うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「人目につかぬよう、勇作殿を裏からお見送りしろ」を当たり前と思うかどうかで見方が変わるのが、物語を読む面白さ。

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この話の続き、というか補足。

尾形に対しての見方が変わるまでの過程のメモだ。

前回に引き続き、11巻と17巻の尾形の過去のエピソードがメインの話になっている。

 

最初に尾形が↑の記事のような人では、と思ったのは17巻を読んだときだ。

その前までは前記事で書いた通り、「親も殺しているのか。想像以上にやばい奴だ」と思っていて何の疑問も持っていなかった。

 

最初に「あれ?」と思ったのは、尾形が勇作を遊郭に誘ったが、勇作が女を抱くことを断ったエピソードだ。

「人目につかぬよう、勇作殿を裏からお見送りしろ」

このひと言がすごくひっかかった。

「ずいぶん気をまわす人なんだな」と思ったのだ。

 

尾形が何も言わなくとも成り行きを見ていた女性たちは、気を利かせて裏から見送るのでは、と思う。職業柄色々な状況を見てきていると思うので、臨機応変に対応するだろう。

それでもいつも通り帰すことがないように、またこういうところに来るのが初めての勇作は気づかないこともあるだろうから、言葉にして「こうして欲しい」と指示を出している。「すごい気遣いだ」と感心してしまった。

なぜそう思ったかというと、自分がこういうことに百パーセント気づかない人間だからだ。相方がこういうことにすごく気を回す人間なので、しょっちゅう怒られる。(たぶんこれを読んでいる人の中にも、「何でそんなところに感心するんだ? 当たり前だろう」と思う人も多いと思う。当たり前じゃない人間もいるんですよ……。)

 

勇作が遊郭に来たことがばれたら、隊の士気が下がるなど理由があるのかもしれないが、それくらいで尾形たちにとっての利用価値が下がるとは思えない。(そもそも本当に女を知らないと思っている人は、そんなにいないのではと思っている。完全にただの推測だが。)

むしろ「遊郭に来た」という既成事実を作るために派手に見送りし、勇作にうしろめたさを感じさせたほうがゆくゆく操りやすいのでは、とも思う。

どちらにしろいくらでも利用しがいがあると思うのだが、勇作にとって一番負担がないように先回りして取り計らう、しかも必要最小限の労力で、というところに尾形の別の一面を見たような気がした。

 

とそこまで考えて、ふと、尾形は勇作が断ったら、それ以上押さずにすぐに勇作を帰したと気づいた。

もちろん鶴見と打ち合わせして、最初だから「試した」だけだったのかもしれない。

でも「試す」のであれば、もう少し押したり引いたりして試してもいいのではと思う。もっと色々と試しようがあるのに、いやにあっさり帰している。遊郭一の美女を呼んで誘惑させるとか脱がせたりとか、もっと色々やってもいい。

鶴見には「たらしこんでみせましょう」とか「血に高貴もクソもありませんよ」とか威勢のいいことを言っているが、実際はひと言誘っただけで何もやっていない。 

「試す」ついでに、自分が尾形の立場だったらちょっとした嫌がらせくらいしてしまいそうなので、勇作の嫌がることを一切しない尾形がすごく不思議だった。

 

というのも物語上の文脈では、勇作は「自分の立場を鼻にかけない高潔な人物」と描かれているが、そうは思えなかったからだ。

自分であれば、捨てておかれた異母兄弟と知っていて「兄さま」とか嫌味か、と思う。「兵営では避けられているような気がしていましたので」って、気づいているなら空気読めよ、とイラつく。

勇作には善意しかないのはわかるが、この場合、善意で鈍感なのは悪意がある以上に罪だ。

上官だから表立っては何もできないが、相手が「兄さま」と無神経に近寄ってくるなら、自分だったら鶴見に言われるまでもなくこっちはこっちで利用する。

勇作を利用することが、花沢への復讐にもつながる。うまくいけば二人の仲を裂けるかもしれない、とか色々と考える。

尾形が勇作に儀礼的に対応して、「避けるだけ」なのが不思議だった。

 

と思った瞬間に、全部が反転して見えた。

「冷酷な殺人鬼」と思っていた尾形が、少なくとも自分の基準では「普通よりも性格がいい」ことに突然気づいたのだ。

尾形の勇作に対する態度への違和感、「普通だったらこうしないか」という思考の「普通」は、ぜんぶ「普通=もっと性格が悪かったら」という方向性だ。

 

「性格がいい」という言い方が曖昧すぎるのであれば、尾形は相手の意向や言葉、その人のありのままを正確に受け取る人だ。そしてその意向や言葉を「事実」として、最大限尊重する。

 

勇作は逆だ。

聞かされてはいなくとも、花沢が尾形親子のことに触れない、面倒を見ている様子がまったくない、母親が死んだあとも尾形が引き取られなかったことを考えれば、どんな環境におかれていたのか想像がつくだろう。

そういう境遇だった尾形に対して「『ひとりっ子育ちでずっと兄弟が欲しかった』と俺にまとわり付くのです」って、余りに想像力が欠けていないか。

最大限善意に解釈すれば、「事情を知っているからこそ、そういう不憫な境遇の尾形につぐないがしたい、父親とは違い、自分は兄弟として接したい」と思ったのかもしれない。

でも尾形はそういう勇作に対して「『規律がゆるみますから』と何度(←重要)注意しても」と、「自分はそんなつもりはない」と言動に表している。

何度も言われれば、「尾形にとっては、自分の存在自体が煙たいのかもしれない」「本当ははっきり断りたいのかもしれない」「自分が上官だから我慢しているのかもしれない」とか色々と考えて遠慮しそうなものだ。

しかし、勇作は尾形の言動を受け入れない。

「兵営では避けられているような気がしていましたので」と気づいているのに、「なぜそういう風にふるまうのか」という尾形の気持ちは全然想像しないし考えていない。

「自分は兄弟が欲しかった」

「自分は上官じゃなくて弟」

「避けられてても、自分は兄様が好きだから」

「兄様に誘われても、自分は女を抱きたくないから」

勇作は尾形とは逆で、相手の意向をまったく汲まない。自分の気持ち、自分の思考、自分の価値観がすべてだ。

方向性が違うだけで親父にそっくりだなと思った。

 

極めつけが捕虜を殺すのを断ったときの「父上から言われたのです。『お前だけは殺すな』と」だ。

花沢と尾形の関係のいきさつを知っていてこう言っているのだとしたら、「何を考えているんだ」と唖然とする。

仮に事情を知らないとしても、同じ部隊にいる(しかも不遇だった)兄弟に「自分はこう言われた」というのはかなり無神経だと思う。

百歩譲って捕虜を殺すことを迫られて気が動転したからと思っても、そのあとの尾形の顔を見たら、普通はそれ以上父親の話は続けないと思う。(少なくとも自分だったら続けない。)しかし勇作は続ける。

相手の反応をまったく見ていない。

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 (引用元:「ゴールデンカムイ」17巻 野田サトル 集英社)

 

尾形が「旗手であることを言い訳に、手を汚したくないのですか?」と踏み込んできたら、肝心なところは「父親に言われたから」とこの場にいない父親を盾にする。 

尾形の「自分は罪悪感なんて感じない」という主張を、「兄さまはそんな人じゃない」と全否定する。

自分がそう思っていたとしても、尾形が「自分は罪悪感なんて感じない人間だと思っていること」自体は受け止めてはと思う。

 

勇作を見ていて、人の話をまったく聞かない奴だな、とイラついた。

 

自分も自分の思いだけで行動してしまうことが多いが、さすがに「何度も注意」されたら(しかも避けられていたら)「理由はともかくとにかく嫌なんだろう」と察する。

「自分が選んで近づいた相手であれば、相手がこう考えている、こう言っているということを受け取ろうとする努力、コミュニケーションを取ろうとする努力、最大限自分自身で向き合おうとする努力はする」

見知らぬ人間や嫌いな奴ならそんな労力はさかないのは当たり前だろうが、自分から近寄っていって自分の価値観だけを押し付けて、相手が正面から自分の価値観をぶつけてきたら話をそらすって、それはないのでは、と勇作を見ていて思った。

 

こんなに「自分」を無視されて、「勇作殿は高潔な人でした」と言える尾形はすごいなと感心した。そこを起点にして、11巻と17巻のエピソードを考え直したら、一番しっくりきたのが元記事の考え方だった。

 

病気だから仕方ないとはいえ、母親も尾形が鳥を差し出しても無視してあんこう鍋を作り続けている。

尾形の親族は誰一人、尾形の話を聞かない。普通は喋る気をなくす。(「ばあちゃん子」と言っていたので、お祖母ちゃんは聞いてくれていたのかもしれない。)

「分からないなら仕方ない」とすぐに関係性を投げ出しがちな自分から見ると、鳥を取ったり、勇作や花沢に自分の気持ちを訴えたり、尾形は人に対して我慢強いと思う。

 

狙撃手だから「相手のありのままを見て、行動パターンや癖を把握する」のは職業柄当たり前なのかもしれないが、「その人のありのままを見て、行動パターンや癖を把握する」ことが得意だから、優秀な狙撃手になったのかもしれない。

アシㇼパの杉元への感情に気づいたり、勇作が抜剣していないことに見ていたり、日常から周りをよく見ている描写が多く、こういう細部にまでキャラクター性が出ているところがすごいなと思う。

 

勇作に悪気はないのはわかるが、悪気がなければ人の気持ちを無視して都合よく扱っていいことにはならない。

まさに「彼らと一緒にいても、彼らの中には「あなた」は存在しない」だ。

殺人は良くないが、付き合いたくない相手が遠ざけても近寄ってきて、それでも自分は相手の言葉に耳を傾けて意向を尊重しているのに、相手はこちらの言葉に耳を貸さずに、自分の中の地雷を踏みまくったら殺したくもなる。

下で紹介しているが、アガサ・クリスティの「鏡が横にひび割れて」がこのパターンだ。

 

気を利かすことが苦手な自分から見ると、「勇作殿を裏からお見送りしろ」とスッと言える尾形は「きちんと相手の話を聞き、相手の意向を汲んだ対応ができる人」で、人の話をまったく聞かない勇作に対しては「なんだ、こいつ?」と思う。

でも「それくらい気づいて気を利かせて当たり前」と思う人から見ると、「尾形は普通の人間のふるまいもできる冷血漢」で勇作は「高潔な人」なのかもしれない。

そういう風に読み手それぞれの価値観や基準によって物の見方が180度変わり、物語の文脈も変わるところも創作を読む面白さだ。

 

作者がこの構図をどこまで確信犯的にやっているかで、今後の尾形の運命が決まると思っている。「尾形が両親も殺すような冷酷な殺人鬼で、勇作が高潔な人」という文脈を否定するような見方が出てきていないので、こちらの構図のままでいくのかもしれない。ヴァシリも「冷血で殺人に強い興味がある」と指摘している。

ただ撃たれた鳥を勇作と重ねるような描写や上記の尾形の顔、「人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間」は「ゴールデンカムイ」の世界では普通だと思うのに、なぜ尾形にだけこんな業を背負わせるのか、などを考え合わせると、確信犯的に描いているようにも思える。

 

「ゴールデンカムイ」は、対立構図や関係性が固定されず常に流動的だ。他の多くの漫画のように、「味方になったらずっと味方」「冷血非情な敵だから、手を組むなんてことはありえない」ということがない。

昨日までの敵が味方、になったと思ったらまた敵、と目まぐるしくコロコロ変わる。昨日まで殺し合いをしていたのに、利害が一致すれば手を組むということに登場人物たちはほとんど抵抗を感じない。基本的にはどんなパターンでもありだ。

 

物語だけでなく、関係性もキャラ一人一人をとっても白か黒か灰色か「どちらにいくのか」という先の見えなさがあるところも、「ゴールデンカムイ」の大きな魅力だ。

ゴールデンカムイ 8 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

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本当に尾形に興味があって兄弟になりたいなら、尾形が捕虜を殺すことを迫ってきたら「自分がなぜ殺さないのか」を喋るんじゃなくて、「なぜ尾形がそんなことを自分に言うのか」を考えたり聞いたりしないか。

そもそも父親を尊敬していて尾形を慕っているわりには、尾形が花沢をどう思っているかとか気にならないのだろうか。

自分のことしか話さないところを見ても、勇作は悪い人ではないけれど「本当の意味では他人にまったく興味がない人」だと思う。

花沢とそっくりで、尾形とは真逆だ。

しかし顔は、花沢と尾形がそっくりなところに怖さを感じる…。

 

鏡は横にひび割れて (クリスティー文庫)

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 「善意で鈍感なのは悪意がある以上に罪」ということがよくわかる話。

「本当の意味では他人にまったく興味がない人」は、クリスティの作品では問題になることが多い。

「アリスン・ワイルドもそんな人物だったわ」

「とても親切で悪気などまったくなかったけれど、『他人から見たら物事がどう見えるか』ということを考えたこともない人だった」

「ゴールデンカムイ」の世界では「高潔な人」である勇作も、クリスティの世界観だと「仕方のない人」くらいの扱いになりそうだ。