藤田和日郎の「邪眼は月輪に飛ぶ」を読んだ。元々短期連載の予定だったようで、全一巻で綺麗にまとまっている。
人間を殺戮する自然の脅威と戦ういわゆる「神殺し」の相手は、「ザ・ワールド・イズ・マイン」「銀牙」「羆嵐」など思いつく限りだと今までは羆が多かった。(「モウビー・ディック」のように鯨もいるが)
「邪眼は月輪に飛ぶ」では、相手はなんとフクロウだ。しかもこのフクロウは対象を見るだけで殺すことができる「邪眼」を持っている。
相手をフクロウにしたのは面白いアイディアだと思った。「敵が空を飛んでいる」というだけで、地上を歩いている標的とはまったく違う考え方や戦略が必要になる。
日米の軍隊ですら倒すことができなかったこのフクロウ「ミネルヴァ」に、ミネルヴァとかつて対峙したことがある猟師・鵜平が挑む。
以前「羆嵐」の感想で、これは「神対神」の物語だ、と書いた。
「羆嵐」で「穴持たず」と対峙する猟師・銀四郎は、人間には理解できない「穴持たず」側の存在であり、「羆嵐」は「神同士の戦いを、ただ畏れ怯えながら見守る人間」という構図の物語だと自分は思っている。
「邪眼は月輪に飛ぶ」は、「軍隊をもってしてさえどうにもできない人間にとっての脅威に、依頼を受けて一人の猟師が立ち向かう」という「羆嵐」のオマージュの形態をとっていながら、根本的な発想は異なる。
「羆嵐」が「人間に理解できない神同士の戦い」なのに対して、「邪眼は月輪に飛ぶ」はお互いを理解し合える「人間同士の戦い」だ。
「一緒にいると伴侶を殺してしまうがゆえに、誰とも共にいられない。それなのに誰かと共にあることを求める」ミネルヴァに、鵜平は自分と同じ孤独を見る。
鵜平とミネルヴァは似たような孤独と痛みを抱え、それを知りながらなお自分を変えない変えられない似た者同士だ。
敵として対峙しながら、鵜平は誰よりもミネルヴァの気持ちや思考を理解している。殺し合う敵が、殺すためにその思考や感情を読もうとするからこそ誰よりも自分の理解者なのだ。
殺す相手に自分を見ているのだから、戦うというのは自分と対峙することと同じなのだ、ということは、この手の話によく出てくる。
鵜平はマイケルのことを「犬」にするが、この「犬」も「人間を犬よばわり」しているのではなく、もともと「犬」がかけがえのない相棒であり、自分と対等の存在なのだ。
表層的なことや言葉の定義とはまったく別の本質的な部分で、この物語では鵜平ーミネルヴァー犬ーマイケルというのは、全員並列の存在であり、その対等な存在が死力を尽くして対等の立場で戦う物語になっている。
そういう意味では「理解しがたい神に人間が挑む」「神殺し」の物語とは一線を画している。
「邪眼は月輪に飛ぶ」は特に文句をつけようもない面白い物語だったけれど、少し不満もある。
CIAのエージェントであるケビンの、超常的なものに対する理解のなさが少し不思議だった。CIAはESPの研究など、超常的な能力を研究しているという話を聞いたことがあるし、アメリカは超常能力やシャーマニズムなどに対して現代の日本よりは理解があると思う。
まったく知識も理解もない、ということはないと思うけれどな。
あといくら何でもアメリカ人のスナイパーたちの当て馬感がひどすぎる。
物語の展開的にミネルヴァの恐ろしさ、鵜平とスナイパーたちの違いを印象付けたいのは分かるのだけれど、少し安易すぎる気がする。少年漫画なら分からないでもないが、青年漫画だし短期連載であったことを考えても、もう少しひねっても良かったのではないか。
まあそれも強いて言えばという感じだ。
「邪眼は月輪に飛ぶ」の面白さは、最終的には主人公鵜平の魅力に尽きる。何を考えているか分からない偏屈さを持ちながら、不器用で孤独で、心を開くと少年のような一面も見せる。
「羆嵐」の銀四郎、「ザ・ワールド・イズ・マイン」の飯島、「銀牙」の五兵衛、「ゴールデンカムイ」の二瓶、猟師キャラは無口で偏屈で孤独を好むところが似ているが、それでいながら一人一人違う魅力を持っている。
鵜平とマイケル、ケビン、輪の四人組の活躍をもっと見たかったが、マイケルが昔話として語っているので、続きはもうやらないのか。残念だ。
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