新作アニメを見たこともあり、「銀河英雄伝説」の原作及び道原かつみ版を読み直そうと思って購入した。記事を書くにあたって、ところどころ記憶が薄れているところもあったというのもある。
藤崎竜版も一巻を購入して読んだけれど、イマイチ合わなかった。画面を見づらく感じたのだが、「封神演義」や「PSYCHO+」にはそういうことは感じないので、何故かは自分でもよく分からない。
「封神演義」も一巻から読み直したいんだよなあ。
今回、道原版を読み直して、改めていいなあと思った。
道原版は原作の筋はほとんど変えず、原作から色々と膨らませていたり、解釈を広げているところがいい。
例えばキルヒアイスがヴェスターラントの件を知って、ラインハルトを諫めて喧嘩になるシーン。
原作だと「いつものケンカだと思うけれど…大丈夫か?」くらいの雰囲気だ。これをきっかけにして二人の道はもしかしたら分かれてしまうかもしれない、そういう前途暗澹たる印象はあるものの、それがラインハルトとキルヒアイスにとってどれほど大きな意味があるか、というのは読者の想像に委ねられている。
原作におけるこのシーンは、「キルヒアイスの死」という「衝撃的な展開へのフラグ」という役割が一番大きい。
道原版のこのシーンは、このシーンひとつで関係性が変わったことに対して二人の衝撃と喪失感が強く伝わってくる。
(引用元:「銀河英雄伝説」10卷 田中芳樹/道原かつみ 徳間書店)
二人の表情を見るだけで、この場面で二人がお互いに対してどんな感情を抱いているか、そして子供のころからの二人の関係がどんなものだったかがひと目でわかる。
原作のこのシーンはラインハルトの感情がメインで語られていたが、道原版だとキルヒアイスの感情もダイレクトに伝わってくる。
(引用元:「銀河英雄伝説」10卷 田中芳樹/道原かつみ 徳間書店)
このあっけにとられた表情が、キルヒアイスがそれまで「ラインハルトならば絶対に分かってくれる」と思っていたことを物語っていて辛い。
このあとの
「キルヒアイス、お前はいったい俺の何だ?」
「私は閣下の忠実な部下です。ローエングラム候」
のやり取りも、原作だと「はっ? 何なんだ?」くらいの皮肉な感じにとらえていた。
道原版だと、このひと言がどれほど重要な意味を持つか考えずに発してしまったラインハルトの迂闊さに対するやりきれなさ、関係性が変わることに対するキルヒアイスの苦しみが伝わってくる。
そしてラインハルトもそれが分かっている。すぐにでも撤回したい、いや、これでいいんだという葛藤が原作以上に深く描かれている。
(引用元:「銀河英雄伝説」10卷 田中芳樹/道原かつみ 徳間書店)
ひと言でいうと、同じシーンであり大きな改変も加えていないのにまったく違う風に見える。
原作のこのシーンでは「ラインハルトもしょうがない奴だな」くらいにしか思わないが、道原版では泣けて仕方がない。
二人のすれ違い、どこですれ違っているのか、それが二人にとってどれほどの意味を持つのか、そういうことがすべて分かっているのにどうにもできない、なぜどうにもできないのか、そういうことが読んでいるとすべて理解できるようになっている。
ベーネミュンデ侯爵夫人も原作だと、「寵妃の立場を奪われた高慢でイヤな貴族の女」のようなステレオタイプ的な描かれ方だが、道原版では「彼女がなぜ、そういう風な考え方しかできないのか」その心情に立ち入っている。
(引用元:「銀河英雄伝説」3卷 田中芳樹/道原かつみ 徳間書店)
原作のベーネミュンデ侯爵夫人のエピソードは、「宮廷内部の恐ろしさと今後はそういう敵とも、汚い手も使いながら戦っていかないといけない」ということ(多様な敵がいることと、それに対抗するための様々なタイプの幕僚の必要性)が主に描きたいことだと思う。
そこがメインなので仕方がないのだけれど、ベーネミュンデ侯爵夫人とアンネローゼの対比に視点を絞ったときに、結局は「男(皇帝、ラインハルト)に選ばれる女こそ価値がある」「価値がない女は、男によって処断される」という文脈に読めてしまい、余り好きではない。
道原版では、ベーネミュンデ侯爵夫人がそういう価値観しか教えられなかったことを原因としてあげることで、「女性の価値は、権力を持つ男性に気に入られることにこそある」という(宮廷貴族的)価値観が彼女のような人間を生んだ、ということも合わせて描いている。
(引用元:「銀河英雄伝説」3卷 田中芳樹/道原かつみ 徳間書店)
そう考えると、このアンネローゼの言葉も重い意味を持つ。
「私も彼女のようになっていたかもしれない」
「彼女はもう一人の私だったかもしれない」
アンネローゼのこの毅然とした表情を見ると、「ベーネミュンデ侯爵夫人その人ではなく、その価値観を批判するべき」と考えているように見える。
少なくとも「彼女も可哀相な人なの。お願い、許してあげて」という風には見えない。(原作はこちらのニュアンスに読める)
このシーンのポイントは、原作ではベーネミュンデ侯爵夫人の手の者に襲われた直後の発言なのだが、道原版では、ベーネミュンデ侯爵夫人が死んだあとのシーンであるところだ。
原作では「罪を軽くしてほしい」というニュアンスを含むことになるが、道原版ではすでに罰を受けたあとなので、原作でも言っていた「彼女には彼女の事情があることを理解して欲しい」プラス「その事情を作ったものにこそ、真の罪があるのではないか」と言っていることが分かる。
「彼女も可哀想な人だから」という理由ではなく、「彼女に押しつけられた価値観こそ、真の原因がある」と考えているように見える。
その問いかけに対するラインハルトの拒絶は、一見ラインハルト視点(「貴族と庶民の対比」)が正しいように見える。しかし、アンネローゼの言葉は「貴族と庶民の対比を、個人ではなく構造に見て欲しい」と言っているように思える。
またもうひとつ、「自分がそうあり得たかもしれない像を許して欲しい」と言っている。それを拒絶する返事は、ラインハルトが望むような自分でなければ受け入れられない、という意味ではキツイなと思う。
ベーネミュンデ侯爵夫人のエピソードは、原作では宮廷貴族の価値観を持ち、男性であるリヒテンラーデ侯などの視点などが主で、寵愛を失った女の嫉妬の醜さが冷たく描かれている。
道原版では、ベーネミュンデ侯爵夫人は歪んではいるが、フリードリヒ四世のことを心の底から愛していることや、最期は「シュザンナ」に戻った姿が描かれている。
(引用元:「銀河英雄伝説」3卷 田中芳樹/道原かつみ 徳間書店)
ベーネミュンデ侯爵夫人のエピソードは、筋は原作通りでありながら、描かれていることは原作とはまったく違う。
個人的には「銀河英雄伝説」は巨視的な視点を固定して叙事的に物語を描いていることがいいところだと思っているので、原作は原作でもちろんいいし大好きだ。
でも原作のコアをまったく壊すことなく、他の角度からの視点も与えてくれる道原版はすごいなあと改めて思った。
原作にはない叙情的な部分が多いので、苦手な人は苦手かもしれないが、銀英伝が好きで未読の人はぜひ一読して欲しいなと思う。
自分から見ると新作アニメは逆だった。ところどころ原作のコアとなるところを変えているのに、それによって何がしたいのかよく分からなかったことが残念だった。
シーズン1にはがっくりきたけれど、まだまだ期待している。