うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語るブログ。

NHKスペシャル未解決事件「警察庁長官狙撃事件」ドラマ版は、ベテラン俳優の演技が圧巻だった。

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9月8日(土)に放送された、NHKスペシャル未解決事件「警察庁長官狙撃事件」のドラマ版の感想。

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ドラマ版ではより一層、警察組織の問題点が浮き彫りになっていた。

一週間前に放送されたドキュメンタリー版を見て、「一度、一定の方向に走りだすと個人の力では止められない組織の怖さ」を中心に感想を書いた。

 

ドラマ版を見ると最初の方針が軌道修正できなかった、というよりは、「公安部の面子」や「オウムを総力をあげてつぶすための材料」として、その方向を変えようとはしなかったのではないか、という内容だった。

これは……ドラマ向けの分かりやすい脚色だと信じたい。

本当にこのままだとしたら、司法の公正性も事実に対する冷静な対応もへったくれもない。自分たちの組織の内部力学でしか動いていない、ということになってしまう。太平洋戦争時の日本軍を見ているようだ…。

原警部が元上司から「駅のホームの端には立たないように気をつけろ」と忠告されるシーンがあったけれど……さすがに脚色だよな……。そう信じたい。

組織内部の力学に強い影響を受けるのはある程度は仕方がないけれど、個人脅してでも、というところまであからさまだとさすがに笑えない。

 

仮に本当にこういう内情だった、とすると、地下鉄サリン事件の実行犯は裁判を行う前から「死刑」というガイドラインがあった、というのも純粋に法解釈でそうなったのかという疑問が出てくる。

そのことについては、この記事で自分が疑問に感じたことを書いたけれど、

「サリン事件死刑囚 中川智正との対話」 感想及びメモ

純粋な法解釈や適正な捜査、裁判で極刑の判決ならば納得がいく。

だがいくら殺人犯、無差別テロリストはいえ「個人が公権力の内部事情で死刑にされる」というのは認められない。国家権力が純粋な法律に則った以外の事情で、個人を裁き、死刑にするというのは恐ろしいことだ。

 

ドキュメンタリー版を見た段階では、共犯者が割り出せず、中村の自白まで持っていけなかったのか、と思ったが、ドラマ版を見ると中村は調査に協力的で、事件当日の詳細な行動まで含めて自白の調書が取れていた。

「中村がオウムの指示を受けた、ということにするならば、中村の自白を認める」と原警部が警視総監から暗に言われるシーンがあったけれど、本当にこういう圧力を受けたのかな。恐いんだけど。

 

本も購入したので、これを読んだらまた感想を書くかもしれない。

 

 俳優たちの演技が圧巻だったドラマ版

ドラマ版は、ドラマとしても面白かった。

俳優さんたちの演技が素晴らしく、のめりこむように見てしまった。

原警部を演じた國村隼は、抑え目の演技をしていたように思う。声を荒げるシーンもあったのだけれど、どこか「仕事としてやっている」という感じだった。

長年、警察組織の中で生きてきて、「警察というのはこういうものだ」「組織というのはこういうものだ」という諦念が常につきまとっている。だからと言って投げやりになっているわけでもない。自分の仕事やいる組織に対して嫌悪を持っているというわけでもない。

仕事にも警察にもそれなりに愛着も誇りを持っていることが、すごく伝わってくる。

それが一番よく出ていると思ったのが、取り調べの最中に死んでしまった中村の共犯者の妻にシュークリームを持っていくシーンだ。

シュークリームの差し出し方とか、叩き落とされたシュークリームの拾い方に、原警部がこれまでどんな風に仕事に向き合っていて、どんな風に考えていて、どんな風に人生を歩んできたのか、ということが伝わってくる。

セリフはほとんどない。数少ないセリフも、こういうシーンでいかにもベテランの刑事が犯人の家族に言いそうなセリフばかりだ。それでいながら、共犯者の妻を見る眼差しや発声の仕方などで、この人がどういう人かということが伝わってくる。「長年、刑事を勤めてきた男」ではなく、「原警部個人」の人生の重みを感じられる。

落ちたシュークリームの拾い方で、その人の人生を語れる。

俳優には常にこういう演技をして欲しい。贅沢か。

 

ただの推測だけれど、この話は「中村泰がどういう人間か」ということが肝のひとつなので、中村の言動を際立たせるために相対するシーンが多い原警部は静の演技にしているのだと思う。

法治国家の秩序を守る警察で、コツコツと長年勤めてきた原警部の生き方と、学生時代から国家の転覆を企てて犯罪の限りを尽くしてきた自称革命家の中村泰の生き方が、演技でも対比されていて、それでいながら対になるワンセットになっている。

原警部の落ち着きと静かさと諦念が中村のエキセントリックさを際立たせ、中村の他人とほとんど関わらない生き方と現実感のなさが、原警部が組織の中で感じているしがらみや重みを伝えてくれる。

まったく真逆の生き方をしている二人なのに、どこか二人の間に通じ合うものが演技で見えるようになっている。

相手があって「自分」というものの輪郭がますますはっきりする、という原警部と中村の距離感や関係が、そのまま國村隼とイッセー尾形の演技に重なっている。すごいバランス感覚だ。

 

イッセー尾形が演じた中村は、不気味でうさん臭く底知れない怖さがあって最高だった。

役作りにあたってのイッセー尾形のコメントを読んだ。中村の音声を聞いて「コンパクトに話は終わらない。ダラダラダラダラ続いていく」ことに注目したそうだ。

ドラマの中村には、この年代の思想や理想にこだわる「革命家」たちのある種の「面倒くささ」がよく表れていた。その「面倒くささ」を表現するのに、話す内容でなく、話しかたに注目する、というのはすごいなと思った。

 

中村はパスポートや戸籍の偽造、密輸など、本来はその道のプロがやるような仕事もほとんど一人でこなし、銃の扱いも射撃の腕もプロ顔負けだ。国松長官の公用車が車種は同じでも、ナンバーが変わったことに気づき、防弾仕様になったのだろうとすぐに推測する。下見も綿密に行い、逃走経路も緻密に設定し、作戦の遂行力も極めて高い。

様々な能力に秀でた優秀な人間ではあったのだろう。

しかし「そういう才能をなぜ、社会のために活かさなかったのか」という言葉の通じなさ、仮にこの世の中が正常だとするならば、根っこのところが狂っている感じが、イッセー尾形が演じる中村の一挙手一投足から伝わってきた。

その「根っこのところのズレ」「おかしさ」こそが中村泰の本態であるとすると、たぶん中村本人以上に中村という男をよく表した演技だったと思う。

 

組織の中で「熱心にやられても困るけれど、やらなくても困る」という働く人間の存在意義を踏みにじるような仕事をやらされ、それでも必死で自分にできることをやったが力が及ばなかった無念さが、痛いほど伝わってきたドラマだった。

警視総監が言っていた「国民にとって重要なことは何だ」という、「国民にとって重要なことは自分たちが決める」という発想は、タントラ・ヴァジラヤーナという理屈を持ち出して殺人を肯定したオウムの発想と同じだ。

そういう怖さを、もう一度外側から見つめなおすきっかけになるといい。

組織の内部力学で事実は都合よく捻じ曲げられても、その中で生きている人たちはみんな自分が信じることを精一杯やっている、そう信じたい。