うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

山崎雅弘「中東戦争全史」 自分たちも、彼らと同じ構造の中で生きているのかもしれない。

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一冊で、今日の中東問題や経緯が一通りわかる。

【新版】中東戦争全史 (朝日文庫)

【新版】中東戦争全史 (朝日文庫)

 

 

シリアの内戦とイスラム国のことが知りたくて、シリアの内戦に関する本を手に取った。

だが中東の歴史や経緯はかなり複雑に絡み合っていて、ひとつの事象だけを見て理解するのは難しい。まったく知識がない状態だとそこに書かれていることが本当なのか、もっと正確に言うと、そこに書かれていることが「どの立場の人たちがどれくらい妥当だと考えている情報なのか」ということすら分からない。

 

まずは今日の状況に至った経緯や事実だけをざっくり知りたい、と思って本書を手に取った。

本書の執筆に際しては、基本的な事実関係の詳細な記述と、当事者の論理、それが及ぼした影響の解説に重点を置き、倫理的・道徳的な判断は可能な限り差し控えるようにした。(略)

本書の執筆を通じて読者に提供したかったのは、判断の材料となる情報を提供することであり、決してこれらの問題についての「結論」ではないことをご了承いただきたい。

 (引用元:「【新版】中東戦争全史」山崎雅弘 朝日新聞出版 p387-388/太字は引用者) 

筆者のあとがきを読んで、自分が求めていることを可能な限り提供しようとしている本を手に取ることができた、と思った。内容も、自分が期待した通りのものだった。

 

「倫理的・道徳的な判断は可能な限り差し控えられている」から、自分自身で考えやすい

筆者が断っている通り、この本は知識がほとんどない人のために、中東でこれまで起こった大きな出来事の事実を記されており、その出来事が起こった原因として各国の事情や思惑が淡々とつづられている。

現代の日本に生きている自分には理解しがたいこと、信じがたいようにな理不尽な出来事も、著者は感情や主観を交えずに記している。

イスラエルがパレスチナ難民のキャンプで行われた虐殺を黙殺したこと、イラクがイスラエルを戦争に巻き込むためにミサイルをその国土に発射して、民間人にも死傷者が出たこと、日本赤軍によるテルアビブ空港の銃乱射事件、なぜガザのアラブ系の人々がハマスのような暴力的な集団を支持するのか。

 

特定の集団や国家が、ある時は加害者になりある時は被害者になる。

弱い人々が自衛のために支持せざるえない組織が次第に暴力的になっていく様子や、その暴力に対抗するために生まれた組織がどんどん思想を尖鋭化させていく様子や、若いころはその暴力を振るっていた人間が平和への道を歩もうとしたとき、周りに受け入れられない様子や、ひとつずつ積み上げてきた平和への礎がたった一発の銃弾で一瞬で瓦解するさまを見る。

筆者の主張や個人的な物の見方が入っていないため、積み上げたものが瓦礫のように崩れ去り、その上に相互不信や個人の抑えがたい感情が降り積もり、どうすればいいのか、どこから手をつければこの問題は解決するのかわからない現実を前にして、自分自身が何を考えるのかが見つめやすい。

 

ページを繰る手が止まらなくなるくらい面白い。…フィクションであれば。

自分の正直な感想を言ってしまえば、この本はとてつもなく面白かった。

大国に翻弄された歴史、分派もたくさんある複雑で苛烈な宗教、国外だけでなく国内の権力構造や権力争い、そういったすべてが複雑に絡み合う中で、各国が、そして国内のそれぞれの人間が時に悪辣とも言える策謀をめぐらせて次々と自らの権益を守るために手を打ってくる。状況は数年間で、二転三転どころか何転もする。

 

出てくる人たちも、人として興味深い人物ばかりだ。

パレスチナでは英雄とあがめられ、イスラエルや世界では極悪なテロリストとして憎まれていたアラファト、軍人としての経歴を積みながらパレスチナにギリギリまで歩み寄り、平和の道筋を探る中で倒れたラビン、救国の英雄として生きながら敗戦も味わったナセル、「私が神の教えに背く者ならば、従う必要はない」と説き、二十世紀の現代に六世紀のアラブ世界を復活させることが正義だと信じるバグダディ、自らを支持する人々の声を聞き極右路線を突き進むネタニヤフ。

彼らが命がけで主張する過激なまでの信念、織りなす権謀術策、駆け引き、国際社会の中で生き抜く力が描く歴史は面白い。

これがただのお話で、犠牲になっている人など誰もいないフィクションであれば、どんなに良かっただろう、そう思う。

 

この本を読むと中東がなぜこれほど争い続けるのか、なぜイスラム国という現代の認識からすれば怪物のようにしか見えない集団が生み出されたのかが理解できる。

そもそも歴史的に列強各国の歪みを押し付けられ、不和の種をまかれた中東の人々にしてみれば、自分たちの権利を踏みにじり、守ってすらくれない国際社会の理念や理屈など信頼するにたるものではないのだろう。

イスラエルの人々を守ってくれるのはイスラエル国家しかなく、ガザの人々の生活や権利を守ってくれるのはハマスしかいないのだ。暴力で訴えなければ、大国にいい様に使われ、踏みにじられ、顧みられることすらしない。

だがそういう暴力もまた権力者にいいように使われ、傷つくのは結局普通に暮らす人々や抵抗する術を持たない難民たちだ、ということが気持ちを暗くさせる。

 

2014年七月十七日の夜、イスラエル軍はガザ地区に対する空爆を実行したあと、地上部隊を侵攻させた。(略)

このガザへの侵攻に前後して、ハマスも大量のロケット弾でイスラエルへの攻撃を行っていた。双方とも、相手側の攻撃を、自らの攻撃を正当化する根拠として用いており、(略)ガザ側では1830人のパレスチナ人が死亡し、イスラエル側でも兵士六十四人と市民三人が死亡した。

  (引用元:「【新版】中東戦争全史」山崎雅弘 朝日新聞出版 p376-377

 

争いはユダヤ人対パレスチナ人という単純な図式ではなく、ガザ地区内でも穏健派のファタハと過激派のハマスの間で闘争が起こり、これを止めようと演説したイスラム学者が殺される事件が起こる。

イスラム国は同じイスラム教徒でもシーア派は敵視しており、ファタハとハマスはイスラム国を「厄介な第三勢力」と考え対立している。

そしてイスラエルは、シリアでの反政府運動が活発になれば長年シリアと対立してきた関係上有利になるため、イスラム国を今のところそれほど問題視していない、という外から見ると非常にねじれた構造になっている。

 

単純な二つの宗教、勢力の対立ではないため、読んでいると非常にややこしく理解がしにくい。地理的に遠く、その地域の事情や歴史、風習に通じていない日本人には理解しがたいし、とても何かを考えたりできる問題ではないのでは、と思わせる。

しかしこの本で提示されている別の角度から見ると、自分たちとは縁遠いと思っていた問題が、自分たちにとって実はとても身近な問題ではないか、どころか自分たちがその内部に同じように関わっている問題ではないかと思わせる。

 

自分たちも、彼らと同じ構造の中にいる。

そう思ったのは、「新版のあとがき」の「紛争の二重構造」の図と説明を読んだからだ。

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上のシンプルな「A国対B国」の図式とは別に、双方の国内にいる「a 集団」と「b集団」の間でも、意見の対立が存在する事実はあまり議論されない。

一見、敵対しているかのように見える「A国のb集団」と「B国のb集団」が、実は「対立関係の常態化・恒久化」によって共に利益を得るという、一般的な理解では見落とされがちな側面を、この図は示している。

 

「イスラエルのネヤニヤフ政権(A国のb集団)」と「パレスチナのハマス(B国のb集団)」は、形式的には敵対しており、(略)「敵同士」に他ならないが、それと同時に「双方の対立関係」が常態化・恒久化することで、それぞれの国内での権力基盤がさらに盤石にできるという「利害の一致」が、いつしか生まれる。

 (引用元:「【新版】中東戦争全史」山崎雅弘 朝日新聞出版 P394-395/太字引用者

 

これを読んで自分は「ああ」と思ったが、たぶん同じように思った人が多いのではないかと思う。

これは非常によく目にする構図だ。(ネットでもよく目にする。)あとがきの中でも「この構図は中東問題に限らず、日本でも目にする」と書かれている。

この構図について解説していたり、警告を鳴らす人も最近では見るようになった。

「自分たちの支持層を広げ盤石にするため、存在意義を守るために、主張を尖鋭化させる」という、目的を手段にすり替えて利用している人間は、非常によく見かける。彼らは自分たちに存在意義を与える、「対立関係」がなくなっては困るのだ。

 

そのために誰も守ってくれる人がいない弱い人、不当に虐げられ続け、怒りをため込んでいる人、現在苦難に見舞われている人、

戦いの中で肉親を失った人々にとって、憎しみと復讐心の強さは、失った肉親に対する愛情の強さを証明するものでもある。そのような「証明」の機会を捨てて、愛する家族を失った悲しみを全て忘れるというのは容易なことではない。

(引用元:「【新版】中東戦争全史」山崎雅弘 朝日新聞出版 P390

こういう深い傷を持つ人の不安や感情の受け皿となり、自らの存在感や権力を増大させるために利用する。

そしてこういう人たち(感情の受け皿として)の支持で彼ら自身が成り立っていることから、その主張を緩ませることができなくなる。

イスラエルの右派の人々の受け皿であるネタニヤフは、「ナチスのホロコーストは、パレスチナのイスラム教指導者がヒトラーに進言した結果だ」とまったくの事実無根の発言をし、自国のユダヤ人学者からさえ「事実に反する暴言」と批判されている。

 

しかし彼らにとっては事実かどうかは問題ではなく、いかに自分たちの支持層の心情に即した言葉を言うか、いかに相手を強く攻撃することで自分たちの存在意義を示せるかが最も重要なことなのだ。

 

紛争や争いが解決しない原因は多くあるかもしれないが、自分たちが問題視し、なくしていかなければならないのはこの構造ではないかと、この本を読んで思った。

中東の事情や歴史や、そこに住んでいる人の気持ちやそれぞれの苦しみは全てを知ることはできなくとも、この構造は自分たちが生きている中でもよく目にするものだ。

自分たちがこの構造を利用する人間たちの手にのらない方法、その構造に巻き込まれず、離れた場所からその構造の問題点を指摘して打ち壊していく方法を知り共有することが、もしかしたらどうすることもできないほど問題が複雑に絡み合っている、理解することすら難しく思えるこういった問題に、少しでも道筋を立てるためにできることではないだろうか。

 

中東問題を日本から眺めるとき、なぜ平和に向かって歩み寄れないのだろう、何とか少しずつ譲り合って共に生きられないのか、結局は被害に合うのは宗教も民族も関係なく普通に平和に生きたいと願う人たちなのに、ともどかしく思う。

でも本質的には同じ構造に巻き込まれたとき、自分だったら自分にこだわりのある問題を目の前にして冷静でいられるのか、自分が過去に傷ついた問題で反対の意見を持つ人を攻撃せずにいられるのか、自分が不当に扱われているのは何故なのかと叫ばずにいられるのか、そういう自分の意見を代弁してくれるように見える人間がおかしなことを言っても、他に誰もいないのだからと支持せずにいられるだろうか。

そんな自分をおかしいと顧みられるだろうか。

 

自分も彼らと同種の構造の中で生き、そこに巻き込まれ、誰かを攻撃してしまうことがある。そしてそのこと自体を目的としている人間に、手もなく利用されてしまうことがある。

そういうことを知って、少しだけ引いてその構図を見つめ、その連環から抜け出す方法を探ることが、もしかしたら同じ構図の中で殺し合いをしている人々に、平和を願いながら虐げられている人々に、遠く離れたここからでもできることかもしれない。

 

暴力で一瞬で瓦解させられても、なくならないものもある。

1995年11月4日にラビン首相が暗殺されて、ようやく解決しそうに見えたパレスチナとイスラエルの和平は一瞬で瓦解した。それまでの平和への地道な努力と積み重ねが、結局は一発の銃弾で瓦礫になってしまうのか、という風に考えると辛い。

 

この日のラビン首相の演説には、十万人の人が集まった。

ラビン首相が「今日ここに集まっておられる皆さんは、ここに来なかった人々と共に、国民は心から和平を望み、暴力に反対しているのだということを、身をもって示してくれました」と呼びかけたように、十万人の人、それ以上の人が心から平和を望んでいて、それが誰に対するものであれ、暴力をなくしたいと願っていた。

そのことに希望を感じる。

 

歴史の表舞台に出てくる人は、強い信念や権力欲を苛烈な暴力を用いてでも達成しようとする人間ばかりで、そういう強力な思考や主張ばかりが目立つ。

でも目に見えない場所では、その何十万倍もの人が心から平和を願っている、そしてそんなに強い力はなくとも(というよりそういうものは放棄して)地道に平和を祈っている。

複雑に絡み合う歴史の中でその力がどんなに小さく無力に見えても、そういう人たちはいるし、その気持ちはなくならない、そう思う。