パンドラの唐突なデレデレぶりにもびっくりしたが、まさかの両想いにもビックリした。
だとすると、あの調教ごっこはそういうプレイだったわけか…。バレンタインには同情の念を禁じ得ない。そういうところも含めて「高潔なかた」だと思っていたのかな。
この二人の気持ち自体はワケがわからないが、なぜこの二人の関係がこんなにワケがわからないものなのかは、物語の中で丁寧に描かれている。
この二人の関係に焦点を当てて読み返すと、「こりゃあ上手くいくはずがない」という思いと「こんなに上手くいくはずがない条件でも、最後の最後で気持ちが通じ合った」という感動が交差する。
傷ついたいたいけな女の子・パンドラ
パンドラは初期のころから、一貫して「一生懸命頑張っているのに、やることなすこと裏目に出るドジっ子いたいけキャラ」として描かれている。アローンに怒られ、双子神に怒られ、輝火には相手にされず、杳馬にはコケにされ、パルティータにはお仕置きされる。
「ブルーグラード編」辺りから早々と「ドジっ子」の真価を発揮しており、ポセイドンの小宇宙に吹っ飛ばされ、オリハルコンを壊して敵であるユニティから「とんでもないことをしてくれたな」と怒られる。自分で復活させてしまったポセイドンに「許さん」と言って飛び掛かって速攻でやられる様は、ギャグとしか思えない。
普通はこういうキャラは初期では強大さや邪悪さが強調され、後々人間味やそのキャラなりの事情が加味されていくものだけれど、パンドラの場合はこの「ドジっ子ぶり」が初期からあからさまだ。
パンドラが動力源としていたパルティータへの憎しみも、杳馬によって仕組まれた勘違いだったとさんざんな扱いだ。
本編後半で語られる「居場所を作るために懸命に頑張る小さな女の子」というパンドラ像は、初期からのパンドラの姿に何の抵抗もなく重なる。
なるほど、そもそもそういう設定だからあんなに「ドジっ子怒られキャラだったのか」とすんなり納得できる。
基本設定がそうであるためか、パンドラがどれだけ憎々しく振る舞ってもマトモに受け取る気にはならない。悪く振る舞おうとすればするほど、痛々しく見える。サーシャの顔を蹴飛ばしても、バレンタインやラダマンティスを踏んずけても、小さな女の子が我が儘を言ったり、癇癪を起しているようにしか思えない。
実際、パルティータに殴られたシーンでは、テンマですらパンドラに同情している。
道具として運命に振り回され続けるパンドラは、傷ついて泣いてばかりいる。
「真実なんて痛いだけじゃないか」
パンドラは弟が奪われ、望まず冥王軍の幹部になってしまっときから時が止まってしまっている、傷ついた小さな女の子だ。
これ以上傷つきたくないゆえに、わざと猛々しく邪悪に振る舞う。そうでなければ、冥王軍の中ですら居場所がなくなってしまうからだ。
実際、パンドラが失墜してからのバレンタインの言い様から見ても、パンドラを本当の意味で「冥王軍の幹部」と認めていたのは、ラダマンティスくらいだったのだと思う。
なぜ、「私に向けられたものじゃない」と思い込んでしまうのか。
ラダマンティスはそんなパンドラに唯一、心からの忠誠を誓っている。
しかしパンドラは、「お前だけが、そのひたむきさで私を支えてくれた」と認めているのに心が開けない。「ツン全開」で当たる。
何故かと言えば「それが私に向けられたものじゃないことは分かっていた」からだ。この二人の関係のややこしさ、硬直の原因はここにある。
「傷つきまくった小さな女の子」であるパンドラは、それがどんなにひたむきで真実、心からのものがと分かっていても「私に向けられたものじゃない」気持ちに対しては心が開けない。
ではなぜパンドラが「冥王軍に入ったときから、ひたむきに支えてくれた」ことすら「それは私に向けられたものじゃない」と勘違いしてしまうのか。
他の冥闘士も「パンドラに従うのは、冥王軍だから」だが、バレンタインを見ても分かる通り、彼らとラダマンティスでは明らかにパンドラに対する態度が違う。
だが、この違いがなぜなのかということは非常に分かりにくい。
この「違いの分かりにくさ」「なぜパンドラが、『それは私が冥王軍の幹部だから(それだけが理由)』と思ってしまうのか」は、「ブルーグラード編」でカルディアがラダマンティスに言った言葉によく表れている。
カルディアは「パンドラ様、パンドラ様か。お前は犬だな」と指摘した後に、「お前は本当に冥王軍の犬だな」と言っている。
ラダマンティスの中で「パンドラと冥王軍はほとんど同義」ということが、カルディアの言葉で露わになっている。
「パンドラと冥王軍が同義」であることと、バレンタインのように「冥王軍の幹部だからパンドラに従う(同義ではない)」は違う。しかしパンドラは後者である、と取ってしまう。
しかも後の展開を見ると、実はラダマンティスにとって「パンドラと冥王軍は同義」ではない。
しかしこの辺りは、読み手ですら最後の最後まで「ラダマンティスにとってパンドラと冥王軍は同義」であると勘違いするような仕組みになっている。
話を整理すると
①冥王軍の幹部だから、パンドラに従う。(バレンタイン)
②冥王軍とパンドラは同義であり、忠誠の対象(ラダマンティスの表層部分)
③冥王軍とパンドラは同義ではなく、パンドラ個人が大事(ラダマンティスの深層部分)
こういう仕組みになっている。
③②を①と勘違いしてしまうのは(というより、何事も①だと思い込んでしまうのは)、パンドラ側に大きな原因がある。
彼女は「色々なものを取り返さなければ、自分には居場所も価値もない」と考えている。パンドラにとって「冥王軍の幹部ではない、ハーデスの姉ではない自分」は価値がない。だから他人にとってもそうだ、と思っている。
だが③を②を勘違いしていまうのは、ラダマンティス側に大きな原因がある。物語内の人間も物語外の人間も、②だと勘違いしてしまうのは、ラダマンティス本人が②だと思い込んでいるからだ。
ラダマンティスはパンドラのことに限らず、自分には③の領域がないと思い込んでいる。(正確には思い込みたがっている。)
公的言語しか話せない男・ラダマンティス
ラダマンティスは、「ハーデスに仕える」「冥闘士として冥王軍のために戦う」ことに自分のアイデンティティの全てを捧げている。
これは「ブルーグラード編」でのカルディアとの生き方の対比、「調教編」でのバレンタインへの対応、「ハーデスへの忠誠を疑われるのが一番辛いこと」と言って心臓を自ら抉り出すなど、再三再四に渡って描かれている。
「冥王軍の戦士」として以外のアイデンティティを持たないラダマンティスは、常に「冥王軍の戦士として」行動し、言葉を語る。
こういう「共同体における何かの役割、立場からでの言動しかしない人間」のことを「公的言語しか話せない」と仮に名付ける。
漫画ほど極端な例は珍しいが、「社会的、共同体的役割から外れた個人としての自分の言葉を語らない人」というのは、日常生活でもけっこう見る。「会社を退職したら、何をしたらいいか分からない人」などが近いかもしれない。「私」が希薄な人間、と考えてもいい。
「ロストキャンバス」では、この「公的な自分」と「私的な自分」の対比として、ラダマンティスとカルディアを対峙させている。
ラダマンティスの面白いところは、あれほど「公的な自分」に生きようとしながら、「私的な自分」がないわけではない点だ。
作中でラダマンティスは常に「自分=俺」を圧し殺して、「冥王軍の戦士」という役割に自分を同化させようとする。だが、図らずとも個人としての自分=「俺」が出てくるときがある。
「自己」を全面に押し出して生きているカルディアと対峙しているときだ。
(引用元:「聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話12巻」車田正美/手代木史織 秋田書店)
ここで面白いのは、ラダマンティスが「自分本位で生きるカルディア」に対して、「我慢がならん」と言っているところだ。
仮にラダマンティスが「冥王軍の戦士=公的自分」としてのみ生きることに何の疑問も違和感もなければ、ここは「我慢がならん」とはならない。恐らく「理解できない」「訳が分からない」「馬鹿馬鹿しい」というニュアンスになるだろう。
ラダマンティスはカルディアが言っていること、「個としてのみ生きる」ということがどういうことなのかは分かっている。だからこそ「我慢ができない」。何故なら自分が我慢しているからだ。
ラダマンティスが作中で「私的言語」を語るのは、最後のパンドラへのセリフを除いてはここくらいだ。
それくらいカルディアは、ラダマンティスにとっては我慢ができない存在なのだ。
カルディアは、ラダマンティスが自分の身の内に押し殺している「私的な自分」なのだ。ラダマンティスVSカルディアは、「公的な存在としてのみ生きようとするラダマンティスの、私的な自分との葛藤」と見ることもできる。
ちなみにカルディアは何だかんだ言って、「アテナの聖闘士として生きる」ことにもそれほど疑問を持っていない。(外伝で描かれているのかもしれない。)だからラダマンティス個人の存在をどうこうというよりは、「自分の死地として」ラダマンティスのことを見ている。
パンドラとラダマンティスは、絶望的に断絶している。
「公的な言動しかしない人間」と恋愛は、ただでさえ食い合わせが悪い。
言うまでもなく恋愛というのは、私的な感情のみでできているものだからだ。「冥王軍の戦士としてあなたを好きになる」というのはありえないし、ありうるとしてもそれは恋愛とは呼べない。
「冥王軍の戦士として」発する言動が、「自分個人に対してのものと受け取れない」のは自然なことだ。
さらにパンドラのほうは前述した通り、「個人としての尊厳」を失っており、自分個人の価値を求められるような言動は受け取りにくい状態にある。
この二人は恋愛を軸にして見ると、断絶具合がすさまじい。共通言語がないのだ。
弱い自分を隠すための「邪悪で残酷な冥王軍の女幹部」と「冥王軍の戦士としての存在意義しか持たない冥闘士」というのが唯一つながりを保て、会話ができる関係なのだ。
二人の本質である「傷ついて自分の価値を受け取りづらくなっている、小さな女の子パンドラ」と「自分の私的な部分を押し殺して、公的な存在意義にのみで生きようとするラダマンティス」は、つながる方法がない。
「私的に自分を見てくれる言語」ですらなかなか受け取れないパンドラに、ラダマンティスは公的な言語のみでしか話しかけられないのだ。関係が進むわけがない。
ここまで考えると忠犬ごっこをやるしかない、というのは分からないでもない。
最後のシーンの意味
だから最後の最後まで、パンドラはラダマンティスの自分に対する感情が「①冥王軍の幹部だから、パンドラに従う」だと思い込んでいる。
「主に尽くすとは、これほどせねばならぬものか?」
「お前はいつも、冥王軍のために自分を捧げてしまう」
「それが私に向けられたものじゃないことは分かっていた」
「別に私を見ていなくても良かったんだ」
ラダマンティスも最後の最後まで、その誤解を解くための私的言語が話せない。
「俺にとってもパンドラ様にとっても、あの方に仕えることが唯一の存在理由だった」
だがアローンに「あなたは僕に対峙する資格はない」と言われ、パンドラ本人が「主に尽くすとは、これほどせねばならぬものか?」と疑問を口にしているように、パンドラの中では「あの方に仕えることが唯一の存在理由」ではないのだ。
ここにもこの二人の断絶が表れている。
パンドラは「自分を成り立たせるために、ハーデスに仕えることに存在意義を見出している」だけだ。そうでなければ「自分の居場所がなくなる」からだ。ラダマンティスとは違う。
だからアローンに対峙することができない。
ラダマンティスも実は、パンドラは自分とは違い「ハーデスに仕えなくても、存在意義を持つことができること」は分かっている。
だから最後にパンドラを庇い、生かしたのだ。ハーデスがいないのならば、「次の聖戦へ」いくしかない自分とは違う。
(引用元:「聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話23巻」車田正美/手代木史織 秋田書店)
「あの方に仕えることが、唯一の存在理由」の人間は、こんな顔はしないだろう。このデレっぷりのためならば、忠犬ごっこもしてしまいそうだ。
しかし公的言語しか語れないラダマンティスは、そういうパンドラの思いを「パンドラ様も自分と同じ」という風に語るしかない。
パンドラの置かれた状況や心境は分かっているが、それを説明する術を持たない。(実際は「ハーデスに仕えることが存在意義の全ての自分と、自分という存在を保つ方法がハーデスに仕えるという選択肢しかなかったパンドラは、ハーデスがいなくなれば存在理由を見失うという点では同じ」という意味なのだが、パンドラの理由が彼女の私的領域にあたるために、公的言語で翻訳すると「俺にとってもパンドラ様にとっても、あの方に仕えることが唯一の存在理由だった」になる。)
しかし最後の死ぬ間際に、ようやく「私的言語」を喋ることができる。
「冥王軍の……いや、俺のために」
自分の全存在意義を託していた「冥王軍」すら否定して、「俺」が出てくる。
よくあるシーンのように見えるが、ここまでラダマンティスの生きざまを見てきた読み手にとって、この「俺」はとてつもなく重い。この「俺」を出すくらいなら、ラダマンティスは心臓を抉り出してまで、それがないことを証明しようとする人間だからだ。
恐らくラダマンティスにとってパンドラは「俺」そのものだった。
「ハーデスに仕えることが唯一の存在理由である公的自分」は、ハーデスがいない世界では生きる意味がない。だから次世代の聖戦に向かう。
だが他の存在理由が持てる「私的自分=俺」は、この世界で生きて欲しい。
ラダマンティスがパンドラに向ける感情が、恋愛だったのかどうかというのはよく分からない。そもそもラダマンティスは、恋愛を含む「私的領域」を殺して生きてきた人間だからだ。
だがそれが恋愛かどうかか考えるのが些末だと思えるくらい、ラダマンティスはすさまじい重みをもった感情をパンドラに向けていたのだと思う。
心臓を抉り出すくらいの覚悟で「公的自分」として生きたのは、それくらい「私的な自分」が弱かったからなのかもしれない。ラダマンティスにとってパンドラは、消そうとしても消しきれない、そして最期は自分にそれがあることを認めて守った「私的な自分の領域」だったのだと思う。
逆に最後の超絶デレ状態を見ると、パンドラはラダマンティスのことを明確に恋愛対象として見ていたのだろう。
しかし、二人とも恋愛に余り向いていない性格なうえに、お互いが自分にとっての最高難度の対象だ。
こんな条件がキツイ恋愛を、しかも二人の性格や関係まで含めて丁寧に描いている。こういうことを敵サイドでやってしまうのが、「ロストキャンバス」のすごいところだ。
パンドラはテンマと相性がいい。
パンドラは自分を「個人として」見てくれ、真正面からではなく適当に構ってくれる相手と恐らく相性がいい。
傷ついているときは、「冥王軍の女幹部」という敵味方の立場も関係なく同情してくれ、パンドラの表向きの猛々しい仮面に取り合わず、適当にツッコミを入れたり絡んでくれたりするテンマのようなタイプと、最も相性が良さそうだ。
(引用元:「聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話」 車田正美/手代木史織 秋田書店)
「あんたこそ、泣いて化粧はげてんじゃねーかよ」
敵に対してもこういう「私的言語」を何の遠慮もなく吐ける。こういうところを見ると、杳馬の血を確実に継いでいると思う。
パンドラも心なしか楽しそうだ。こういう相手なら、忠犬ごっこなんてする必要はないんだけどな。
でも相性がいいから、言葉が通じ合うから人を好きになるわけではない。好きだから、素直になれるわけでもない。
戦闘シーンの多い少年漫画でありながら、そういう恋愛の妙味まで味わえてしまう、「ロストキャンバス」はやっぱりすごい。
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