うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

二階堂奥歯「八本脚の蝶」 この世界に生きるに値するものが見つからなかったのだろうか。

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2003年4月23日に自ら死を選んだ二階堂奥歯の、ウェブ上に残っているブログ「八本脚の蝶」を少しずつ読んでいる。

 

最初、読んだときに、高野悦子の「二十歳の原点」に似ているなと思った。少女から女性に強制的に移行させられる戸惑いや違和感、苦しみが伝わってきて何とも言えない気持ちになる。

月経など、女性は身体の変化に心を合わせていかなければならない部分が男性よりも多いかもしれない。そしてその変化にどこまでどれくらいの速度で心がついていけるか、というのは同じ女性でも個人差がかなりありそうだ。

高野悦子や二階堂奥歯にとっては、「自分が強制的に変化させられる」という恐怖でしかなかったのかもしれないな、と本を読んで思った。

 

「二十歳の原点」を読んだのはかなり前だけれど、余り関心が持てなかった。読む前はもう少し共感できるかなと思ったが、正直イマイチだった。

いま合わせて読んでいる南条あやの「卒業式まで死にません」も、申し訳ないが若干退屈に感じている。

ただ高野悦子は他人に読ませるつもりで書いたのではないし、南条あやも当時の読者とのリアルタイムのつながりや共感を第一に考えて書いていたのだろう。ネットの普及率が爆発的にあがって、個人的な内面に触れたり、彼女たちのような心象を持つ人が可視化しやすくなったという、当時とは状況が違うこともある。

後からまとめて読んで読み物として評価するのは、フェアではないかもしれない。

 

ただ南条あやと二階堂奥歯の文章を同時に読んで、ウェブに自分の内面を書き綴り、若くして亡くなったという共通点はあるものの、この二人の根本にあるものはまったく違うのではないかと感じた。

南条あやはとても優れた感性を持っているし、日記には直接書いていない深刻なトラブルのようなものを内面に抱えていたり、おかれていた環境も大変だったと思うが、その心は外側に向かって開かれている。外界の様々なことに興味を持ち、外界に自分という存在を訴えかけている。

そういう意味では、南条あやは辛い環境に置かれていたものの、ごく普通の女の子だったと思う。

だから彼女に共感する、彼女のフォロワーのような人々も多いし、書評でいくつか見られたように「この本に影響を受ける子がいるから、出版をとりやめて欲しい」という人もいるのではないか。

南条あやは彼女と似たような境遇におかれ、似たような心性を持つ同じ年代の子が、簡単に共感し同化してしまうような、ある種の近さや「自分に似ている」と思う普通さがある。

 

二階堂奥歯はそうではない。

彼女の内面には、普通の人が持たないようなとても美しい世界がある。

その世界は現実などよりずっと完璧で閉じられており、二階堂奥歯の日記を読むと彼女が常にその閉じられた世界に肉体ごと引き寄せられているのがわかる。彼女は本来はその世界の住民であり、この現実に間違って生まれてしまったのではないか、そんな風にすら思う。

「八本脚の蝶」はわずか三年分の日記だが、そのわずかな期間を垣間見るだけで、二階堂奥歯の膨大な知識の量に驚く。小説はもとより、新書や漫画なども片っ端から読んでいる。それ以外にも写真集や絵画、人形などの芸術にも興味を持ち、香水や服にも詳しい。

 

二階堂奥歯は自分が「美しい」と感じたものを、一個の完璧な「美」ととらえる。そしてそれを観察する自分という存在を、その「美」を壊すもの、その美の物語性を損なうものと感じてしまう。

その前で座り込んだまま動かない私の存在は余計だ。

彼女が「美しい」と感じたものは、とてつもなく美しい。そういう風に世界が見えるから、自分の「不完全さ」がどうしようもなく彼女を苦しめたのかもしれない。

「八本脚の蝶」を読んでいると、その気持ちが少しだけ分かる気がする。

彼女の文章が余りに美しいので、それを読んでいる自分に罪悪感のようなものを感じるからだ。この文章の美しさや完璧さを唯一損ねているのは、読んでいる自分ではないか。時にそんな気持ちになる。

 

2002年8月27日の「世界が今日終わればいいと思っている十六歳の私」に語りかける文章は特に美しい。

大丈夫だから。安心して。あなたが奇蹟だと思っているものは、9年後も奇蹟であり続ける。

この世界に生きるに値するものが見つからない十六歳の私を、そしてその道の先にいる現在の自分を必死に励ましている。

 

これだけ内面世界と現実との落差に引き裂かれるように生きながら、二階堂奥歯は「現実の醜さ」のようなものについては一切、口にしない。

こういうときによくある「現実への不満、憤り」を口にするのは、心が現実に向けられているからだ。現実に関心や期待があるから、それが現実への弾劾になる。

しかし二階堂奥歯は、自分の心を現実につなぎとめようとするかのように、「現実で美しいと感じるもの」を綴り続けている。

死に倒錯的な美を感じていたわけではなく、死を自己顕示の道具にしていたわけではなく、「現実を生きようとする努力」を死に物狂いでしている。

「八本脚の蝶」は彼女の内面世界の記録であると同時に、内面世界に引きづりこまれそうになりながら、必死で現実を生きようとしたあがきの記録に見える。

でも生自体を支える根拠はありません。私は自分の髪を自分で掴んで虚空の中に落ちていかないように支えている気がします。

 

 「八本脚の蝶」では、頻繁に「信仰」や「神」が出てくる。「絶対的な造物主に作られ、見捨てられた。だからそれを探す自分」というイメージを口にする。

二階堂奥歯は死にたかったわけではないのだと思う。生きるに足る理由、生きるに値するものをこの世界では何ひとつ見つけることができなかったのではないか。

この世界を生きるために、神や信仰や殉教などの生きる理由を必死に探し続けた。でもどれほど本を読んでも、どれほど色々なものを見ても、彼女の内面世界の美しさと同じ価値があるものを見つけることができなかった。

 

そのことがとても寂しい。

この世界は自分にとっては、何だかんだ言っても楽しく価値のあるものがたくさん溢れているからだ。

でも彼女の苦闘の記録を読むと、「勝手に現実を決めつけて」とは言えない。彼女は自分よりもずっと遠く深く、色々なものを見ているし、色々なものを見る努力もしていたからだ。彼女の目の前に、「いやいや、これを見てから判断してくれ」と自信をもって差し出せるものが何ひとつ思い浮かばない。

 「私は奥歯は自殺するかもしれないと思っていました。そして、私には止められないだろうと、思っていたんですよ」

声音にはあきらめの色は微塵もなく、ただ強烈な苦渋、抑制されつづけた苦渋の残香がありました。

二階堂奥歯が死ぬ直前の父親の言葉だ。自分が彼女の周りの人間でも同じ心境になったろう。

彼女は家族をはじめ、多くの人に愛されていた。実際に彼女の周りにいて、彼女の苦闘を見続けた人たちの苦しさは大変なものだったと思う。

 

二階堂奥歯の文章を読んでいると、鬼塚ちひろの「月光」の歌詞を思い出す。

「こんなもののために生まれたんじゃない」

でも彼女自身は決してそんな恨み言を言わなかった。自分には価値がない世界で、必死に価値のあるものや居場所を探し続けた。

 

こういう人がこの世にいたんだなあ、という感動と、その人がずっと前にこの世からいなくなってしまっていることに寂しさを感じる。

物語を愛した彼女という物語が、細々とでも残り続けますように。

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

値段がかなり高騰している。本の形で手元に置いておきたいのだが。

日記だけなら、ネット上で読める。