紙の主は、現金輸送車襲撃事件で無期懲役の判決を受け、服役中の中村泰(ひろし)。若いころ武装革命を画策した男で、隠れ家には無数の銃や弾薬、武器に関連する資料が隠されていた。
早い段階から、オウムの捜査を担当していない刑事部から「中村犯人説」が浮上していた。
国松長官は最初に撃たれたあと、うつぶせに倒れている。
犯人はうつぶせに倒れた長官も、離れた物陰から正確に狙撃している。最初の狙撃も離れた距離で並んで歩いている二人のうち、奥にいた国松長官を狙って致命傷を負わせている。
至近距離ならともかく、どちらも被害者から二十メートル近く離れた物陰からの銃撃だ。銃撃に関してはまったく知識はないが、そうとう訓練を積んでいないと難しいのでは?と思う。
犯行に使われたのはコルト・パイソンという銃で、「護身用に持つ」という感じの銃ではない。弾丸も国際条約で使用が禁止されている、殺傷能力が高いものだ。
オウムも武器を製造していたが、本格的な軍事訓練をしていた様子はない。
また犯行の正確さや手際の良さは、オウムの一連の犯行の細部の雑さとは一線を画しているように思える。
実行犯として元オウム信者の巡査長が捕まったが、調べても証拠が出てこない。
そういった状況から、「これはオウムの仕業ではないのでは?」と思っていた捜査員は当時から少なからずいたようだ。
自分がこの番組を見て怖いと思ったのは、決して少なくない人が「オウムの仕業ではないのでは」と思っていたにも関わらず、みな一様に「一度組織全体が一定の方向に向かい出すと、そういうことを言うわけにはいかない」と言っていることだ。組織の中ではそれなりに力があると思われる幹部クラスの人間でさえ、そう口にする。
特に強い印象を受けたのは、時効間近に出た「今さらオウムの仕業ではない、ということになっては困る」という言葉だ。
そしてこの言葉通り、時効を迎えたとき未解決にも関わらず、警察はこの事件を「オウムの犯罪」として公表した。そのためオウムの後継団体であるアレフから、訴訟を起こされている。(アレフ側が勝訴し、警察によるアレフへの名誉棄損が認められている。)
この事象が怖いのは、警察内部にも「違うのではないか、おかしいのではないか」と思う人が多くいたのに、一度「組織の論理」が発動しその歩みが積み重なってしまうと、内部で強い権力を持つ人間すらその歩みを止めることができなくなるところだ。
普段は社会に溶け込んでいる穏やかな共同体も、一度力が発動されその内部が結界になると、事実はもとより個人の尊厳も生命も権利すら紙ぺらよりも薄くなる。
共同体の内部では、事実と真実は異なる。
共同体が異常な磁場になっているとき、共同体の真実の前で、事実は何の意味も効力も持たない。
共同体の外では当たり前のように働く法則や論理、倫理もその磁場に一歩足を踏み入れた瞬間、まったく働くなくなる。
「組織」「共同体」「世間」という内実が分からない得体が知れないもの、そういうものが意思を持っているものかのようにその内部にいる人たちを支配してしまう。
一人一人は良識を備え、普段は他者を尊重し、自分の意思をしっかりと表明できる人でも、共同体の論理が暴走し始めると、意思や感情を持つ個人ではなく「共同体の一部」になってしまうことが往々にしてある。
国家権力だろうと反社会的勢力だろうと民間企業だろうと、「組織の内部の論理の悪弊」はほとんど変わらない。
組織にもいい部分、悪い部分がある。人間が完全な個人で生きていけないこともわかる。
しかし、こういう「組織」の理不尽な暴走と、そこで個人の意思が濁流のように飲み込まれてその一部になってしまうという構図は、その組織がどんな組織かに関わらず、常に自分の気持ちを暗くさせる。
オウムが自分たちの犯罪を正当化した構造を、番組内で警察が同じように繰り返しているのを見てどうしようもなく気が滅入った。
警察というのは強大な権力機構だから、根拠もなくコロコロ方針を変えられないことは分かる。幹部でさえ疑問に思っても捜査の方向性を急には変えられない、というのはある意味権力が分散しているからと言えないこともない。
でも事実の辻褄が合わず、調べても証拠が出ず、現場にいた多くの人たちが疑問に思っており、しかも結局は証拠を揃えられなかったのに、権力機構が「オウムの仕業である」という声明を発表するのは恐ろしいことだ。
オウム内部の論理に飲み込まれて、殺人まで犯してしまった犯人たちを馬鹿にすることはできない。結果の重大さは違うが、構造的にはまったく同じことをやっている。
自分の目から見ると、どちらも同じくらいおかしい。ただどちらの内部にいても、自分がおかしいと声をあげられるかどうか、そもそもおかしいと思えるかどうかわからない。
自分が組織や共同体というものが恐ろしいと思うのは、そういう点にある。
警察内部の「中村泰犯人説」の声を受けて、公安部と刑事部の人員が集められてわずか十人で捜査班が作られる。
その班長をしていた原警部は「少しでも有力な証拠がつかめ、捜査が進展すれば、こちらの捜査にも力を入れてくれるのではないかと思っていた」と語っていた。こう言っては申し訳ないが人数の少なさから見ても、寄せ集めのようにして作られた、主流からは外れた人たちが集まった班だったのではないだろうか。
でも彼らは中村泰の下へ何回も面会に行き、少しでも有力な証拠をつかもうと努力する。中村の共犯者をつかんでいたし、その情報を聞いた中村の動揺を見ても、あと一歩でもしかしたら時効前に、中村の犯行だと立証できたかもしれない。(追記:ドラマ版を見たら、自白の調書はとれていた。言葉もない…。)
組織の中で不本意な立場に立たされても、自分の仕事を評価されなくても、腐ることなく自分のできることを精一杯やっていた人たちがいた、ということだけが、この話の唯一の救いだった。
9月8日(土)にドラマ版も放送される。それを見たら、また少し感想が変わるかもしれない。
原警部役が園村隼で、中村役がイッセー尾形だ。
予告を見たけど、イッセー尾形が演じる中村が不気味でいい味を出している。
ドラマ版の感想も書きました。