「ダークソウル」や「デモンズソウル」は雰囲気ゲームというか、NPCのエピソードもそれほど共感するものがなかったのたが、「ダークソウルⅢ」のエピソードは共感度が高いものが多い。
会話量やテキスト量はそんなに増えていない、むしろ減っているんじゃないかと思うが、エピソードのひとつひとつが胸を打つ。
「ダークソウル」のNPCは「道でたまたますれ違った人」くらいの距離感だったが、「ダークソウルⅢ」はNPCの思いや生き方みたいなのが見えてつい感情移入してしまう。
グレイラットとパッチのエピソードや、イーゴンとイリーナのエピソード、エルドリッチ周辺の話などもそうだ。
そのエピソードを見るための条件の厳しさが、「だからこそ彼らの胸の内の一端に触れた」のように思え、余計にジーンとくる。
モーンの手甲でイリーナに触れたとき、イーゴンとイリーナが二人で生きてきた道のりを垣間見た気がする。イーゴンに聞かせてあげたかった。(殺しておいてなんだが)
その中でも、ヨームとジークバルドのエピソードは良かった。久しぶりにゲームで泣きそうになった。
ヨームの王になった経緯が辛い。人間たちはヨームのことを都合よく利用することだけを考えて、王になって欲しいときだけへいこらしたんだろう。ヨームもそれを分かっていて、それでも人間たちの乞いに応えて人間を守るために王になった。
自分がおかしくなったら殺して欲しいと思い、ジークバルドにストームルーラーを預けた。ヨームがすごいと思うのは、もう一本のストームルーラーを、人間たちに預けたことだ。都合よく扱われてなお、自分の無二の友と同じくらい人間たちを信じ続けた。
ジークバルドがヨームとの約束を果たすためだけに乗り越えてきた道のりを、プレイヤーも体感している。
あの化け物だらけの道のりを、たった一人で友達との約束のためだけに歩いてきた。ヨームもジークバルドならば、絶対に来てくれると信じていた。
ジークバルドがヨームから預けられたストームルーラーを手にして現れるヨーム戦は、物語的には絶対に勝たなくてはいけない戦いだ。
それなのに……勝てなかった。
「すまぬ…古い友よ。最後まで私は無能者だった」
ジークバルド、ほんとすまん、こんなことを言わせて。
無能者はストームルーラーの使い方がよくわからなかった自分だよ…。ググって調べて、使い方を練習して倒した。
火のない灰は殺されても何度でも蘇れる。
でも、ジークバルドは死んだらそれきりだ。
本来はそういうものなのだ。これまでどれだけ頑張ってフラグを立ててきても、死んでしまったらやり直しはきかない(辛すぎる)
約束を守らせてあげたかった。
「何度でも挑戦できるし」という能天気さに染まっていたプレイヤーに、「本来は負けたらそれで終わりなのだ」というシビアさを突然思い出させてくれる。厳しいゲームだよ。
エルドリッチのときは、最後の最後で相撃ちでアンリが死んだ。そのときはただ愕然としただけだった。アンリの協力要請サインがあるのに入れなくなったので、一人で頑張って倒したが、ほんときつかった。何十回挑戦したんだろう…。
エルドリッチの考察で「実は悲劇的な人物なのかもしれない」と思ったけれど、仮にそうだとしても最後のほうは「早く死ね」としか思っていなかった。そういう人間性がむき出しになるのもダークソウルのいいところだ。
ヨームのように、「高潔で優しい人が、その高潔さや優しさゆえに損な役回りを引き受けさせられる」というエピソードが個人的にちょっと苦手だ。
何でそんなもの引き受けるかな~~、そんな恩知らずな奴ら放っておけばいいのに、とつい思ってしまう。それを放っておけないから、ヨームはヨームなんだろう。きっと。
最後まで人に裏切られ続けた、その裏切りを知りつつも受け入れていたヨームに、命がけで約束を守るジークバルドのような友人がいてよかった。
「ダークソウルⅢ」はロンドールの人間たちといい、深みの聖堂の聖職者たちといい、レオナールといい、その考え自体はまったく共感も理解もできない人も多数出てくる。
ただ世界が崩壊に向かっているこういう時代だから、どんなものにでもすがらずにはいられない、どんなに最悪なものでも何かを信じずにはいられない、その気持ちは理解できないでもない気がする。普通に生きていたら、絶望でおかしくなりそうな世界だ。
そんな世界でもグレイラットとパッチのような義理、ヨームとジークバルドのような友情、イーゴンとイリーナのような愛情があるのがいいよなあと思うのだ。
ああ、ずっとこのゲームが終わらないで欲しい。
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