うさるの厨二病な読書日記

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孤独とは何なのか。「ある世捨て人の物語 -誰にも知られず森で27年間暮らした男-」の感想

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2013年4月4日、アメリカのメイン州で無人の別荘地帯に盗みに入った男が捕まる。

捕まったクリストファー・ナイトは、20歳のときに森の中に入って以来27年間、二度簡単な挨拶の言葉を交わした以外は、手紙や文字も含めて一切世間と関わらず生きてきた。

 

アメリカでは映画にもなった、27年間世間と隔絶した生活を送ったクリス・ナイトの実話。

 

ナイトが無人とはいえ、別荘地帯に頻繁に盗みに入っていた、というのはすごく引っかかった。

「何が盗られたかは問題ではなく、不気味で怖かった。心の平穏が乱された」という人の気持ちはよく分かる。

ナイトは暴力行為や破壊行為は一切していないし、盗んだもの自体は些細なものだけれど、何回も繰り返し入られれば日常生活に支障をきたすくらいの心配事になるだろう。

 

ただ一方で、こういう完全に文明社会から隔絶して生きていきたい、という人が生きる余地が現代はないというのは、その通りかもしれないと思う。

人間が比較的住みやすい場所は既に開拓されてしまっており、誰にも出会わず隠者のような生活を送るためには、人が簡単には生きられないような場所に行くしかない。

 

クリス・ナイトの事例はさほど興味がわかなかったのだけれど、「現代の隠者」とも呼べるクリスを巡って語られる、様々な「隠者に対する考え方」が面白かった。

歴史上、世界各地で「隠者」は見られるが、「抗議者」「巡礼者」「探究者」の三つにグループに分けられる。

中国ではだいたいどの時代でも、「抗議者の隠者」が見られる。

中世のヨーロッパでは、教会の独居房に引きこもる「アンコライト」と呼ばれる隠者がおり、アンコライトは男性よりも女性のほうが多かった。中世のヨーロッパは女性にとっては生きるのが辛い環境だったので、アンコライトになったほうがむしろ幸せだった。というのは、「薔薇の名前」や「乙女戦争」を思い出しても、そうかもなあと思う。

この「隠者」と呼ばれる人々を受けれいる土壌があるかないかは国や宗教によっても違うし、本書を読むと同じアメリカでも州によっても違うようだ。

メイン州はクリスのような人に比較的寛容な人も多く、クリスが住んでいた場所の所有者も土地を提供し続けても構わないと言っている。クリスに偶然会った人も、「この人はそっとしておいてあげたほうがいいのかもしれない」とクリスの生き方に理解を示している。

一方で同じアメリカでも、テキサスだったらこうはいかなかっただろうという話も出ており、土地柄によっても考え方や価値観がだいぶ違うようだ。

 

中国やヨーロッパだと「隠者」は「知恵がある」「尊い」と見られており、人々が助言を求めてわざわざ会いに行く。

中国だと「知恵のある人は俗世から離れていて口をつぐんでおり、その教えを乞いに貴人もその人に会いに行く」というのはよくある事例に見える。

「カラマーゾフの兄弟」では、粗末な生活で祈りを捧げて生き続けるフェラポント神父が聖人扱いされている。スメルジャーシチャヤも「神がかり行者」として、街の人から大事にされている。「物を恵む」という感覚ではなく、「彼女に物を恵ませてもらうことで、自分が何かを与えられている」と尊ばれている。

日本だと「貧しく汚く世俗から離れていて、狂人に見えかねないものこそ賢く尊い」のようなな感覚はピンとこない。抗議者タイプの隠者は尊ばれそうな気はするが、スメルジャーシチャヤのような人は「可哀相…」一辺倒になりそうだ。

そういう場所ではクリス・ナイトのような人は生きる余地はない気がする。

 

この話の最も面白かった点は、孤独について考察しているところだ。

ここで言う孤独は「誰も理解者がいない」などの心理的な孤独ではなく、人との接触をすべて断ち切る「物理的な孤独」のことだ。

「孤独」というのは人を狂気と安らぎの狭間に追いやるが、狂気に至り死んでしまう人と安らぎに至ってその状態で幸福を見出す人と二種類いるのではないかと言っている。

十二年間洞窟で一人で暮らし続け、そのことを「世界で最もたやすいこと」と言うチベットの高層もいれば、111日間地下洞窟で一人きりでいる実験を行ったあと、自殺してしまった探検家もいる。

この本では「人は人がいなければ生きていけないに決まっている」「いや、孤独でいることのほうが自由で楽しい」などを決めつけず、様々な事例を通して「孤独に順応できる人間と順応できない人間がおり、順応できる人間には最上の効果をもたらし、順応できない人間には最悪の結果をもたらす」ということが書かれている。

 

そして「孤独」を経験した幾人かは、「人は人がいなければ生きられない。人は社会で生きなければならない、というのは先入観なのではないか」ということを述べている。

「ハーミタリー」という孤独探究者のためのウェブサイトのSという執筆者は、「社会に暮らし、これに参加することは、狂気かつ犯罪的なのである」「隠者として、あらゆる他者から永久に身を引かないかぎり、われわれは何等かの形で地球を破壊する罪人なのだ」と述べている。

ここまで極端ではないにしろ、「社会で生きること、人には固有の人生がある、ということのフィクション性」を述べてる人が何人か紹介されている。

「世捨て人とは、必然的に、自分のやりたいことをやっている人間である。実のところ、(人は?)他にやるべきことを持たない。だからこそ、この資質は危険であり唾棄すべきである」

自分が最もなるほど、と思ったのは、前述した12年間洞窟で暮らし続けた、チベットの高僧テンジン・パルモの言葉だ。

「人は悟れば悟るほど、悟るべきことが何もないのを悟るのです……たどり着くべきどこかがあり、なすべき何かがある、という考えは、根本的な錯覚なのです」

現代社会は壮大なフィクションであり、隠者は隠者として存在することでその錯覚を暴いてしまうからこそ、人は「孤独」や「世を捨てること」を忌むものとして見るのではないか。

「人は人がいなければ生きていけない」というのは、(少なくともある種の人々にとっては)フィクションに過ぎないというのはありえそうな話だなと思う。

 

クリス・ナイトは「ほかのだれかにアイデンティティーを押し付けられるのが、いやなんだ」と言って、自分の人生の中に特別な物語を見出されることを拒否している。

「この人はこういう理由でこうなったのではないか」「自分はこうだからこう生きる」という人生の物語は、クリスのような人には必要ないものなのだ。

 

自分は何であれ、ここで言う錯覚、フィクション性というものが好きで、むしろそこを意識的に吸収し生きてきたとすら思っている。

この本を読んだ理由も、「フィクションを持たないで生きる人」の中に、自分のためのフィクションを見出したいからだ。

 

だが例えば宗教的な素地や理由を持たなければ「隠者にはなれない、受け入れられない」というのは、社会として狭さを感じるし、前々から現代のその辺りの「狭さ」には疑問があった。

「存在するだけで社会の意義を否定している者」を受け入れるという矛盾、社会にはそういう余地やおおらかさがあってもいいのでは、と思う。ナイトが生きるために盗難したような社会との深刻な対立も、そうしたほうが発生しないのではないか。

また昔の人々が隠者に知恵や助言を求めたように、現在の社会の機能にそもそも疑問を持っていて、しかもそれを実践している人の言葉や感覚というのは、社会でいき詰っている人の救いや助けになるのではと思う。

「社会の中で(ここがミソ)社会を否定したり批判することを売りにして、結局は弱い人を利用する組織」のようなものが存在しにくくなるのでは、と思うのだ。

現代で問題になっているカルトやカルトに構造が似ていると指摘されている団体に人が惹きつけられるのは、そこにしか受け皿がないからではと思う。助言などの直接的なつながりは持たなくとも、生き方のモデルケースが増えればそういうものに取り込まれる人も少しは減らせるのではないか。

 

「社会や人との関わりの中で生じる自分というものやその固有の生がフィクションや錯覚だとしても、それを生きることに特に不満はない」と思っている自分でも、今の社会は遊びの余地が少なくて、社会の方向性と少し違う人や割り切れない人には息苦しすぎるのではと思う。

社会がみんなで夢見るフィクションならば、そういう人が感じる息苦しさは、「この社会でうまくやっていける」と思っている人も、いつか必ず息苦しくするのではと思うのだ。

 

その息苦しさをほんの少し緩和するという意味でも、いい本だと思った。

そんな細かいことはつらつら考えなくとも、色々な隠者関連の話が詰め込まれていて面白かった。

ある世捨て人の物語: 誰にも知られず森で27年間暮らした男

ある世捨て人の物語: 誰にも知られず森で27年間暮らした男

 

 

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こういう人のための受け皿が、もう少し色々あったほうがいいと思う。

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