望月峯太郎「ドラゴンヘッド」全10卷を読んだ。
昔、読んでいたけれど、途中で買うか借りるかを止めてそのままだった。
過激な悲惨さや陰惨さを過剰に詰め込んだパニックホラーというイメージだったが、全然違った。
「ドラゴンヘッド」は自分が覚えていたよりずっと面白く、そして何より正当派の人間ドラマだった。絶望の中にしか見いだせない人間の強さや真価を、真っ正面から描いている。
絶望的な状況でも人としての心を失わない少年少女の頑張りが見たい、という人におススメだ。
「蠅の王」の感想文では。
「ドラゴンヘッド」のことを思い出したのは、先日「蝿の王」を読んだからだ。
ノブオの意匠や武器、遺体を神に見立てる、「珊瑚島や十五少年漂流記のようにね」というセリフなど、何等かの形で影響を受けているんじゃないかと思っていた。
が、このフレーズを見て驚いた。
(引用元:「ドラゴンヘッド」6卷 望月峯太郎 講談社)
ジャックたちが踊ったときのフレーズそのままだ。
「獣ヲ殺セ! ソノ喉ヲ切レ! 血ヲ流セ!」
その他にも然の一致とは考えづらい符号が頻出しているので、「蠅の王」をそうとう意識して描かれているのは間違いないのではと思った。
あくまで自分の推測だが、オマージュというよりは、「ドラゴンヘッド」は「蠅の王」で描かれたことに対する、作者なりのひとつの回答だと思う。
この勝手な推測に基づいて話すと、自分が「ドラゴンヘッド」を面白いと思った理由のひとつは、「蠅の王」を自分とはまったく違う角度と方向性で読んでいる人の熱い感想文だから、という点もある。
とりあえず「『蠅の王』の感想文としての感想」(ややこしい)はおいておいて、先に「ドラゴンヘッド」単体の感想を書く。
「ドラゴンヘッド」の感想
「理不尽で訳が分からない状況」から生まれる恐怖との向き合いかたを、とことんまで追求した物語。
終わり方については賛否が割れている。
一見「打ち切りか」と思うような終わり方だが、自分は「ドラゴンヘッド」はあれ以外の終わり方は考えられないのでは、と思う。
上に書いた通り、この話は突然大災害が起こった、という状況自体がテーマではない。その状況は、本当のテーマである「自分が何も分からず無力な状態に陥ったときの、恐怖や絶望をどう乗り越えるか」を語るための手段に過ぎない。
「ドラゴンヘッド」は「恐怖」や「絶望」を読み手に味合わせることにすごくこだわっている。そしてそれは成功している。
テルがエレベーターに閉じ込められたときの描写や、富士山があった場所にできた巨大な深淵にもぐるときの描写がそうだ。
そしてもうひとつ、「状況が分からない」「訳が分からない」という恐怖も描いている。
前に、人間にとって「分からない」という状態ほど怖いものはない、と書いたことがある。
闇は「わからない」の最たるものだ。
情報の全てが遮断される。因果や状況どころか、目の前に地面があるのかすら分からない。
この「分からない」から「無力」、「無力」だから「怖い」。その恐怖をどう乗り越えるか、「ドラゴンヘッド」で語られているのはそういうことだ。
「ドラゴンヘッド」は、読者もテルやアコ、他の登場人物たちと同じように、災害の原因どころかどこで何が起こっているのかもわからない、わかる術もない恐怖を味わう立場に立たせる。
なぜ巨大な深淵があるのか、なぜ地震が起こったのか、東京がどうなっているのか、核は関係するのかしないのか、これから世界はどうなるのか、わからない。
伊豆の人々のように、自分の眼に見えるものに原因を求め、因果を勝手に生み出すことで恐怖を沈めるのか、ノブオのように闇と同化して自分が恐怖を与える側に回るか、それとも「分からない」ことから生まれる恐怖と戦って、その中で自分が取りうる最善を模索するのか。
訳がわからない、絶望しかない、生きるのも死ぬのも怖い。そういう巨大な深淵のような恐怖とどう向き合うのか、ということをとことんまで追求しようとしている。
だから最後は、恐怖の源泉である闇が目の前に広がって終わる。
主人公らしい主人公たち
「ドラゴンヘッド」がそういった悲惨で絶望的な作りでも面白く読めるのは、主要登場人物の大半が真っ当だからだ。
特にテルとアコ、主人公二人の勇気と強さは胸を打つ。
アコはトンネルの中ではテルに「男でしょう」と言ったり何かと言うと泣き喚いたり、「弱くて守られて当然」の感じが強くて鼻についていたが、伊豆編でこの評価が覆った。いざというときは、自分が守る側に回る強さを持つ女の子が大好きだ。
テルとアコの恋愛とも違う、少し前までは存在すら知らなかったのに、いつの間にか自分の一部のような存在になっている魂の結びつきのような絆もいい。二人の関係性や内面を丁寧に描いているので、「吊り橋効果」などで片づけられることもない。
「僕は(略)たったひとりになってしまったと思い込んでいた。だけどずっと彼女が……瀬戸さんっていう子がいてくれたんだ(略)そしてずっと僕のそばにいようとしてくれた」
最後にテルがアコへの思いを語ったこのセリフは、人が人にとってどういう存在で、どれほど救いになるかということが語られた名文だと思う。
このセリフを読んだだけでも、この漫画を読んでよかったと思う。
仁村が最後まで弱くて普通で良かった。
純粋で立派すぎる主人公たちの対比として、弱く平凡な心しか持たない仁村のようなキャラが、ちゃんと用意されている。
仁村がテルに家族の死を伝えたのは、確かにひどい。
だが「必死に生きて東京まできたが、結局、家族が死んでいた。生き抜いたことに何の意味があるのか」という問い、「こんな絶望的な世界でも、人間らしく前を向いて生きる意味はあるのか」という問いにテルが答えることは「ドラゴンヘッド」には絶対に必要なことだ。
仁村は恐怖に容易く支配される普通の人間の代表としてテルに問いかけ、テルは自分に「家族の死」という絶望を突きつけた仁村を殺さず、最後まで恐怖の源である「理不尽で訳がわからない状況」に屈しなかった。
現実への命綱であるアコ(他人)を、テルと共有できない仁村の弱さはよくわかる。
テルからアコを奪わなければ、テルにアコを独占されるかもしれない。そうしたら一人で生きていくしかない。
そういう恐怖に耐えきれない。テルやアコを信じられるほど、仁村は強くない。
仁村が善人になっても悪党になってもガッカリしただろう。
「最初からこういう人間で何も変わっちゃいない」
仁村が最後まで弱い普通の人間のままでいたことも、「ドラゴンヘッド」の良かった点だ。
「蠅の王」の感想文としての「ドラゴンヘッド」
以下は「『ドラゴンヘッド』は『蠅の王』の感想文である」という勝手な推測に基づいた感想だ。
「ドラゴンヘッド」は「蠅の王」のジャックやロジャー、「ドラゴンヘッド」ではノブオや伊豆の人々が残酷な獣性に目覚めた原因を「恐怖」においている。
「恐怖」というその一点に絞って、「蝿の王」の感想と答えを述べている。
自分の中では「蠅の王」の最も重要なキーワードは、「子供」なのでそもそも読む角度が最初から違うことが面白かった。
「蠅の王」は獣性に支配されたあとの展開にインパクトがあるけれど、ああいう危機的な状況になる前の状態のほうがすごくリアルだと思っている。
自分にとっての「蠅の王」の面白さはそこに起因している。
ラストのラルフの「最初はうまくいっていたんです」というセリフも、ゴールディングの強烈な皮肉と受け取っている。ピギーとの約束を破ってあだ名をばらしたりすることで、「うまくいっていた」んだよな、と言いたくなる。
「蠅の王」は、単純で複雑なルールや空気感からなる残酷な落とし合い、殺し合いで成り立っている子供だけの世界を懐かしく思い出させてくれる。
ので「恐怖が人間をああしてしまう」という考えには、イマイチピンとこない。そういう風には考えたことがなかったので、「こういう風に読んだ人もいるのか」と新鮮だった。
テルがノブオに対して抱いた「ノブオは怯えていただけだった。どうして助けてやれなかったんだろう」という思いは、それはそれでちょっと傲慢ではと思う反面、いい奴だなと思う。
「ドラゴンヘッド」の一番好きな点は、人の心を迷いなく信じているところだ。
恐怖と絶望しかない極限の状況で、シニシズムに陥いることなく「自分はこう生きる」とまっすぐに叫べる強さに、胸を打たれた。
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