「八月の光」あらすじ
出産間近の身体で家を出て恋人を追いかけるリーナ、黒人の血が流れていると噂される寡黙な流れ者クリスマス、街の教会から追い出され孤独に生きる初老の牧師ハイタワーの三人を中心に話が進む。
出産間近のリーナは、自分を置いて逃げた恋人を探すために、アメリカ南部ミシシッピ州ヨクナパトーファ郡ジェファソンにやってくる。
リーナがジェファソンにやってきたとき、街では事件が起こっていた。
酒の密売を行っていたジョー・クリスマスという男が、町外れに一人で住む女性を殺害し、屋敷に火をつけ逃亡したのだ。クリスマスは白人のような外見を持ちながら、その体に黒人の血が流れていると噂されていた。
リーナの恋人はブラウンという偽名を名乗り、クリスマスの酒の密売の片棒を担いでいた。クリスマスと同居していたブラウンは、クリスマスを捕まえてその賞金を手にしようとやっきになっていた。
クリスマスは一度は捕まるが、再び脱走し、街の人々から追放された牧師ハイタワーの家に逃げ込む。ハイタワーを銃で殴り倒したところを、街の自警団に見つかり殺害される。
リーナは、クリスマスとブラウンが住んでいた小屋の中で男の子を出産する。
クリスマスとの共犯関係を疑われ刑務所に入れられていたブラウンは、保安官に連れられてリーナに再会するが、再び逃げ出す。
リーナとリーナの息子、そしてクリスマスとブラウンの同僚でリーナを好きになったバイロンの三人は、ブラウンを探すためにあてどもない旅に出る。
感想
光文社古典新訳文庫は、非常に読みやすかった。
「八月の光」を初めて読んだのは学生時代で、そのときは新潮文庫版で読んだ。
今回読んだのは、光文社の古典新訳文庫だ。
やや複雑な時系列やクリスマスをキリストになぞらえている箇所や、ニュアンス的に分かりにくい部分が注釈で説明されているので、とても読みやすかった。
昔は、この本に書かれていることがピンとこなかった。
昔読んだときは、この話に書かれていることがまったくピンとこなかった。
リーナはたくましいけれど、悪い男に騙されただけなのにそれを信じている馬鹿な女の子としか思えなかったし、バイロンがそんなリーナを好きになるのもただのご都合主義としか思えなかった。
クリスマスは境遇自体は気の毒だが、暴力的でたいして同情はできなかった。
ハイタワーはまったく理解できず「年を取るとこんな風に無気力になるのか」くらいにしか思っていなかった。
「八月の光」は主人公格であるこの三人が、ほとんど関わらない。リーナとクリスマスは顔すら合わせないし、リーナとハイタワー、クリスマスとハイタワーが関わるのもほんの一瞬だ。
バラバラに見える三人の物語を通して、何を言いたいのかがよく分からなかった。
今回は夢中になって読んでしまった。
「八月の光」は、自分たちが生まれる前から積み重ねられ受け継がれ、生まれたときから自分の体の中の血に染み込み、押された刻印にどう向き合うか、ということを書いている。
自分は、血縁や地縁というものがかなり希薄な環境で生まれ育った。「血や地に縛られる」ということが、どういうことなのかが頭では分かっていても、実感することができなかった。
「自分というものは『自分』だけでできている」
そう思っていたころは、この本に描かれていることがほとんど理解できなかった。
「人間はその土地から教えられたように行動する以外にない」
「八月の光」の舞台である、1900年代前半のアメリカ南部ミシシッピ州は黒人への差別感情が根強く残っている。
ここでいう「差別」とは自分たち現代日本に生きている人間が「差別」と聞いたときに、思い浮かべるものとはまったくの別物なのだと思う。「穢れ」の感覚に近い。白人たちは伝染病を恐れるように、黒人たちに接する。
その感情は、黒人と関わりを持とうとする白人たちにも向けられる。
ジョアナ・バーデンは、黒人の支援者だった祖父と異母兄を同時に殺されている。未だにジョアナ自身も村八分にされ、祖父と兄の墓が掘り返され遺体を傷つけられないように墓の場所を隠していなければならない。
ハイタワーは独り身であるのに黒人の料理人を雇ったため、性的関係があるのだろうと疑われる。それでもなお雇い続けたため、過激な集団からリンチにかけられる。
ただ「八月の光」はこういった苛烈な差別感情そのものではなく、それをモチーフにして別のことを書いているのだと思った。
「父は言ったわ。
『覚えておくんだ。おまえのお祖父さんとお兄さんがここで眠っている。
ひとりの白人の男に殺されたんじゃない。おまえのお祖父さんや、お兄さんや、父さんや、おまえが生まれるずっと以前に、神がある人種全体にかけた呪いのために殺されたんだ。その人種は永遠の呪いを受けて、罪を犯した白人に対する呪いとなる運命を定められた。
それは永遠に、父さんへの呪いであり、お前の母さんへの呪いであり、おまえへの呪いである。
おまえはまだ子供だけどね。今まで生まれた白人の子供も、これから生まれる白人の子供も、みんな呪われている。誰もそこから逃げられないんだ』
(引用元:「八月の光」 ウィリアム・フォークナー/黒原敏行訳 光文社P364 太字引用者)
バーデンが子供のころに父親から聞かされたこの言葉は、人種問題に目が行きがちだが、それはモチーフに過ぎず、もっと根本的なことが言いたいのだと思う。
「父は(略)人が自分や自分の一族が生まれた土地に対して抱く愛着を尊重することができた。人は自分の生まれた土地から教えられたように行動する以外にないことが理解できた」
(引用元:「八月の光」 ウィリアム・フォークナー/黒原敏行訳 光文社P368/太字引用者)
「父親がなぜ、祖父や兄の敵討ちをしなかったか」について、バーデンはクリスマスにこう説明する。
自分が生まれるずっと以前から、自分が生まれた地で築かれてきたもの、そこで起こった様々なものが積み重なり、遠くの祖先から自分の祖父母へ、祖父母から両親へ、両親から自分へと受け継がれてきたものが自分を形作っている。
そういう血と歴史を継いだ人々が、その土地の土であり空気でありその地そのものなのだ。その土地そのものになった人々が、またその長く続くその土地の歴史と血を、次の世代につないでいく。
牧師だったハイタワーは人々から侮辱され徹底的に疎外される者になることで、ようやくその輪の外に逃れる。
『嫌だ! 関わりにならんぞ! わたしは代償を支払って、世間との関わりを免除されたんだ。代償は支払った。支払いは済んでいるんだ』
(引用元:「八月の光」 ウィリアム・フォークナー/黒原敏行訳 光文社P445)
ハイタワーは自分の人生の全てを捨て、リンチにかけられることで、ようやく遥か昔から延々と続く歴史と血脈の連環から逃れた。若いころのハイタワーは、それがどんな方法であれその輪と対峙することができた。
しかし長い間、自分が組み入れられた輪の外で孤独に生き、初老の域に入ったハイタワーは昔とは違う。
かつてのハイタワーは自尊心も希望も虚栄心も不安もすべてわが手に握り、敗北も勝利もしっかりと自分で引き受けていたが、今はもうそれをやめ、自分自身の把握と引き受けを完全に放棄してしまった。
(引用元:「八月の光」 ウィリアム・フォークナー/黒原敏行訳 光文社P562)
バイロンがハイタワーに「事件当夜、クリスマスはハイタワーの家にいたと偽証してくれ」と頼んだとき、ハイタワーは「わたしはできないんじゃない。する勇気がないんじゃない。する気がないんだ!」と答える。
バイロンの頼みは余りに身勝手で本人も認めている通り酷いものだが、若いころのハイタワーがやったことと本質的には同じことだ。
しかし代償を支払い、その輪から離れた今は、ハイタワーはその輪に近づくことを拒否する。
血脈の連環の呪いは、どこまでも追いかけてくる
この歴史と血脈の連環、その呪いは時代を超えても追いかけてくる。
自分がこの本で一番恐ろしいと思ったのは、バーデンの祖父と兄の運命だ。
二人は同じキャルヴィンという名前を持ち、祖父は十二歳の時に家出をして、よそ者としてジェファソンにやってくる。息子でありバーデンの父親でもあるナサニエルは、息子のキャルヴィンが十二歳のとき、祖父キャルヴィンの下に戻ってくる。
そして祖父と孫の関係にある二人のキャルヴィンは、同じ日に殺される。
十二歳のときに自分の輪の外に逃れたキャルヴィンは、十二歳のときにキャルヴィンとして輪の中に連れ戻される。そして輪の中で殺され、同じ墓に眠る。
「八月の光」では、「人は決められた運命の連環の中に投げ込まれただけの存在に過ぎず、そしてまた他人の運命の連環を作る存在でもある」という概念が頻繁に出てくる。
ハイタワーは自分が生まれる前に祖父が死んだときに自分も死んだと思っており、今の自分はその残滓であると考えている。
クリスマスの祖父のドグ・ハインズは、クリスマスが生まれた瞬間から「黒い血が入っている」という刻印を押す。彼はクリスマスを捨てながら見張り、三十年後にクリスマスを見つけると彼をリンチにかけるよう群衆を扇動する。
クリスマスは無慈悲な養父マッケカーンを殴り倒し、家を出る。十八のときに「これから十五年間ずっと続くことになる通りに出た」
一本の通りはオクラホマ州に入り、ミズーリ州に入り、南はメキシコまでくだったかと思うと、北上してシカゴやデトロイトに行き、それから南下して、ついにミシシッピ州までやってきた。
それは十五年の長さを持つ通りだった。
(引用元:「八月の光」 ウィリアム・フォークナー/黒原敏行訳 光文社P320 太字引用者)
「八月の光」で書かれているのは、このクリスマスが十八のときから、いや生まれたときから、もっと前の生まれる前から、歩くことを運命づけられた「一本の通り」のことだ。
生まれたときから、この土地における刻印として「黒い血が流れている」と噂されたクリスマスは、狭い一本道の運命に生まれた。
彼はそこから逃れようとして厳格な義父を殴り、酒の密売を行い、自分を道連れにしようとしたバーデンをはねつけた。
犯罪や暴力を使ってでもその輪から逃れようとしたが、それでもそこから逃れることはできなかった。その輪は彼自身の血の中に、彼が生まれるずっと以前から流れるものでできているからだ。
彼を取り巻く世界、彼自身を形づくっているものの一部だからだ。
『俺はこの七日間で、三十年の間行ったどこよりも遠くまで行ったんだ』(略)
『でも円の外には一度も出なかった。俺は自分が今までやってきてもう取り消せないことの輪を破って外に出ることができなかった』
(引用元:「八月の光」 ウィリアム・フォークナー/黒原敏行訳 光文社P487 太字引用者)
あるいは呪いの運び手なだけの存在なのかもしれない。
最初に読んだとき、「八月の光」に出てくる考え方がまったくピンとこなかった。
人生とは無限に広がる何も書かれていない白紙のようなもので、そこに道を作るのは自分の意思のみだと思っていた。
人生とは自分の意思で方向性を決めるものだし、決められるものだと信じていたし、その決めている「もの」がまぎれもない「自分の」意思なのだと、信じて疑っていなかった。
白紙ではなく、自分よりも何世代も前の人が様々なことを書きこんだ場所、少なくともそういうものを与えられて生まれてくる人間がいる、ということが頭では分かっていても、まったく実感できなかった。
何故なら自分もその書き込まれたものでできている、という発想がなかったからだ。そんなものはいくらでも自分自身で書き換えられると思っていた。
書き換えらえると信じている自分の身体にも、その体内にも何かが延々と書きこまれている、「もしかしたら『自分の意思』だと信じているものは、その書き込まれたものなのかもしれない」とは考えたこともなかった。
「八月の光」が恐いのは、その書き込まれたものがどれほど理不尽でどれほど恐ろしいものでも、それから逃れることも捨て去ることもできないと思わせる点だ。何故なら、その書き込まれたものそのものが「自分」だからだ。
ひょっとしたら「自分」というのは、その書き込まれたものによって規定されて、ただ出口のない輪の中で、一本の定められた道を歩くだけの存在なのかもしれない。
そのことに気づいた人と、気づかずにそれが自由であり、自分だと思っている人間がいるだけなのかもしれない。そして誰もが、次の世代に呪いとして作用するかもしれない書き込まれた重みを受け渡すだけの存在なのかもしれない。
その恐ろしさを描いた物語なのだ。
「八月の光であるリーナ」は、どこまでも遠くへ行ける。
「八月の光」は、当初「暗い家」という題名だったらしい。
詳しく調べていないのでただの想像だが、当初はクリスマスの運命を中心に描いた閉じられた輪の物語だったのかもしれない。
しかし「八月の光」はリーナの言葉に始まり、リーナの言葉で終わる。
どう考えても信頼するに足りない、他人からは「悪事を働く能力すらない」と酷評されるブラウンに騙されて、兄に家から追い出されたリーナ。
最初読んだときは、「何てバカなのだろう」と思っていた。
ブラウンに逃げられたことすら気づかず、道行く人から哀れみと蔑みの目で見られ、この時代では偏見の対象である「結婚せずに妊娠した女」になったリーナ。「愚かでふしだらな女」と陰口を叩かれるリーナ。
しかし彼女は、世間の目もブラウンが逃げたという「世間の真っ当な判断」も気にしない。「神さまはちょうどいいと思ったときに、親子三人を揃えてくれるんです」という周りの人間とはまったく関係ない、自分個人の考えを貫いている。
リーナは考えなしだが、その愚かさでこの物語の中でただ一人、土地と血脈が作る運命の連環から抜け出した。
『あたしはアラバマからやってきた。(略)はるばるアラバマから歩いてきた。ほんと遠くまで来たものね』
(引用元:「八月の光」 ウィリアム・フォークナー/黒原敏行訳 光文社P7)
「あの女はただ旅をしてただけなんだ。一応誰かを追っかけることにはなってても、はなから見つかるとは思ってなかった。見つけるつもりもなかったんだ。(略)
だからもう少し遠くまで旅をして、できるだけたくさんのものを見ようと決めたんじゃないかな」
(引用元:「八月の光」 ウィリアム・フォークナー/黒原敏行訳 光文社P722 太字引用者)
彼女は世間の因習に則って、「子供の父親を見つけて、ちゃんと結婚しよう」などと始めから余り考えていなかったのかもしれない。
ただずっと、遠くまで旅をしたかった。クリスマスが三十年間かけても行けなかった場所、それよりもずっと遠くへリーナは行くのだろう。
ハインズ夫人によって、「クリスマス」という概念を与えられた自分の息子を抱えて、クリスマスが辿りつくことができなかった輪の外を、どこまでも遠くへ旅をするリーナのラストの言葉は感動的だ。
『まあまあ、人間ってほんとあちこち行けるものなのね。アラバマを出てまだふた月なのに、もうテネシーだなんて』
(引用元:「八月の光」 ウィリアム・フォークナー/黒原敏行訳 光文社P723)
リーナはこの呪いのような運命の連環の物語の中に差し込む、ただひとつの光だ。彼女だけが輪を抜けて、どこまでも遠くへ行ける。
自分の身の内に書き込まれたものをただ次世代に呪いとして引き渡すだけの存在なのかもしれないけれど、少しでもそうでないものも残せたらいい、そうできるかもしれないと思わせてくれる。
「物語」という連環すらぶち破るリーナ
読んでいて、ひとつよく分からない箇所があった。
ハインズ夫人が、リーナが出産した直後、リーナを娘のミリーだと思いリーナの息子を孫のクリスマスだと信じるシーンで、リーナはハインズ夫人の言動に不快感を示す。
物語の構造的には、「運命の連環から逃れられず殺されたクリスマスが、リーナの息子と重なるという含みを残して、リーナと共にどこまでも遠くへ行ける」という風にしたほうが収まりがいいと思ったので不思議だった。
それがこの物語の結論だと思ったのだけれど。
訳者解説で、この部分について面白いことが書かれていた。
「リーナは作者フォークナーに、自分の息子とクリスマスをごっちゃにするな、と抗議しているのではないか」
自分もこの意見に賛成だ。
リーナは「八月の光」という物語の連環すら、拒絶しているのだ。作者の作った希望を持たせる構造も拒否し、読み手が感じたい希望の物語も拒否する。
「『八月の光』では、うちの息子にクリスマスを投影して運命の連環から抜け出せる希望にしたいんでしょうけれど、うちの息子はうちの息子ですから」
そう言いたいのかもしれない。
物語という整合性のある連環すらぶち壊すリーナのたくましさに、惚れ惚れしてしまう。
他人の勝手な期待も希望も突き破って、どこまでも旅を続けるリーナを表す「八月の光」というタイトルが、やはりこの物語に一番ふさわしいと思う。
関連記事
「心臓を貫かれて」も似たことが書かれている。
「カーニバル」はちょうど同じ時代のアメリカ南部の物語。