うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

野沢尚が描く長く濃密な人間関係が苦手だ、ということから気づいた野沢作品のすごさ。

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*この記事には、野沢尚「砦なき者」の内容が含まれています。未読のかたはご注意ください。

 

野沢尚の「砦なき者」のノベライズを読んだ。

「砦なき者」は短編二つ、中編ひとつのオムニバス形式で構成されている。テレビドラマを見たのはかなり前なので、粗筋以外はほとんど忘れてしまっていた。

テレビがメディアの中心だった当時を考えると「そんなにうまくいくかなあ」と思うが、ネット社会では割りと現実味があるテーマだと思う。

 

本の感想とはまた別にこの本を読んで、自分が今までみた野沢尚の作品に対する違和感を思い出した。

野沢尚の作品は面白いのだが、登場人物の心情がことごとく理解できない。「共感できない」のではなく、そもそも理解できないのだ。

自分が野沢尚の作品に感じる一種の訳の分からなさは、この登場人物に対する「一体、なぜそんな行動を?」という点にある。

今までは「美学」とか「ナルシズム」という風にとらえていたけれど、「砦なき者」の短編二話を読んで、正確にそれが何なのかということがもう少し見えてきた。

 

強いて言葉にすると「人間関係という縁に対する強固な思い込み」これがよく分からないのだと思う。

野沢尚の描く人間関係は、とにかく「長くて濃密」だ。

世の中にはもちろん「長く続く縁」夫婦や何十年来の親友などはある。

でも同じ人間のあいだでも「関係性」は変化する。恋心が一番高まっている「その人が世界の全て」というテンションが何年も何十年も続く、ということはほぼありえない。ありえないというよりは、それでは日常生活ができない。

 

ところが野沢尚の描く人間関係は、これが多い。

何十年も続くので相手が死んだ場合、その縁がその子供などに脈々と受け継がれる。その人を見守ったり、連れ去ったり、時には殺人まで犯したり、とにかく何年も何十年も「濃密な人間関係のハイテンションぶり」が固定されているのだ。

さらによく分からないのは、登場人物たちがその「苦しいハイテンション」を昇華しようとせず、わざわざ維持しているようにしか見えない点だ。

そこがよく分からないので、ある種の悲劇のように語られても「???」としか思えない。

 

「砦なき者」の第二章「独占インタビュー」は、二十歳の連れ子がいる十歳年上の女性と若いときに結婚した男の話だ。その女性は結婚してすぐに亡くなってしまい、男は連れ子の前から姿を消す。

しかしほどなく連れ子のことが心配になり、十何年もわたって姿を見せずに見守り続ける。

連れ子はやはり連れ子のいる男性と結婚したが、この男性も死んでしまう。連れ子は嫁としてこき使われ続け、子供からもなつかれずバカにされ、辛い日々を送る。

男は連れ子が少しでも楽になるように、連れ子の義理の娘(ややこしい)と遊んでやったりする。(連れ子は男が側にいることを知らない)

ところが連れ子は義理の娘にうるさくまとわりつかれたときに、はずみで殺してしまう。

男は自分と義理の娘の日ごろの関係性を利用して、世間に対してあたかも自分が犯人であるかのように印象操作をする。

真実が明らかになったあと、男は主人公の赤松に連れ子をずっと見守ってきたこと、犯人として逮捕されたら自分が罪をかぶるつもりであったことを告白する。

赤松は、男は連れ子のことを女性として愛していたのではないかと推測する。

 

いや……推測するのはいいんだけれど、長くないか???

「連れ子の生活が安定するまで」とか、そういうレベルではない。連れ子が田舎に嫁いできても追っかけて十何年見守り続ける。

この「十何年見守る」とか「罪をかぶる、罪を犯す」というのは、野沢尚の作品では多い。「眠れる森」「氷の世界」「青い鳥」この辺りはみんなそうだった。

「眠れる森」の男性の主要登場人物は、全員この「長く濃密でハイテンションな人間関係」に縛られて生きている。よく考えるとすごい世界だ。

「独占インタビュー」は、さらに連れ子が義理の娘(相手の連れ子)に、「連れ子つながり」で自己を投影している。自分がはからずも殺してしまった連れ子と一緒に死ぬことを願う。

こういう思い込みもすごい。思い込みがすごいうえに「自白して罪を償って」という発想ではなく、「連れ子と一緒に死ぬ(正確には寂しくないように死体に寄り添う)」という発想に行きつく。すごい。

男のほうも「自白をすすめる」という発想がない。「自分が罪をかぶる」「共に死にたいというなら死なせてあげたい」と、「罪をかぶるかぶらない」「死ぬ死ななない」の発想が通常運転なのだ。

そんな十何年も見守って罪をかぶったり、気持ちの納まりどころがなくて傷害事件を起こすくらい好きなら、告白すればいいのではと思うが、そういう発想はチラリとすら出てこない。

なぜ「遠くから見守る」という「苦しいハイテンション」を続けるのかがよく分からない。

そういう発想が通常運転の人物が出てくるのは他の創作でもよくあるが、野沢尚の世界では主要登場人物の多くがその発想で生きている。

 

第一章「殺されたい女」は、第二章以上に理解できない。

「殺されたい女」は、自分を裏切った男を「殺したい」のではなく「自分を殺させることによって殺人者にしたい」という。

この発想も頭にハテナが10こほど並ぶのだが、それ以上に自分が違和感を感じたのは主人公赤松の心情だ。

君は生きるべきだった。十年も二十年も生きてくれとは言わない。一生なんて酷なことも言わない。せめてあと一日生きて欲しかった。あと一日あれば俺は君と出会えた。

君とこんな形で逢いたくなかった。あの二十分ほどの電話。俺たちの短すぎる邂逅だった。

今夜が人生最後の花火なんだと君は言った。馬鹿だよ君は。そんなふうに髪の毛で埋もれた瞳で、一体どんな花火が見れると言うんだ。 

(引用元:「砦なき者」 野沢尚 講談社 P81-82)

本人も言っている通り「殺されたい女」志保と赤松の関係は、テレビ局にかかってきた電話で20分ほど話しただけだ。

「自分は今夜殺されるから、殺されたあとにその犯人を捕まえて欲しい」

という衝撃的な内容だったから、というのは分かるが、志保と赤松は顔を合わせたことすらない。第一、志保は赤松個人に電話をかけたわけではなく、テレビ局に電話をかけたのだ。

ところが赤松の中では、「俺と君」「俺たち」の関係にこの件のすべてが収束される。

「自分の出世のために元恋人を殺すなんて許せない」という社会正義や「たとえ何があっても死んではいけない」という道徳観も、全てがいっきに「俺と君」に収斂してしまうのだ。

第三章の長坂と八尋の関係も、最終的には「俺とお前」に行き着く。

この関係の濃密さ、関係の収束性、その速度、「公」という概念のなさが自分が野沢尚の作品に違和感を感じる理由なのだと思う。

 

作品の中で、この「長く濃密でハイテンションな人間関係」が男女関係で描かれることが多い。するとその思い込みの激しさやそれに反するような「苦しいハイテンション」を十何年も続ける運命に対する受け身な態度が、あまりにリアリティがないように思える。

 

でもこれは実は恋愛ではなく、信仰なのではないだろうか。

考えてみれば、このすさまじいテンションの高い感情を年単位で続けられる激しさ、常に「俺と対象」に関係性が限定される濃密さ、それでいながらある一定以上は決して近寄らない距離感は恋愛というよりは信仰だ。

自分が見たり読んだりした野沢作品は、信仰の苦行の記録だったのか。それは理解できないかもしれない。

 

野沢作品の登場人物は、自分にはまったくない発想で生きている。その行動や発想は、常にコチラの考えの斜め上だ。習性や自然の法則が違う謎の世界に来てしまった、みたいな感覚に陥る。

その縁の濃さに対する執念は理解できないけれど、そういうどこか暗く重苦しく長く続く抜け出せない苦行のような運命を魅力的に描けるのは、野沢尚だけだった。

 

この世界がもしかしたら野沢尚にとってそういうものだったのかもしれないが、それでもまだまだ色々なドラマを書いて欲しかった。

 

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