厨二病とは「他人(社会)から見られている自分、求められている役割」と自分の内面とのギャップに折り合いがつけられない、もしくはつけていない状態だと思っている。
このブログに厨二病とつけたのは、書き手である自分は、社会から与えられた属性に縛られた視点しか持つことができないかもしれないが、「そういう属性に基づいた視点である」というバイアスがかかっていない、どこの誰とも知らない、特に知る必要もない誰か(何か)の言葉として読んで欲しかったからだ。
こういう発想が厨二だ。
そんな厨二な自分のバイブルが、サリンジャーの「フラニーとゾーイー」だ。
「フラニーとゾーイー」は自分の中では、「厨二が厨二に『いい加減大人になれ』と説教する話」だ。
フラニーの言葉もゾーイーの言葉も、ひとつひとつが胸に突き刺さる。
「フラニー」の章は読んでいて辛い。
相手に合わせて自分の中で最も大切なもの、神聖なものすら大したことがないものだと思っているようなふりをして裏切る。
そのショックと痛みで、フラニーは自分の世界に引きこもる。
しかしそんなフラニーにゾーイーは「本当にショックを受けているなら、引きこもる場所なんて選ばない」「君はイエスをただ、自分の中で理想化しているに過ぎない」という言葉を投げつける。「そこまで言わなくても」と思うドストレートな言葉で、寝込んでいる妹をボッコボコに叩きのめす。
ゾーイーはゾーイーでフラニーから「自分にはわたしにいろんな忠告だとかなんだとか与える資格が完全にあると思ってるんですからね(略)まるで精神病院に入っているときに、ほかの患者がお医者さんの服装をしてやってきて、こっちの脈をとったりなんか、やりだしたみたい」とカウンターをくらう。
厨二同士の精神的な殺し合いの物語なので、最初から最後まで「いたたた」と呟きながら読むことになる。
同時に、「フラニーとゾーイー」は深い兄妹愛の物語でもある。
ゾーイーはフラニーが指摘し本人も自覚している通り、欠点だらけの人物だ。フラニーの気持ちを慮るそのやり方は、下手くそすぎる。
他の誰かがフラニーを本気で傷つけ、怒らせようと思っても、ゾーイーがやった以上のことはできないだろう。それにも関わらず、ゾーイーからフラニーへの深い愛情と労わりが伝わってくる。
ダメな兄貴だけどいい兄ちゃんなのだ。
長いこと「フラニーとゾーイー」は、「自我を抑圧する社会の中で、自分だけが大切に思うものの強度を高めて生きていけばいい」ということを語っているのだと思っていた。
だから厨二である自分にとって、この本は支えだった。
しかしそうではなく、「自分を抑圧するようにしか見えない社会の中にも、自分というものの強度を高めるものを見出すことができる」ことを語っているのだと気づいた。
「太っちょのオバサマのために靴を磨いていけ」
シーモアが言っていた「太っちょのオバサマ」は、自分の心の中にしかいないと思っていた。自分の心の中でラジオを聞いている彼女のために靴を磨くのが、自分の人生なんだと思っていた。
でも「太っちょのオバサマ」はこの世界のどこにでもいる。
自分が素晴らしいと思うものの中だけではなく、合わない、下らない、つまらない、意味がない、どうしようもないと思うものの中にさえも。もしかしたら自分が下らなく意味がないと思うものこそ、「太っちょのオバサマ」なのかもしれない。
そして祈るということは、自分の中で尊いと思うものに一心不乱に祈りを捧げる行為を呼ぶのではない。
シーモアが言いたかったのは、そういうことでは、と思うのだ。たぶん。
そういう考えの変化と関係があるのかは分からないが、長年の相棒だった、世界を「自分」というものをすりつぶし押しつぶす仮想敵に見立てていたマグマのように煮えたぎる怒りを、めっきり感じなくなってきた。
その怒りこそが、自分が世界に向き合う原動力だった。
余りに厨二な自分に慣れすぎていたから、その変化に未だに慣れない。
でもたぶん悪くないことなのかもしれない。
「フラニーとゾーイー」はそんな自分にとって、これからもずっと特別な小説だと思う。
「ズーイ」のほうが発音が近いようなのだれど、慣れ親しんでいる「ゾーイー」のほうがピンとくる。
「フラニーとゾーイー」と真逆の世界観が「八月の光」だと思う。「社会的な属性の集合体としての自己」から人は逃れることはできない、もしくは逃れるにはそれ相応の対価を支払うという、厨二にとってはホラーに近い物語。
いい話だとは思うけれど。
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