うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

誰かが「災厄」になることを食いとめる「家族という関係性が病んでいる」という考えかた

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前回、「ゴールデンカムイ」の尾形は、アダルトチルドレンの類型のひとつであるスケープゴートではないか、という記事を書いた。「今の時点では自分にはそう読める」というその解釈に基づいて、今回の記事を書いている。

 

尾形は気の毒ではあるが、周囲の人間にとっては「災厄」そのものになってしまっている。第三者にとっては「生まれつきの冷酷な殺人鬼」でもどちらでも、そんなに変わらない。

 

現実でも、こういう道筋で殺人者になってしまう人間はいる。

1976年に殺人を犯して死刑になった自らの兄ゲイリーのことを書いた、マイケル・ギルモアの「心臓を貫かれて」は、スケープゴートが殺人者になるまでの道筋をたどった物語だ。

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ゲイリーが「別の少年の話」として手紙に書いた内容を、マイケルが「恐らくゲイリー自身の話では」と推測するシーンがある。

「僕は僕自身の内にある無の中に消えてしまいたい。そうすればもう誰も僕のことを傷つけたりできないんだ」(略)

ゲイリーが書いている、自分の内の無の中に消えてしまいたいと願っている少年は、おそらくゲイリー自身の姿だろう。

ゲイリーが手紙の中で書いていたのは、これから先の人生を生き延びていくために必要とされる精一杯の残虐さを獲得する以前の、この世における最後の夜のことなのだろうと僕は思う。

(引用元:「心臓を貫かれて」 マイケル・ギルモア/村上春樹訳 ㈱文藝春秋)

周囲の人間に傷つけられた少年は無の中に消え、「残虐な災厄」に生まれ変わった。表紙裏の紹介文に書かれている「殺人はまず、精神の殺人から始まった」の「精神の殺人」の瞬間だ。

 

実際に起こった一家殺人事件とその犯人について描いたトルーマン・カポーティの「冷血」も、似た構図を持つ。

カポーティが共感を覚える、犯人の一人ペリーは、一家を殺害した動機についてこんな風に語っている。

「彼らは感じのいい人たちだった。人生の中で、俺をまともに扱ってくれた数少ない人間の一人だった。彼らには、俺が歩んだ人生のツケを支払わせてしまった」

自分の人生で何の関係もない人、むしろ好感すら持った人を殺したのは、犯人が歩んできた人生の中で、爆発寸前まで積み重なった怒りや憎悪が崩れる瞬間にたまたま居合わせたからだ、という事実に戦慄する。

被害者にとってはある日突然自分の身に降りかかる「災厄」のようなもので、避けようも気を付けようもない。

 

尾形が勇作を殺したのは、「勇作が尾形の人生の中で、唯一、尾形に好意をよせ、彼を一人の人間としてまともに扱ったからではないか」と思っている。

尾形は「まともな人間」なら耐えきれないほどの感情を背負い、傷ついた痛みを封印して生きている。自分を「まともな人間」と思ってしまえば、その痛みを感じることになる。それは死ぬよりも辛い苦しみだ。

「罪悪感を感じない冷酷な殺人鬼」でいることで(そう信じ込むことで)、かろうじて生きている。

この場合、尾形を「冷酷な殺人鬼」と扱う人間のほうがまだしも安全だ。(敵対しない限りは殺されない)勇作のように「そんな人間ではない」として扱おうとすれば災厄が降りかかる。

彼らは爆発寸前まで煮えたぎっている負の感情を押さえつけて、かろうじて生きている。「まともな人間」として近づきその感情を揺り動かしてしまうと、常人には耐えられないすさまじい激情をぶつけられる。

これを受けたら、普通の人間はひとたまりもない。

 

尾形やゲイリーやペリーのようになってしまった人は、「災厄を受け止め続けて、自らが災厄となってしまった人」だ。生い立ちを考えれば非常に気の毒だが、不用意に近づけば自分が被害を受ける。

ああいう事情の中で、デリカシーのない感じで近づいてきた(『兵営では避けられているような気がして』って当たり前だろ…。)勇作を、有無言わさず殺さなかっただけでも、尾形はいい奴だなと思う。

しかし結果的には殺しているので、近づかないのが一番ということになってしまう。

 

他に「災厄」になってしまった人物として、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」のユズ(シロ)がいる。

ユズが陥った地獄の余波程度で多崎つくるが死を考えるまで追いつめられたように、「災厄」と化した人間は、善意や優しさ、同情で個人がどうにかできるものではない。

ユズを懸命に支え、助けようとしたエリ(クロ)の努力はまったく報われず、むしろエリの人生も心も蝕まれそうになる。

結局のところ私はユズを置き去りにしてきたのよ。私はなんとかして彼女から逃げ出したかった。あの子にとり憑いているものからそれがなんであれ、できるだけ遠くに離れたかった。(略)

彼女の世話をし続けることで、本当にくたくたになっていた。どんなに努力をしても、あの子が日々現実から後退していくのを押しとどめることはできなかったし(略)もしあのまま名古屋に留まっていたら、私までおかしくなっていたかもしれない。

 (引用元:「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 村上春樹 ㈱文藝春秋)

 

つくるを生贄に捧げてフィンランドまで逃げたエリの行動は、つくるにとってはひどい仕打ちだが、現実的な判断として正しいと思う。

現実として考えると、「災厄」の避け方や「災厄」を少しずつ取り払う方法を心得ている専門家に任せるしかない。

ユズは、「ノルウェイの森」に出てきた「レイコさんを破滅させた女の子」の別の姿ではないか、という論を見たことがある。そう考えると「災厄」と化した人間のその「災厄」の波及力と、そういう人間を前にしたときのいわゆる「普通の人」の無力さに恐怖を感じる。

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、この「災厄」の恐ろしさを描いた物語だと思っている。

 

「心臓を貫かれて」の大きな特徴は、ゲイリーが殺人者になった原因を彼自身の生育環境に見出すと共に、その生育環境を作った原因にも目を向けていることだ。

ゲイリーの両親(著者のマイケル自身の両親でもある)の生い立ちにも目を向けている。

殺人者は突然変異で生まれてくるのではなく、また「本人が悪い」「親が悪い」「育て方が悪い」とひとつのことに原因を求めるのではなく、「本人がどうしてそうなったのか」「本人にそう接してきた親は、どうしてそうなったのか」という、積み重ねられた血と家族の歴史、関係性、事象のつながりの終着点として殺人者が生まれたのではないかという見方をしている。

「父親である花沢が『邪悪な人』であるために、尾形がスケープゴートの役割を引き受けたのではないか」という話において、「ではなぜ花沢が『邪悪な人』になったのか」という観点も取り入れられている。

 

個人に病理や原因を求めるのではなく、「家族という共同体、関係性そのものが病んでいる」という考え方(家族療法)だ。

news.yahoo.co.jp

 

先日起きた川崎の事件について書かれた江川紹子の記事の中で紹介されている長谷川博一は、「殺人者はいかに誕生したか」という本を執筆している。この本には、家族療法の考え方が色濃く反映されている。

「家族療法的な見方」の是非はともかく、実際に殺人を犯した犯人との対話が載せられているので、その部分を読むだけでも色々と考えさせられる。

殺人者はいかに誕生したか: 「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く (新潮文庫)

殺人者はいかに誕生したか: 「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く (新潮文庫)

 

 

殺人は許されることではなく犯した罪は裁かれるべきだ。だが原因を追究して予防策を探る、そのために様々な角度からの見方があったほうがいいと思う。

「災厄」になるまで追いつめられずに済むケースが増えれば、本人だけではなく家族も救われる。「誰か一人が悪い。原因である」のではなく、「個々人の関係性がこじれ病理になっていることが原因」という見方もあれば、外部に助けも求めやすい。

積みあがった石が崩れ落ちて、そこに何の関係のない人が巻き込まれるような悲惨な事件も減らせるのではないかと思うのだ。

心臓を貫かれて 上 (文春文庫)

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冷血 (新潮文庫)

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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)