この記事をTwitterで紹介していただいたみたいで、たくさんのかたに読んでもらった。三日間でPVが10万くらいいってビックリした。
シェアして下さったかたも読んでいただいたかたも、チラ見してくれたかたにも感謝したい。
本当にどうもありがとうございました。
本題はここまでなのだが、この記事ともうひとつの総評の記事は一年半くらい前の記事なので、自分の中で考え方が変わった部分がある。それをダラダラ語りたい。
気が向いたかたはどうぞ。
オルガの記事で鉄華団の団員たちの思考停止具合を、問題点として指摘したのだけれど、今は少し考え方を変えた。
「鉄血のオルフェンズ」は、今考えると「乙女戦争」に似ている。
集団や共同体の中で、「個人」というものが抑圧される、価値が尊重されなくなるというのは往々にしてあることで、自分はこういった事象に強い嫌悪感を持っている。この嫌悪感というのは、共同体そのものへの不信感や警戒心、嫌悪感につながっていて、この部分ではかなり偏った考え方を持っている。
自分も社会に生きる一員として、様々な共同体に所属して恩恵を受けているのだから、正しい感覚ではないと思っているのだけれど、この辺りは理屈ではどうにもできない。
今回改めて自分の書いた記事を読み直すと、「鉄華団」という組織に対してこの感覚が出ているな、と思った。
共同体というのは保護などの利益を与える代わりに個人の領域を制限するものなので、この力学がアンバランスになると「個」を抑圧する方向に動く。その抑圧が行き過ぎると、「個」の暴発、共同体の秩序に対する抵抗や破壊行為が起こる。
「個人と共同体の対立」が問題になるのは、「個人」という概念が存在し、しかもそこに価値があると考えられているからだ。だから「個人」と「共同体」で対立軸が生まれる。
ところが「乙女戦争」の時代は違う。
「個人」という概念そのものもないし、あってもほとんど価値がない。もしくはその価値は簡単に破壊される。
「乙女戦争」の時代、「個人」という概念に自分を託すのは不可能だった。
これはシャールカたち庶民だけがそうだったわけではない。騎士であるヴィルヘルムも騎士という身分を失って個人になったときはその尊厳を失い、バルバラによって騎士という役割を与えられることによって立ち直る。
皇帝の娘であるエリーザベトも婚姻が終われば、個人としては夫のアルブレヒトから気持ちを無視したひどい扱いを受ける。
身分を問わず「個人」という概念が脆弱なこの時代に生きる人たちは、自分という存在を「個人」に託す、という発想をそもそも持てない。
「乙女戦争」の登場人物たちは、役割や自分たちが所属する共同体に自己を託す。存在意義を生きる意味を、すべて共同体に仮託する。
だから仲間のために喜んで死ねる。仲間が殺されても進もうと思える。自分が繰り返し強姦されても、その傷を乗り越えることができる。自己を殺されても傷つけられても、自分の存在は共同体に仮託しているので、自分の存在の意味がそこで終わるわけではない。
「乙女戦争」の「炎のラッパ」の描写なども、自分はいわく言い難い拒否反応を覚える。
それは恐らく、自分が「個」という概念が確立されている現代の日本で生きている人間だからだ。
「自分が死んだら終わり」「自分の意見を言え」「自己実現したい」
そういうときの「自分」「自己」というものが、そもそも存在しない、そういう概念を与えられなかった人間もいるし、そういう時代もあった。
「個人として」「自分として」生きられる現代に生まれた自分は恵まれているんだなあと、「乙女戦争」を読んで改めて思った。
「鉄華団」も恐らく「乙女戦争」のシャールカたちと同じなのだ。「自分という個人、存在」に自己を仮託できない。
この傾向は三日月において顕著で、三日月は「自分という個人」ではなく、「鉄華団」に、もっというと「オルガの手足」という概念に自己を仮託している。
三日月の怖いところは、これを誰かに強いられてやっているわけではないところだ。
オルガの記事で書いた通り、三日月は考えられないわけではない。「考えない手足になること」「自我を放棄すること」を方法論として自分で選んでいるのだ。
恐らくそういう三日月がモデルケースになって、鉄華団の面々というのは「個の集合体としての組織」ではなく「鉄華団という一個の生命体」になろうとしているのではないか、と考え直した。
「個の集合体」であれば個々人が思考停止していることは責められるべきことだし、思考停止の責任は本人が取るべきだ。だが「オルガを頭脳とした一個の生命体」であれば一部分の責任を追及することはできない。
雪之丞がなぜ鉄華団の問題点が分かっていながら何も言わなかったのかというと、彼らが「個」として存在しえないこと、生きることが難しいことが分かっていたからなのかもしれない。少なくとも鉄華団が存在する限りは。
「考えることをやめるなよ」は、「個」として存在できる人間にのみ通じる言葉なのだ。
鉄華団がオルガを中心とした一個の「個」になろうとしていたのに対して、オルガのみが「個人の集合体の組織」として見ていた。
他人から存在意義を託されるのだから、それは重くて背負いきれないだろう。たいていは「神」など自分よりも上位概念を生み出してそれに背負わせる。
「鉄華団」にとってはそれが「たどり着くべき場所」という概念だったのだろうけれど、オルガは生真面目にそれを現実のものにしようとしたために行き詰ってしまった。
自分は三日月がすごい苦手だが、三日月の選んだ「自我を意識的に殺して、自分ではない何かに自己を託す生き方」が自分とは真逆だからだろうな、と思う。
この「自我を意識的に殺して、共同体に自己を同化させる」という生き方は、「多様性」など個を重視する現代では、否定されがちな考え方だ。
だから「鉄血のオルフェンズ」はああいうラストになったのではないかと思っている。
三日月の生き方は現実の色々な思想集団や歴史につながって考えられてしまいがちな部分もあり、ああいう生き方を現代の価値観で肯定するのは難しい。
ジュリエッタに「彼らの居場所は、戦場にしかなかった」「ただひたすらに生きるために戦う」と語らせることが物語的にギリギリのラインなのだろうなと思う。(ジュリエッタのこの言葉が事実ならば、オルガが鉄華団を連れて行きたがっていた「斬ったはったせずとも済む世界」では彼らは生きられない。それにオルガも最後の最後で気づいたのか。皮肉だ。)
「自分で考えろ」の「自分」が持てなかった人間もいる、「自分」を与えられたのは恵まれたことなのかもしれない、割と早い段階で考えていたはずなのだが、すっかり忘れて元の自分の立ち位置に戻っていた。
また組織の中で自己表現できることが組織の健全さを保つために必要なことならば、ヤマギがシノが死んだとき、オルガを責めたのはむしろいいことだった。
団員たちから存在意義まで託されていることがオルガを追い詰めているのであれば、ヤマギが怒ったこと(他人として存在してくれること)は、むしろオルガにとっては救いだったと思う。
文句も言わずにどんどん死んでいくほうがむしろやりきれないだろう……というより、それがオルガを追い詰めているって自分で書いているのに……ダメだな。ヤマギにも、ヤマギのファンのかたにも申し訳なかった。
自分を託せないほど脆弱な「自己」しか与えられない社会そのものを変えよう、というラストはやっぱりいいなと思う。鉄華団がそういう社会を壊す、というラストは、長期的に見ると本人たちにとっても救いがないのではと思うのだ。
暁が生きる世界は、自分で考えて自分の心のままに人生を歩める世界がいい。だからそういう世界にしよう。そう思えるクーデリアは格好いい。
創作物に対する感想というのは、自分という存在が世界のどこに位置するかという座標軸のような役割が自分にとっては一番大きい。
その座標軸の位置を見て「そこからだとそんな風に見えるんですね」「自分はその位置からこう見えますよ」という意見をもらったり、人の感想を読んで「その位置に立つとどんな風に見えるんだろう」とてくてく歩いていくのはとても楽しい。
自分だけだと、結局はいつも同じ位置に立ってしまうけれど、ネットで色々な人の感想を読むと、「おおっ、そんな立ち位置もあるのか」と知ることができる。
今まで書いた記事の中にもいくつか、「その立ち位置は知らなかった。ちょっと立たせてみてもらえませんか」と思って書いた記事もある。
そうすると、また少し違う風景が見えたりする。不思議なことに。
他の人の感想を読めたり、自分の感想を読んでもらえる今の環境は、本当にありがたく、すごいものだと改めて思った。