北川悦吏子脚本の朝ドラ「半分、青い」が終わった。
このドラマが「自分にとって」どんなドラマだったのか、という感想を語りたい。
放映中の脚本家のツイートは見ていない。小説も読んでいない。
- 「半分、青い」という物語の個人的な見方
- 「半分、青い」は、鈴愛を人物として見なければ納得して見れる
- 鈴愛というスイッチが、物語のルールやその人の本当の姿を明らかにする。
- 萩尾律という人物の面白さと恐ろしさ
- 登場人物たちは「鈴愛」を「自分を正当化するための概念」として利用している。
- 自分にとって「半分、青い」は、どういう物語だったか。
- 余談
「半分、青い」という物語の個人的な見方
「半分、青い」を見始めたのは、漫画家編からだ。自分は漫画家編はあまり面白いとは思わなかった。
見るのをやめようかと思ったが、続く百均編、結婚編、五平餅編が普通に面白かったので見ていた。
なぜ最初はつまらなかったのに、途中からまあまあ面白く見れたのかというと、「こういう見方をすればいいのか」と気づいたからだ。
そうか! 鈴愛を人間として見るから意味がわからないんだ!
これは自分の中で、このドラマを見るうえでいい気づきだった。このことに気づかなければ、すぐに見なくなっていたと思う。
「半分、青い」は、鈴愛を人物として見なければ納得して見れる
「半分、青い」の主人公・鈴愛は、人間ではない。
登場人物たちが、自分の本当の欲求や姿や、内なる声に気づくための、もしくは「気づきたくないことを誤魔化すため」のスイッチなのだ。
スイッチは、それぞれの登場人物の心の中にある「日ごろ気づいていないことに対する気づきやそれに対する誤魔化しを具現化した存在」なので、彼らが「その対象に向き合わなければならないときに」現れる。
「どうやって暮らしているんだ」
「交通費はどうしているんだ」
「前の場面からワープしたように見えるんだが」
そういった金銭面や物理的な法則など、細かいことは考えなくていい。
鈴愛は人間ではない。スイッチなのだから。
将来のことも周りへの影響も他人の気持ちを何も考えず、その場その場の自分の思いつきで行動して当然なのだ。
この見方で見ると、「ああ、なるほど」と納得がいった。
登場人物は、鈴愛というスイッチを押され(関わり)押されたあとの行動を見ると、次々と自分の本来の姿をあらわにし、収まるところに収まっていくからだ。
鈴愛というスイッチが、物語のルールやその人の本当の姿を明らかにする。
例えば、漫画家編で秋風羽織に「そんなんだから、先生はいい年して家族も友達もいないんだ」という相手の人格を否定するような暴言を吐くシーンがある。
普通であれば公衆の面前でそんなことを言う人間の神経を疑う。
ましてや相手は自分の恩師だ。しかも謝らない。周りも咎めるどころか、止めようとすらしない。
一見、とても不自然なシーンに見える。
しかしこれは、実は無意識下で秋風自身がずっと自分自身の生き方に持っていた疑問なのだ、と考えると納得がいく。
人生の全てを漫画を描くことに捧げており、そのことに何の迷いもなさそうに見える秋風が「漫画家にならず家族がいて友達がいる、いわゆる『普通の人生』はどんなものだったろうか」と無意識に考えていたことを、表すシーンなのだ。
このシーンの秋風の、戸惑ったような傷ついたような表情は印象的だった。
そういう傷みを抱えながら、なおも秋風は漫画家としての道を選んだ。
そういう秋風の生き方や孤独に耐える強さ、創作することの重みが出ている。
「半分、青い」の世界では、創作者は孤独でなければならないというルールがある。
秋風の弟子の中で唯一、漫画家になったボクテも家族とは疎遠で、恋人も出てこない。後に出てくる涼次も、映画監督になるために家族を捨てる。
家族や友人、恋愛に囲まれ孤独の重みに耐える描写がない鈴愛が、「半分、青い」の世界では漫画家になれないことの暗示にもなっている。
ユウコの最期の言葉も納得がいく。
裕子の息子のクウちゃんは、恐らくもう中学生くらいになっていると思う。しかし未だに「クウちゃん」と呼んでいることから見ても、裕子は恐らく息子の成長や内面にはさほど興味がないことが読み取れる。
夫のヨウジに対して語ったことは、自分の仕事への使命感や「息子をよろしく」という短い言葉だけだ。彼個人に対する思いや感謝や労わりや思い出話は一切ない。恐ろしいほどの無関心さだ。
裕子は夫や息子といるよりも、看護師という自分の夢をとった。だから遺言は、夫よりも息子よりも鈴愛に対するセリフが長く熱いのだ。「鈴愛(が何かをなしとげること)が私の夢だ」はそのままだ。
このときの鈴愛は、裕子にとって「夢」そのものなのだ。
裕子は、夫や息子には関心がなかった。あるのは自分の夢である看護師という仕事への情熱だけだ。
それは自分には漫画の才能がないと悟り、若干打算的にヨウジと結婚した裕子の人物像とつながる。
裕子というのは、ただ自分のことだけを考えていた女性だったと思うが、それだけ真摯に自分の人生を生きたと言えないこともない。夫や息子にとっては残酷かもしれないが。
弥一は和子のことしか考えていないし、和子は律のことしか考えていないこともスイッチが押された瞬間に赤裸々に暴露される。
弥一は「家族三人で過ごしたい」といい、和子は自分の子育て日記をより子には託さない。表面上は弥一が翼に写真を教えている、などの描写が出てくるが、言葉の端々やいざというときの行動に二人の本質が現れている。
弥一や和子の内面世界には、より子と翼は存在していない。
涼次は自分がどうあっても映画監督の道を諦められないことを悟り、その才能を開花させる。
津曲は借金で夜逃げし、ラーメン屋のアルバイトをする自分を「カッコ悪い」と感じていたが、相談してきた息子と向き合い励ますことで、本来の自分を取り戻す。
鈴愛というスイッチが押される(関わる)ことによって、表面上の行動では気づきにくい、本人たちですら恐らく気づいていない登場人物の内面があらわになっていく。
登場人物の中で「鈴愛というスイッチ」に最も深く関わった律に、この傾向は集約されている。
萩尾律という人物の面白さと恐ろしさ
律は「半分、青い」という物語を象徴するような人物だ。
律は「愛し方が分からない」という問題を抱えている。今までそんな描写あったかな?という疑問はさておき、そういう問題を抱えたままより子と結婚し、翼という息子をもうけた。
律の母親である和子は、十八歳まで育児日記をつけるほど一人息子の律を愛している。
それなのに、律には「愛し方がわからない」
とすると、律は母親からの愛情に何か疑問を持っているのではないか、と推測できる。そこに疑問を持たなければ、母親からの愛情で「ああこれが愛情か」と納得すると思うからだ。
親子関係での愛情に疑問を持っているから、翼への接し方もぎこちないし、関心を持っているようにも見えない。
鈴愛の幼馴染という役割を外して「萩尾律」という登場人物をみると、意外とこの辺りは一貫している。
和子の一人息子への過剰な愛情が、律に愛情というものに対してネガティブな印象を持たせているのだろう、と想像がつくようになっている。
律はこういう課題を抱えたまま、大人になった。
清と付き合っていても、他の女性の夢を盗んだり、付き合ってもいない女性に唐突にプロポーズしたりする。
愛情の芽のようなものを自分からぶち壊しにいくような行動に出る。
これも「愛し方がわからない」、愛情に対してネガティブな印象しか持っていない、しかしそれが認められない人間であれば、納得がいく行動だ。
より子と結婚し、翼という子供ができたので、律はこの「愛し方がわからない」という自分の問題と向き合い、乗り越えなければならないはずだ。
死期が迫った和子と共に過ごす時間は、より子と翼を内面世界に入れようとしない和子や弥一に、「律の妻子」として受け入れてもらい自分自身も和子の愛情から自立するチャンスだったはずだ。
それなのに律は、自分だけ和子の下にいることを選び、妻子を大阪に置いてきてしまう。
表層的には翼の学校の問題やら、色々とあると思う。
しかしこのあとより子が「実は寂しかった」と告白することを考え合わせると、律、より子、翼という家族が家族であり続けるために、三人が一緒にいること、「律が自分の意思で、和子よりもより子と翼を選ぶこと」が必要だった。
そうすることによって、はじめて「愛される自分から愛する自分」になり「愛し方が分かる」ようになるからだ。
しかし律はこの課題を、色々と理由をつけて先延ばしにする。
「最後は家族三人で過ごしたい」と、より子と翼をごく自然に無視する弥一と和子の言動を追認する。
こういう愛情の冷たくネガティブな面を見せられれば、「愛し方がわからない」と言い出すのもわかる、とその唐突さはさておき、それ自体は納得できる。
和子が死んだあと、律にもう一度、「愛し方が分かる」ようになるチャンスが巡ってくる。
律は「あなたの息子でよかった」と母親との関係に決着をつけ、妻のより子と向き合う。より子もそんな律に心を開き、「本当は寂しかった」という本音を言うことができた。
このあと律は幼なじみと川辺で抱き合うが、これは「愛されるだけで、愛しかたがわからなかった今までの自分との決別」と見ていい。母親からの愛情に対する疑問を解消し、愛し方がわかったのだから、これからは夫として父親として、より子と翼を愛し守って生きていく。
愛情に対してネガティブな感情しか抱けず、愛することを怖がっていた弱さと向き合い、乗り越える。
このシーンで律は「今までの自分と決別する」というスイッチを入れたのだ。
しかし、それは律にとって勇気がいることだ。だから五秒と言いつつあんなに未練たらたらで長いのだ。
「登場人物が自分にとっての課題を見つけ、その課題を乗り越えることで成長していく」のが、人物の半生を描く物語のスタンダートだとすれば、「半分、青い」はその逆を行っている。
律はこの翌週には、一度は乗り越えると決めた自分の課題を早々に放棄している。
「愛しかたがわからない」「そのくせ、寄ってこられると寂しさから受け入れてしまう」今までの自分の弱さを乗り越えず、今度は幼馴染み相手に同じことを繰り返す。
「相手のテンションに任せる」では、清やより子の関係と同じだ。
一度は乗り越えると決めた自分の課題を放棄し、その問題を見なかったことにして再び……どころか三度繰り返す。
この成長のしなさぶり、自分の弱さに対する甘さに愕然とする。
鈴愛は、律にとって「愛しかたがわからない決別すべき自分」だ。一度は別れを告げた「決別すべき自分」に、律は結局戻った。
「あいつを守るために生まれた」のセリフも、そう考えると深く頷ける。
律は結局、自分が一番可愛かった。妻子を愛するために弱い自分と決別し大人へと成長することを拒み、「今までの自分を守るために生きていく」と宣言している。
もし物語の表層的な文脈通り「律はずっと前から鈴愛を愛していた」ならば、鈴愛への「そっちのテンションに任せる」がより子や清に対する対応と同じであることの説明がつかない。
律はまったく変わっていない。
自分の意思で結婚し、子供をつくってなお、その責任を負って主体的に家族を愛する大人へと変わることを拒んだ。そして和子や弥一と同じように、より子と翼を自分の内面世界から追い出した。
裕子と似ているが、裕子は看護師という夢が一番であったのに対し、律は妻子よりも仕事よりも(律は仕事からも逃げている)弱い自分を守ることを選んだ。
「半分、青い」というドラマで自分が一番興味を持ったのは、萩尾律という人物像の酷さだ。
律本人は自分がそれほどひどい人間だとは思っていないだろう、ということがより一層その人物像を酷いものにしている。
自分の内面に踏み込まれたときの、佐藤健の演技は素晴らしかった。「殺すぞ」と言わんばかりの声と表情。佐藤健は律をよく理解している。
自分の弱さと向き合うことは、律にとって殺すか殺されるかの問題なのだ。
鈴愛は他者ではなく、律にとっては「変わらない自分」「変わることを強要されないこと」の象徴だ。
だから内面に踏み込まれ「弱い」と致命的なことを指摘されても、すぐに許す。
鈴愛を人間として見ると、このエピソードは何の意味があるのかわからない。
ただの尺稼ぎか? と勘ぐりたくなるが、鈴愛が律にとっては「自分の弱さを見過ごす、ということを表す概念だ」(鈴愛はこのあと、母親に諭され律の決断を肯定する)と考えると、「律が自分の弱さと向き合い自分を変えるくらいならば、他人を(妻子ですら)消すことを選ぶ人間」であることがよりいっそう際立ついい描きかただと思う。
登場人物たちは「鈴愛」を「自分を正当化するための概念」として利用している。
こうして見てみると、他の登場人物たちが鈴愛を持ち上げるための道具なのではない。
逆だ。
登場人物たちは自分の行動や生き方の中で見たくない事実を見なければならないときに、変わることを迫られているが変わりたくないときに、「鈴愛」という概念を利用するのだ。
「鈴愛という特別な友達がいるから、夫や息子に無関心で自分の夢のために生きていい」
「鈴愛という日記を託すべき人が他にいるから、律が行方不明になったときに相談すべき人がいるから、嫁の存在を無視していい」
「嫌な仕事から逃れて何の目標もなく起業することも、鈴愛が肯定してくれる」
「鈴愛という守るべき幼馴染みがいるから、父親や夫にならず妻子を捨ててもいい」
一方で涼次や津曲のように、自分自身の負の部分を認めたうえで、本来の自分に立ち戻った人もいる。
津曲は話の表層部では若干滑稽に描かれているが、学校で傷ついた息子がすぐに電話をしてくるなど、子供から非常に信頼を寄せられている。花野からいじめのことを話されない鈴愛と比較することで、津曲が子供から見てどういう人物であるかは明らかになるようになっている。
「鈴愛は主人公であり、鈴愛の視点で物語を見る」という先入観を捨てると、そこにはありのままの登場人物たちが収まるべきところに収まる物語がある。
登場人物たちが最後には認めた、もしくは最後まで認められなかった……それを「認めないことによって生きてきた」何かを見ることができる。
自分にとって「半分、青い」は、どういう物語だったか。
「半分、青い」は「自分の中に認めたくないものがある人が、そこからどうやって目をそらして生きていくかを模索した物語ではないか」というのが自分の見解だ。
乗り越えるべきときにその課題と向き合う、それができず乗り越えない、見たくないから見ないと決めたのならば、その負い目と葛藤を背負って生きていく。
課題ごとにその2つを選択しながらたいていの人は生きているが、「半分、青い」はそのどちらも放棄した生き方を描いている。
「半分、青い」はこの一点においては、最終回まで徹底している。
この物語では、「認められなかったもの」がある人が物語の中で肯定的に描かれ、「痛みを伴って認めた人」は物語の中で割りを喰う位置にいる。
マザーのお披露目会に誰が呼ばれ、誰が呼ばれなかったかにそれが現れている。
津曲と涼次は仕事上、大きく関わったにもかかわらず呼ばれていない。秋風も声だけの出演だ。涼次の叔母たちも呼ばれていない。
この人たちが呼ばれない理由を想像することはできる。しかしもはや説明しようとすらしない姿勢に、「呼ばれていない人たちはこの物語の『内面』に要らない人なのだろう」という説明が一番妥当だろうと思ってしまう。
物語の表部分では細かい矛盾が多かったが、実は物語の根底の部分は「自分が見たいものだけを見る世界」で、徹頭徹尾一貫性を持って完結している。
多くの物語が「自分の中の課題、苦難」を乗り越える姿や、そこからはからずも逃げ出してしまったときの苦悩や葛藤を描いている中で、「乗り越える課題からも目をそらし続け、目をそらしたことへの苦悩も放棄した物語」というのは確かに斬新だ。
「課題からも目をそらし、目をそらしたという負い目や自分の弱さも引き受けないようにする」ために、「鈴愛」という魔法のような概念を持ち出して、その場その場でだけで辻褄を合わせるとどういうことになるか、ということが描かれている。
そういう見方で見ると話としては納得できるが、面白いか面白くないかでいえば最終的には面白くなかった。
その「認められなかったもの」ないし「痛みを伴って認め乗り越えたもの」が、どれもステレオタイプに表層的にしか描かれていないからだ。(最終回に近づくにつれ、この傾向が強くなった)心の動きも通りいっぺんにしか書かれていないので、どこかで見たことがあるような話で退屈に感じた。
その「見たくないものを見ないために、常に辻褄合わせをして生きていく」ことを批判しているのではない。
そういうどうしようもない部分というのは誰でも持っているし、人間の卑小な面、下らない面、弱い面は創作で扱うにはとても面白い題材だ。人間のそういう面を描いた優れた作品はたくさんある。
中途半端にいい顔をせずに、もっと徹底的にエゴや自意識を描いてほしかった。
朝ドラのコンセプトや見ている人に中等半端に気を遣った結果、根底に不快なもの(だからこそ面白いもの)を秘めつつ、当たり障りのない物語という非常に残念な出来上がりになってしまった。
気付きのスイッチ(=鈴愛)をどう使うかは本人次第なのだ、という当たり障りのない結論を反面教師的に学ぶだけの退屈な物語になってしまった、というのが最終回まで見た感想だ。
余談
「半分、青い」が「自分の中に認めたくないものがある人が、そこからどうやって目をそらして生きていくかを模索した物語」だとすると、このことを脚本家はかなり意識的に描いていたのではないか、とふと思ったことがある。
そう思ったのは、涼次が鈴愛に再プロポーズをしたシーンだ。
「いじめのことについて、母親に思う存分話せない花野が父親の涼次に会いに行く」という話の流れから、涼次は「花野のことが心配だから」鈴愛に再プロポーズをした、と読み取れる。
しかし鈴愛は何のためらいもなく、即座に断っている。
花野が母親の自分に心を開けずに、父親を求めた直後であるにも関わらずだ。
そしてその夜の会話でプロポーズを断った理由として、「自分にはもう大事な人が他にいるから」ということを上げている。
つまり「花野のためになされた」涼次のプロポーズを、鈴愛は「自分のために」断っているのだ。
ここで言いたいのは、「子供が父親を求めているのだから、子供のために再婚しろ」ということではない。子供のために母親がしたくもない再婚をする必要はもちろんない。
鈴愛が涼次のプロポーズの意図を、まったく読み取っていないことに驚いたのだ。
鈴愛の中で、「涼次はまず花野のことを第一に考えており、その方法論として鈴愛との再婚を申し出た」という発想がない。
「涼次は自分を求めている」という発想を、微塵も疑っていない。
なぜ微塵も疑っていないと考えるかというと、「花野のためのプロポーズ」という発想があれば即座には断らないからだ。実際花野は、父親を求めて叔母たちの家に一人で来ている。
布団の上での花野との会話でも、父親を求めた花野を慮るようなセリフが入るはずだからだ。
年をとると若いころとは違い、「個人としての自分」を求められる機会は少なくなっていく。才能があるほんの一握りの人間を除いて、多くの人が他人から求められるのが「個人としての自分」から「何かの役割としての自分」に移っていく。
「半分、青い」の鈴愛と律は、この「何かの役割としての自分になること」を拒絶している。
しかし「何等かの役割としての自分しか求められていない」のに「個人としての自分が求められていると思っている」光景は、ドラマを見てもかなり痛々しく見える。
涼次から鈴愛へのプロポーズは、この「痛さ」を際立たせる演出はなされていない。しかし「鈴愛があくまで個人として求められている」という脚色もなされていない。
このシーンは裸でポンと投げ出され、見る人の解釈に任せられている。
この後の涼次が、律に鈴愛のことを頼むシーンで、花野の名前が出てこない不自然さが「鈴愛は個人として見られている」と強調しているようにも見える。
しかしその解釈は「花野から求められたことをきっかけとして、涼次がプロポーズをする」という流れと矛盾している。
むしろ鈴愛のことは頼めても、赤の他人の律に実の娘の花野のことを託す気にはならない、それくらい涼次にとって花野は、鈴愛とは比べものにならないくらい特別な存在だと見るほうが自然な気がする。
そう考えるとこの鈴愛の「痛さ」をかなり意識的に描いているのか、という気もしないでもないが、その点はよく分からなかった。
別の視点での解釈も考えてみました。
「どうせこういうものを描くなら、もっと徹底的に描いて欲しい」と書いたが、よく考えたら、アガサ・クリスティが「春にして君を離れ」で既に徹底的に描いていた。