評判が良かったので、茂木清香「赤ずきんの狼弟子」を既刊三巻を購入した。
無力な人間、人間を喰らう獣人、獣人を狩る本能を持つ狩人の三種の人種が存在する世界で、「最強の狩人」と呼ばれる赤ずきん・ウルが、絶滅したはずの人狼の少女・マニを拾う。
一人で生きる術を持たないマニを、ウルは弟子にして一人前になるまで育てることにする。
面白かったので、一巻の表紙でピンときた人は手にとってもらったほうがいいと思う。
難点は、既刊である3卷から先は自費出版になること。
売り上げが思ったほどではなかったのか。面白いのにな…。
仮に打ち切りなら、どこかのレーベルで引き取って続巻を出してくれないだろうか。
以下、ネタバレ感想。
ウルとマニは強い絆と愛情で結ばれているが、獣人であるマニの言葉はウルには聞き分けることができない。
二人のコミュニケーションの断絶ぶりは、大きな事件にはつながらないので、普通であれば「言葉は通じなくても、心は通じ合える」という風に解釈しがちだ。
しかし「赤ずきんの狼弟子」では、心が十分に通じ合っていても「それが本当に通じている」という保証がないと、人に寂しさと焦燥をもたらす、ということがうまく描かれている。
(引用元:「赤ずきんの狼弟子」3卷 茂木清香 講談社)
「大切な人だから、言葉は通じなくても心を通わせられる」のではない。
「大切な人だからこそ、心が通じるだけではなく言葉を通じさせたい」のだ。
そういう不安が二人の関係には、常につきまとう。
どれほど心を通わせても、むしろ心を通わせれば通わせるほど、ウルは「俺たちの関係は永遠ではない」と繰り返し自分に言い聞かせる。ついにはマニから離れる決断をする。
マニはウルが出掛けたり、狼の姿から戻れなかったり、うまくスプーンを使えなかったり、そのたびにウルがどう思っているのか、自分とウルの絆が失われるのではないかと不安に思う。
マニがウルとコミュニケーションをとるために、獣人が苦手な読み書きを覚えようとする場面は、ウルと言葉を交わしたいという強い思いが伝わってくる。
「赤ずきんの狼弟子」の良かったところは、「マニにとってウルがリスクになる、むしろリスクにしかなりえない」という前提を最後までくつがえさなかった点だ。
心が通い合っているのだから、狩人の本能を抑え込めてウルとマニは一緒にいられるはず、そういう希望を打ち砕くような描写が三巻の最後に出てくる。
(引用元:「赤ずきんの狼弟子」3卷 茂木清香 講談社)
ここまで丁寧に描かれてきた二人の愛情や絆や信頼関係が容易く崩れる、「狩人の本能」の呪縛の強さが読み手に伝わってくる。
ウルとマニが一緒にいるために払わなければならない対価の重さを、ようやく実感する。
ウルにとってそれは「マニの命を危険にさらすこと」であり、マニにとっては「自分の手でウルを殺さなければならないこと」なのだ。
共にいればいるほど、相手が大切になればなるほど、その対価はどんどん重くなっていく。そしてそれは「心の強さ」などの抽象的な要素で、安易に乗り越えられるものでもない。
マニは「ウルと一緒にいる」ために、「自分がウルを狩る」という対価も支払うことを決意する。
「相手を大切に思えば思うほど安心感や信頼は高まっていく」という描かれかたをよく見るが、実際は逆だ。
相手を大切に思えば思うほど、それが失われることに恐怖し、相手の一挙手一投足に縛られる。
「他人」という存在は、いいところと悪いところがあるのではない。いいところと悪いところが表裏一体なのだ。
「赤ずきんの狼弟子」の好きな点は、この「他人とは他人である時点で、自分を(それが心地よく良いことであったとしても)抑圧し、規定する存在である」ことを認め、それでもその他人と一緒にいることを自分で選んでいるところだ。
「相手にとって他人である自分」も同じだ。
他人である限り、常に相手にとっての自分は、相手を傷つけ抑圧し縛り歪める要素を内包する。
一緒にいるだけで、相手を抑圧し、歪めてしまうかもしれない、害悪しかもたらさないかもしれない、ゆくゆくは殺し合うかもしれない。それでもその対価を引き受け、共にいることを選んでいるところがとてもいい。
「他者」は、存在するだけで他の存在を抑圧する。
価値観がまったく同じ人間はこの世に存在しないので当たり前のことだが、これを「他者が内包するリスク」と仮に名付けると、自分はこのリスクに無自覚なものに強い嫌悪感を持つらしい。
最近では「カオスヘッド」に対して、「自分にとって都合のいい『他人』しか描写しないこと(自分にとって都合のいい要素しかないならば、それはもはや『他人』ではない。)」を「他者性の排除」として批判している。
「カオスヘッド」ほど露骨なものは珍しいが、「ひとりぼっちのソユーズ」のように、その傾向が強いものは、他の要素が良くてもイマイチ好きになれない。
逆に「存在するだけで他人を抑圧する自分は、それでも生きるべきか」ということを語っている「進撃の巨人」のような作品は、すごく好きだ。
この記事で、「現代の価値観とは合わないことを主張しているのに、これほどヒットしたのは何故だろう」と書いたが、多くの人がネットを介して主張を繰り広げ、誰もが誰かを抑圧する側に回り、「『誰かにとっては悪である』としても自己を主張するのか」ということが可視化されている現代に、まさにふさわしい漫画だと考え直した。
自分の存在を守ろうとする主張でさえ、主張というのは他の誰かを抑圧する。
そういうことに非常に自覚的であるところが、「進撃の巨人」のすごいところだと思っている。自分が誰かにとっては加害者であり悪である、ということを認め向き合い、その罪悪を背負ってもなお進み続ける強さが好きだ。
最終的な結末はどう転ぶかは分からないが、それも含めて楽しみにしている。
ということを色々考えさせてくれたところも、「赤ずきんの狼弟子」の良かった点だ。
そんなことを考えなくても、マニの可愛さだけでもご飯三杯はいける。
続き出ないかな(二回目)
他者のリスクも含めて、他者と共にいることを選ぶ。「赤ずきんの狼弟子」(好き)
他者にとってリスクである自分を認め、それでも自己を主張する。「進撃の巨人」(大好き)
他者のリスクを認めず、他者の恩恵のみを受け取る。「カオスヘッド」(過去最高にイラついた)
他者のいない世界で、その恩恵を受け取らず戦う。「ワンダと巨像」(神)