ごくまれに好き嫌いという次元を超えて、「こいつは何か自分と似た臭いがする」というキャラがいる。
大主教マクダネルに会ったときから(死んでいるので会ったとは言えないが、便宜的に)どうもそういうことが頭にちらついて仕方がない。
マクダネルは、隠し扉の奥にある推定四階ぶんほどの長い梯子を降りた地下の貯水槽にいる。周囲に像が彫られているので、元々は地下神殿のような場所だったのかもしれない。
広大な貯水槽の隅のほうにうずくまって死んでいる。
二匹いるサリヴァーンの獣も、中央にある篝火を守るように配置されていて、マクダネル(の死体)は完全にスルーしている。
この死んでいる場所が「どうしてこんなに端っこで死んでいるのだろう?」ということが気になる。気になって仕方がない。
©フロムソフトウェア
「ダークソウル3 公式コンプリートガイド」電撃編集部編より
あの長い梯子の上から誰かが死体を下ろしたとは考えづらい。祭りたいのならこんな隅には置かず、祭壇をつくりそこに祭るだろう。
貯水槽に死体を捨てたのならば、梯子の登り口に放置されているだろうし、梯子の上から捨てるだろうから死体が損傷しているはずだ。
と考えると、恐らくマクダネルは自分で貯水槽に下りて、隅まで歩いていってよっこらしょと腰を下ろし、そのまま死んだのだろう。
顔を見ると、心なしかにやけているように見える。こういう点も「何でたまに一人でにやけているの?」と指摘される自分とっては共感を覚える部分だ。
座りかたもシャキッとせず、だらけきったぐにゃっとした座りかただ。自分がピグレットでゲームをしたり、本をよんだりしているときの姿勢に似ている。
©フロムソフトウェア
前に「自分にとって物語は、世界における自分の立ち位置、座標軸を教えてくれるもの」と書いたことがある。
広大な貯水槽を世界に見立てたときに、自分も恐らくその位置にその姿勢で、その表情で座るだろう……自分の内的世界がこの貯水槽みたいな感じで、常にマクダネルと同じところにいると思うところが親近感を感じる理由なのかもしれない。
色合い的に壁と同化していて、他人が見つけやすいか見つけにくいかということは、ほとんど考えていない。サリヴァーンの獣たちからは、なんか知らんが昔からある変なオブジェ的な扱いでスルーされている。
ただズーっと隅に座り続けて、たまに妄想してニヤっとする。「強い深みのソウル」のように、自分にヒットするものがあると、突然興奮しだす。
サリヴァーンやエルドリッチは、世俗のこと、世界のこと、自分のことをそれなりに考えていたと思う。
マクダネルは、死んでいる場所を見ても、自分の興味が最優先というか、良くも悪くも社会性がなかった気がする。
延々と一人で訳の分からないことを喋っているのを適当にあしらわれていて、そのうちロイスに実権を奪われて、「神喰らいの守り手の誓約者」という名誉職っぽい閑職にいつの間にか追いやられたんじゃないだろうか。
そうでなければ、あんなところで死んでないだろう。
もしくは「地下神殿を造ったので、猊下、そちらにどうぞ」と言われて行ったあと、後からサリヴァーン辺りが「あの地下神殿、貯水槽として使ったほうが有効じゃないか?」と言ったのかもしれない。
サリヴァーンは法王になり、アノール・ロンドをあっさり滅ぼしたところを見ても、政治家としても軍人としても有能そうだ。
厨二病の本質は、社会的な自分と個人としての自分の折り合いのつけられなさ、アンバランスさだと思っていて、自分の場合はその辺りをわりと意識的に切り分けてやりくりしている。
そんな厨二な自分は「個人としての自分を押し殺してでも社会的な責任を引き受ける大人」なヨームのような人には、尊敬と共に大丈夫か?という過剰な気遣いを感じてしまう。
マクダネルも、もしかしたら社会的な責任から「神喰らいの守り手の誓約者」を引き受けたのかもしれない、と一瞬考えたが、たぶん違う。
あの位置、あの座りかたはどう見ても公的(社会的)な雰囲気を感じない。他人(社会)のことなどまったく考えずに、好きなところに適当に座った感が半端ない。
そしてそういう場所で空気を読まずに、突然ボルテージMaxで「素晴らしい! ここが世界の底である」とか一人で叫んでいそうなところに親しみを感じる。他人とは思えない。
だから誓約はずっと「神喰らいの守り手」だ。オンラインプレイしないから意味ないんだけどね。
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ヨームは自分から見ると「大人だ」と思うのだけれど、そういう社会的な属性を多く背負ったほうがずっと生きやすい、という人もいるのかもしれない。ヨームの場合は、社会のほうが崩壊寸前なのに背負ってしまい、おかしくなってしまったことが気の毒だ。
サリヴァーンはマクダネルをバカにしてそう、という偏見がある。
愛用のピグレット。