「薔薇の名前」を久しぶりに読んだ。

- 作者: ウンベルトエーコ,河島英昭
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1990/02/18
- メディア: 単行本
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「薔薇の名前」は膨大な知識と情報がギュッと詰め込まれているが、普通に物語として読んでも面白い、なおかつその物語的要素もミステリーあり、歴史あり、哲学的な問題あり、冒険譚あり、謎解きありという贅沢な作りになっている。
どの角度から読むかだけで、何通りでも楽しむことができる。
「異端」の予備知識としておススメ。
一番最初に読んだときにこれがあればよかったなあと思ったのが「世界史リブレット20 中世の異端者たち」。
「リブレット」という名前の通り、小冊子で文字も大きくて必要不可欠なことだけが簡単にまとまっている。歴史の大まかな流れだけ知りたい、異端と言われた各派の特徴と動きだけを知りたいというなら十分だ。
ウィリアムが所属するフランチェスコ会のことや、ヴァルド派、カタリ派、清貧論争とは何なのか、ドルチーノのことなども書かれている。
税込でも800円くらいとそんなに高いものでもないのでおススメ。
ちなみに「27 宗教改革とその時代」は、「乙女戦争」のために買った。
「ミステリーとして読む」
最初は宗教の話はすっ飛ばして、ミステリーとして読んでいた。
「皇帝と教皇が対立していて、ウィリアムはその間に立とうとしてここにやってきたけれど、教皇派のベルナール・ギーの立ち回りで失敗した」
「ウベルティーノとミケーレがウィリアムの仲間。ミケーレは教皇におびき出されて、異端にされそうになっている」
これくらいの滅茶苦茶ざっくりした理解だった。
この辺りの背景はすごく複雑なのに、本編だと語り手の年老いたアドソが簡単に説明して終わりみたいな感じだ。後から後から人が出てきてしかもみんな持って回った言い方をするからほとんど理解ができなかった。たぶん理解させる気もなく、気になる人は調べてくれくらいの感覚なのだと思う。
理解しなくても、ミステリーや冒険譚として十分楽しい。まあ殺人の動機に宗教が大きく絡むので、知っていたほうが楽しめるのだろうけれど。
「アドソ視点でRPGとして読む」
だいたいこの読み方になる。
物語の大枠はつかめたし、教皇派と皇帝派のあいだでどこが争点になっているのか、なぜ「キリストが財産を所有していたか、消費していたかがそれほど問題なのか」ということも分かってきた。そろそろ一歩引いて読めるかな、と思いきや、常にアドソ視点。というよりも、アドソのお付き視点。
ウィリアムの推理に「師匠、半端ねえ」と思ったり、アドソの好きな娘を何で助けられないのかとジタバタしたり、文書館の探索にはりきったり、ウベルティーノ怖いと思ったり、ベルナール・ギーにムカついたりそんな感じだ。
閉ざされた修道院での連続殺人、歴史を揺るがす神学論争、修道院よりも歴史がある謎めいた文書館の探索、生涯でただ一回の恋愛とその悲劇的な結末と内容が盛りだくさんだ。
天地創造と比べても濃すぎる七日間。
せっかくアドソという視点を用意してくれているので、若くて元気なアドソの新鮮な視点で閉ざされた異様な世界観と事件を思いっきり楽しむのが、一番標準的な読み方に思える。何より楽しい。
「年老いたアドソ」視点で「入れ子構造」を楽しむ。
今回気になったのは、「入れ子構造」。
「薔薇の名前」はウィリアムよりも年上になったアドソが、若いときの自分の経験を回想する物語で、物語を見る目が「若いころのアドソ」と「年老いたアドソ」の二重になっている。
こういう構造になっている物語はけっこうあるが、「薔薇の名前」はその効果が最大限に発揮されている。
「若いころのアドソ」を見守るウィリアムは色々と欠点はあるけれど、優しく愛情を注いでいる。二人はけっこうキツイ言葉でやり合うのだけれど(アドソが意外とウィリアムに、反論したりツッコミを入れたりしている。)それでも切れない深い絆があることがわかる。
ウィリアムの立場はすごく複雑で難しく、強い縛りが課せられている。
深い知識と経験と鋭い頭脳を持つウィリアムも、物語の中ではほとんど無力だ。また意外と短気で自意識過剰で子供っぽいなどのウィリアムの不完全さを、「年老いたアドソ」が優しく愛情をこめて見守っている。
今回読み返して、この構図はいいなとしみじみ思った。
このあと二人は二度と会わなかったけれど、ウィリアムは今でもアドソの中で生きているんだと思えるところがいい。
ウベルティーノの「神が作ったものをそのまま受け入れ、知的好奇心は慎むべきものだ」という信仰について「若いアドソ」は疑問に思い知性を高く評価するウィリアム寄りの姿勢なのだが、「年老いたアドソ」はウベルティーノとの別れ際に「年をとるにつれて神の意志に身を委ねるようになり、物事を知りたがる知性や、行動したがる意志は、あまり評価しないようになってきた」と述懐する。
内容がどうというより、「人は変わらない部分もあるし、変わる部分もあるんだな」ということと、その変わった部分に「薔薇の名前」には書かれていないアドソの後年の人生が表れているようで味わい深い。
知識をそろえて、俯瞰視点で読む。
フス派が求めていた「二種聖餐」もそうだが、この時代の宗教的な問題や論点は、頭で理解できても実感することが難しい。
「薔薇の名前」の背景で問題になっている「清貧論争」も、教会や聖職者の私有財産を認めるか否かという世俗的な事情につながっているのは分かるのだが、ベルナール・ギーの異端審問の描写などを見ると、それだけでは片づけられない何かが伝わってくる。
自分の目から見ると「なぜ、そんな些細なことが問題に」「政治的なことならば、建前と実態を使い分ければいいのでは」と簡単に片付きそうなことに、なぜ多くの人が命をかけ、また残虐に殺されていったのかという、事実を読んだだけでは理解できない空気感のようなものが伝わってくる。
アドソやウィリアムは元より、マラキーア、アッボーネ、レミージョ、ベンチョといった人物も好き嫌いやその価値観の是非はおいておいて、考えていること自体は理解はできる。
しかしホルヘだけは、自分から見ると宇宙人のようで理解できない。言葉が通じない自分とは別種の生物に見える。「異端審問官」の記号のような人物像であるベルナール・ギーのほうが、まだしも理解できそうな気がする。
アドソが終わり近くで発した「神の絶対的全能とその選択の神の絶対的自由とを肯定するのは、神が存在しないことを証明するのに等しいのではありませんか?」という「ルール無用の何でもアリが神」だったら、そもそもその概念自体がいらないのでは? という問いに含まれる、神とは信仰とは何なのかという問題はものすごく難しい。
神の「真理の基準」が人の手に届かない場所に存在するのであれば、「知ること自体が罪」というホルヘの主張に追随することになるし、異端審問も否定することも難しくなる。かといって「神の真理を知りうる」という主張は、異端審問の態度そのものに見える。
ホルヘとウィリアムの対話や「薔薇の名前」という物語そのものが、そういった問いに対するエーコなりの記号であり「徴」であるようにも思う。
この辺り他の宗教、例えば仏教とかと比較したらどうだったんだろう? 誰かが「ドストエフスキーが仏教を知っていたら、違った小説を書いていたのでは」みたいなことを言っていた。(誰だっけ?)
「異端」という発想が出てくるのも、「唯一絶対の真理」という概念に基づいているからで、多神教だといざこざはあるだろうけれど異端審問みたいな苛烈さはないイメージだ。この辺りもちゃんと調べないと分からないけれど。
歴史や宗教、記号学をある程度勉強して読むと、またまったく違う小説として読めて楽しいのだろうと思う。
自分は知識が足りなくて、全然そういう風には読めないが。
でもそういったことに触れなくても、「薔薇の名前」は十分楽しめる。
普通に物語としても色々と楽しめるように書かれていて、知識がない人を門前払いするようなものではない。それでいながら深く考えようと思えばいくらでも深く考えられる。
その間口の広さが、「薔薇の名前」で一番すごいと思い、好きなところだ。