Amazonプライムビデオで、中島哲也監督、役所広司主演の映画「渇き。」を見た。
この映画は起こっている出来事だけを見ると、過激な暴力描写と主役の藤島をはじめ、登場人物たちの常軌を逸した言動が過剰すぎてそれほど面白くない。
これを現実の暴力として見ると、嫌悪を覚えうんざりするだけだ。
「渇き。」における暴力は、目的ではなく何かを語るための方法だ、と自分は思った。
「渇き。」は暴力という特殊な言語でしか自分を表現できない男の孤絶と、彼の言語をただ一人理解し受け入れた娘との愛を描いた物語である。
藤島が加奈子に対して言う「ぶっ殺す」は、すべて一般的な言語でいう「愛している」に変換できる。
「相手を傷つけることでしか愛を語れない」というよりは、「相手を傷つけることと愛すること」が同義の世界で、藤島と加奈子は生きている。
彼らは「クソ」と呼ばれる同人種であり、暴力でしか語り合うことができない「地獄」と呼ばれる世界にいる。
地獄の言語は暴力なので、地獄に生きるクソたちはお互いに過激な暴力を振るい意思を伝えあう。地獄の外で生きる人たちにとっては、「狂っている」としか思えない。
「暴力がある種の人々にとって、唯一の自己表現である」というのは、あくまで物語を語るうえでの前提、設定だ。
「渇き。」における「暴力」は、藤島が誰ともつながれない孤絶した人物、という設定を作るための手段にすぎない、と自分は思っている。暴力を、藤島一人しか話せない特別な言語と置き換えてもいい。
「渇き。」の「暴力表現」はあくまで架空のものであり、現実的な痛みや問題に接続させないよう、かなり気を使っているように見える。
自分もDVや虐待を含め現実の暴力には強い嫌悪感を持っているし、特に強者が弱者に向ける暴力に対してはその思いが強い。
ただこの映画における暴力は、現実の問題に結び付けて考えてはいない。
「渇き。」で重要だと思うのは「暴力」の是非やそれが何なのかではなく、その過剰さ(饒舌さ)だ。
一般的な言語では、ほとんどの人物と会話ができない(意思の疎通もできない)藤島は、暴力ではマシンガンのように続けざまに雄弁に語り続ける。
そして「その言語は分からない」と最初は嫌悪を抱いていてさえ、物語が進むにつれて藤島の気持ちが伝わってくるような気がする。
自分は映画を見ているあいだ、何回か浅井とほぼ同じタイミングで笑ってしまった。
自分が一文字も分からない一単語も知らない言語でも、しつこく訴えかけ続けると何かしら通ずるものが出てくるらしい。
「渇き。」は、暴力という特殊な言語でしか話せない、藤島の加奈子への愛情を描いた物語だ。
加奈子は藤島を理解し、誰にも分らないその愛を受け入れて、地獄につながる穴に自ら落ちた。
しかし加奈子が落ちた穴は、藤島がいる場所よりもずっと深い。加奈子はどこまでも落ちていき、そして自分を愛する人たちも同じ穴に引きずり込む。
加奈子は、緒方も「ボク」も遠藤も長野も松永も晶子も理解し、彼らから自分に向けられる愛情もすべて受け入れた。そして愛しているからこそ、相手に暴力を振るい、傷つけメチャクチャにする。
原作は未読なのだが、あらすじを読んだ限りでは「自分の加奈子への虐待が、加奈子という悪魔を生んだ」ということに藤島が気づく物語なのでは、と思う。
仮にそうだとすると、原作と映画は筋は同じでもまったく別のことを描いている。
そう思う一番の要因は、妻夫木聡が演じる藤島の元後輩・浅井のキャラクターの変更だ。
映画の浅井は警察官という「まともな」世界にいながら、言動から藤島と加奈子と同じ世界の住民であることが明らかだ。地獄の住民は、現世に住む人間が真摯になったり、怒ったりする状況で唐突に笑い出す。
映画の「渇き。」において、「暴力でしか交流できない地獄の住民であること」は、藤島と加奈子親子の特異性ではない。またいわゆる裏社会が、イコール地獄でもない。
「まともな世界」にも地獄はあり、地獄の住民は住んでいる。
浅井は「ボク」や加奈子とは違い、誰かによって地獄に引きずり込まれたわけではない。元々そうなのだ。
浅井という人物は、映画「渇き。」は「親(藤島)の悪影響が子供(加奈子)を悪魔にした」という因果が主筋ではないことを示しているように思う。
なぜ、彼らが暴力でしか語れないのか、何が彼らをそうしたのかは問題ではない。
そういう地獄の住民たちのコミュニケーションと愛情、その行方を描いているのだ。
加奈子と藤島を見て地獄の住民以外の登場人物たちは、頻繁に「狂っている」と口にする。加奈子は彼らに対して、「ちょー受ける」と言う。
このふたつは同じ意味を持ち、両方とも「よくわからない」だ。
加奈子が刺される寸前の、東と加奈子の車中での会話は、両者のかみあわなさ、理解しあえなさをよく表している。
まったく別種の生物が交流しているようだ。
あのシーンで、加奈子は東に理解を求めて自分や自分と同じ世界の住民たちについて語っているのだが、まるで通じない。
そしてそういう断絶の中で二者をつなぐ唯一のものも、また暴力しかないのだ。
加奈子や藤島を「狂っている」という外の世界の住民も、結局は自分の怒りを伝えるコミュニケーションの最終手段として暴力を振るう。暴力によってのみ二者はつながれることを、図らずとも表してしまっている。
暴力でしか自分を表現できない藤島にとって、その自分の愛を受け入れてくれた加奈子は唯一無二の存在だ。
穴に埋められ、藤島がいる地獄よりもさらに下に落ち続ける加奈子を、これからも探し(探させ)続けるだろう。
加奈子が死んでいるかどうか、加奈子の死体を見つけるかどうかは関係がない。落ち続ける加奈子に自分だけがついて行き続けることが、藤島にとっては一番重要なことなのだと思う。
主演の役所広司はさすがの力演だが、「渇き。」はやはり加奈子を演じた小松菜奈の映画だ。顔の作りだけで言えば、どちらかというと個性的な顔立ちなのだが、目が離せない。
加奈子の底知れない魅力が伝わらなければ成立しない話だが、小松菜奈は自分が魅了した人間を地獄の底まで連れて行く加奈子の魅力と恐ろしさに、十二分な説得力を与えている。
嫌いな人はまったく受けつけなさそうな映画なのでちょっとおススメしにくいが、気になった人はぜひ。