うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【ネタバレ感想】アガサ・クリスティ「春にして君を離れ」は「他者性をはく奪する罪深さ」を書いた傑作だ。

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この記事は以下のものの内容に触れたり、ネタバレをしています。ご注意ください。

アガサ・クリスティ「春にして君を離れ」「暗い抱擁」

北川悦吏子「半分、青い」

桐野夏生「メタボラ」

竜騎士07「うみねこのなく頃に」

 

読んだことがないかたは、ネタバレを読まずにぜひ読んでみて欲しい。

 

 

少し前に自分にとってのドラマ「半分、青い」とはどういうものだったのか、という記事を書いた。

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その中で、「どうせこういうことをやるなら、徹底的にやって欲しかった」という感想を書いた。

よく考えたら、このテーマを徹底的にやったのがアガサ・クリスティの「春にして君を離れ」だ。あれを朝から見たら、確かに精神的に疲れる。「春にして君を離れ」の破壊力はすさまじい。

 

クリスティは筆力が安定した作家で、及第点をクリアしている作品が多い。

有名な「そして誰もいなくなった」「アクロイド殺し」は、トリックを知っていても繰り返し読みたくなる。クリスティの最高傑作として名前が残るのはこの辺りな気がする。

個人的には「カーテン」「終わりなき夜に生まれつく」「暗い抱擁」のどれかを推したい。

 

だが自分の好みは度外視して「クリスティの最高傑作は」と聞かれたら、「春にして君を離れ」を推す。

「小説としての巧さ」「本を読む手が止められない吸引力」「似た小説が見当たらない」「重いテーマを書ききった」この辺りが選考のポイントになっている。

登場人物の造形が若干テンプレ気味なことだけが気になるが、だからこそ誰が読んでも「自分の中に同じ面」を見出しやすい。

 

この本は多くの人にとっての告発の本である。同時に、多くの人にとっての懺悔の本だ。

クリスティも他人のことではなく、自分の内面を見据えてこの本を書いたと思う。

「他人事」として書いたのならば、ラストでロドニーに「許して」と言えないまでも、自分自身に対しては罪を認めただろう。

この小説のすごいところは、栗本薫が指摘していたように、夫のほうも「一方的な被害者」ではない点だ。夫ロドニーにとっても告発の本であり、懺悔の本である。

読む人間は主人公ジョーンとして自分の罪を自分に告発し懺悔し、ロドニーとして自分の罪を思い知り懺悔する。

そして最後は、その罪を見なかったことにして生きていくことを選ぶ。小説を綺麗な結末で終わらせないことで、最後まで自分自身を徹底的に断罪している。

 

「半分、青い」は自分にとっては、「春にして君を離れ」で描かれたことをまったく気づかずに生きていく物語だ。そしてその方法論として発明されたのが、「鈴愛という概念」だ。

「半分、青い」の特徴は、「他者性のなさ」ではないかと自分は思っている。

「他者という存在を悪気なく無視する」「他者の他者性を奪う」というのがどういうことか、というのは前に読んだこの本に書かれている。

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長いこと「春にして君を離れ」が断罪しているのは「認知の歪み」だと思っていた。

「半分、青い」を見て、「春にして君を離れ」は「自他が曖昧な人間の怖さ」「他者性の剥奪の罪深さ」を描いているんだと気づいた。

「認知の歪み」は認識が歪んではいるものの、他者は他者として存在している。しかし「他者性の剥奪」は、実体として存在する他者の個別性を認めない。

 

ジョーンは何の悪気なく、「個人としての夫や子供」を認めていない。ジョーンの世界には、「自分の夫」は存在しても、「ロドニーという個人」は存在していない。

夫のロドニーは妻のことをよく知っているので、妻の世界で「個人として存在すること」を放棄している。それが夫の罪であり、「ジョーンがああいう認識でいるのは、ロドニーにも原因がある」という栗本薫の指摘はなるほどと思った。

長い年月「自分」というものを無視されれば、そうなるのも無理ないのでは、と思うが、小説の最後の夫のセリフを聞くと、確かに「あなたの問題でもあるのでは」と言いたくなる。親子ならばともかく夫婦なのだから。

 

ただ一方で、では夫が「あくまで個人として認識されることを望み、妻に働きかけ続けたらどうなっていたか」というルートが、桐野夏生の「メタボラ」で描かれている。

主人公裕太の母親は「他人の他者性を無視する邪悪な人」の代表格だ。

こういう人間が、どれほど周りの人間の精神を削り荒廃させるかが克明に描かれている。

裕太の家庭が崩壊し、父親の心が壊れ、人格そのものが破壊されていく様は読んでいて恐ろしい。

父親がふるうDVはもちろん良くない。しかしそもそも母親が父親に、「個別性を無視する」という暴力を振るっているのだ。母親はそれがどういうことなのか、まったく分かっていない。

 

「アガサ・クリスティ完全攻略」を書いた霜月蒼が、「『春にして君を離れ』で描かれているのは、魂の殺人だ」と評している。

「メタボラ」を読むと、それがどういうことなのかよくわかる。

この現象が恐ろしいところは、母親自身はそんな自分自身をかえりみることがないし、何の悪気もない点だ。

誰からも忌み嫌われ、人格を破壊されて孤独のうちに死んだ裕太の父親の位牌を「お母さんだってそんなものいらないわよ」「じゃあアルバムと半分ずつ持ちましょう」と言う。まがなりにも夫婦だった人間への無関心さと相手との関わりへの無責任さ、存在の軽視具合は恐ろしい。そして父親の子供でもある、自分の息子への配慮のなさや労りのなさは読んでいて寒々とする。

こういう人間を描くとき、桐野夏生の筆はすさまじくさえわたる。

 

「メタボラ」の裕太の父親の運命を見ると、「春にして君を離れ」のロドニーは「ジョーンの世界で『個人として存在すること』を放棄すること」で、かろうじて自分自身の人格を守っていたのかもしれない、とも思う。

 

「メタボラ」は「信頼のできない語り手」の技法を用いることで、この「邪悪な人」の問題点の分かりにくさ、巧妙さも合わせて描いている。

語り手である裕太も裕太の妹も、父親が母親によって心を壊され人格を荒廃させられたことに気づかない。裕太は自分自身も母親の邪悪さにさんざん苦しめられているにも関わらず(そして父親の優しさに助けられてきたにも関わらず)一体それの何が問題なのか気づくことができない。

読み手のみがその構図に気づき、裕太や妹がそれに気づかず、母親になす術もなく翻弄され、父親を憎む構図を見る羽目になり、そのことによって「邪悪な人」の恐ろしさが際立つようになっている。

裕太の家族が崩壊する話は「メタボラ」の中のごく一部だが、短いエピソードなのに読む人間に強烈な印象を与える。

 

 「信頼のできない語り手」の技法は、クリスティの普通小説のもうひとつの傑作「暗い抱擁」で使われている。

語り手のヒューは善良ではあるものの、平板な物の見方しかできない人間として設定されており、主人公のゲイブリエルのことも彼を愛するイザベラのことも理解できない。

彼が本質的には他人のことなど何も見ていなかったことを、物語の最後で義姉テレサが指摘する。

「あなたは知らないのよ。あの人をよく見たこともないんじゃなくて? いったい、あなたは本当に人間を見たことがあって?」

そういわれて考えてみると、そういうテレサすら、身を入れて眺めたことがないのに私は気づいた。この物語の中でもテレサの姿かたちについては、ほとんど描写したことがなかったようだ。

 (引用元:「暗い抱擁」 アガサ・クリスティ/中村妙子訳 早川書房 P366/太字引用者)

 

まるまる400ページ近い物語の中で、一緒に暮らし、常に側にいた義姉のことすらほとんど興味がなかったことにヒューは指摘されて初めて気づく。

 

アガサ・クリスティは自分も含めて、「人間というものは見たいものを見たいようにしか見ない」という考えを持っており、それを逆手にとって数多くのミステリー小説を書いた。

そんなクリスティも「自分の中の他者性のなさ」に強い危機意識を持っていたことに驚く。

 

「他者性の排除や無視」は、現実で「実体としての他者」にやるのは問題だが、創作ではむしろ武器になる。

創作でやるならば、そういうテーマを徹底的に追求するのも面白い。

ただ「メタボラ」の例で引いた通り、「他者性を無視する」というのは「実体のある個人」にとっては暴力になりうるので、このテーマを含む場合はその暴力が読み手という実体に向かないように(その暴力が読み手に向けられていると思われないように)しないと強い反発を覚える人も出てくる。

「半分、青い」は、物語に内包した「他者という存在の軽視、人格の無視、扱いの雑さ」という暴力性に余りに無自覚だったと思う。

 

誰もが無自覚に持ちうる「他者性の排除」という暴力に正面から向き合った「春にして君を離れ」は、「人は事実ではなく、自分の見たいものを事実だと信じて生きている」ということに生涯こだわったクリスティらしい傑作だ。

ちょっと読むのがしんどいときもあるけれど、お薦めだ。

 

この「人は事実ではなく、自分の見たいものを事実だと信じて生きている」ということを、「人間は無限の想像力によって事実を乗り越え、真実を生きることができる」というテーマで語ったのが「うみねこのなく頃に」だ。

「春にして君を離れ」と「うみねこのなく頃に」は、一見「人は自分の見たいものだけを見て生きている」という軸のネガとポジに見える。

だが「うみねこのなく頃に」で語られているのは、「周りの人(世間)によってはく奪された個別性を回復すること」ではないかと思う。

 

世間の人間にとっては右代宮家は「欲に目がくらんで親族同士で争い、ついには殺し合ったような一族」であり、確かにそれは事実だった。

しかし「世間の事実」はそうでも、家族であった自分にとっては、彼らはそれぞれいいところも悪いところもあった一人一人の人間であり、彼らが仲良く手を取り合う別の世界を想像し、そういう人間であったと信じることができる。

「事実としては残らなかった、親族一人一人の個別性を自分だけは覚えて生きていく」

世間によって「殺し合った一族」という概念に閉じ込められた、自分と自分の大切な人たちの個別性を回復する「うみねこのなく頃に」の魔法エンドは、「春にして君を離れ」で告発された誰もがやりがちな「他者性のはく奪」をどう乗り越えるのか、というひとつの回答になっている。

 

面白くも怖い本。

 

この記事で上げた本は、全部大好きだ。読んだことがない人はぜひ。

 

書いてあることは重いことばかりなのに、全体的な雰囲気が明るいところがいい。言葉では説明しにくい、邪悪な人特有の「他者性のはく奪」とは何? ということとその怖さを克明に描いている。

ごく普通の人間の悪意と恐ろしさを描かせたら、この人の右に出る人はいない。

 

 

漫画版のエピソード8は、すごい良かった。

 

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