うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「言の葉の庭」を見て、新海誠監督作品の何が気持ち悪く感じるのかやっとわかった。

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言の葉の庭

言の葉の庭

 

 「ほしのこえ」に引き続き、「言の葉の庭」を視聴した。

 

今までずっと自分がうっすらと感じていた、新海誠監督作品*1に対して感じていた気持ち悪さが何なのかがようやくわかった気がするので、それについて書きたい。

 

新海誠の作品の特徴は、「排他性」にあるのではないか。

なぜ新海誠の作品が気持ち悪いのかと言えば、見ている人間全員が異物だからだ。そもそも作品*2から「気持ち悪い」と言われているのだ。

「気持ち悪い」というのは、「自分には受け入れがたい」「理解しがたい」「生理的受けつけない」の言いかえで、相手を排他する言葉だ。

創作は、普通は見ている側に共感を求める。何故なら共感する人や物に対して、人は心地良さを感じ、受け入れるからだ。

 

ところが新海誠の作品は逆だ。

見る側を排除する。共感を求めず、「お前にはわからない二人だけの世界」を突きつけてくる。

これは「わかる人だけわかってもらえればいい」というニッチなポイントを突いているわけでもない。

「わかる人間なんて一人もいなくていい。いるのは私たちだけでいい」という、自分たちが「ここにいる」という強い思いが、見る人間が「ここにいること」を相対的に否定している。

新海誠の作品を見ていて、常に気持ちが悪い、居心地が悪いのは、自分が「ここにいること」を認められていないからだと自分には感じられる。

 

受け入れるふりすらしない。

なぜ新海誠の作品がここまで強烈な排他性を出せるのかというと、ひとつは恋愛をテーマすることが多いからだと思う。

「相手に対する感情が恋愛か友情かを確かめたければ、その人と一人で会いたいのかみんなで会いたいのかを考えればいい」

という話を聞いたとき、なるほどと思った。

恋愛というのは独占欲からくる、強い排他性で成り立っている。

「二人の世界を作れる(二人で世界を作れる)」それが恋愛の特性だ。

しかし恋愛をテーマにした作品は古今東西たくさんある。むしろ片思いなどを含めて経験する人が多い感情だからこそ、共感を得やすいテーマでもある。

 

新海誠の作品は恋愛をテーマにしながら、「多くの人が経験する恋愛」ではなく「個々人それぞれ違う恋愛の特別性」のみを追求している。

その方法論として使われているのか「結界」だ。

新海誠の作品は、この「結界」を見ている「他者」に意識させるのが異常にうまい。うまいというよりは、意識させることにためらいがない。

自分はこの見る側、というよりは自分が結界の内側に入れたもの以外は、すべてはじくという姿勢が明確なところが新海誠の作品の最も大きな特徴だと思っている。

はじかれた人間はいい気持ちはしないので、普通はこんなことはしない。「受け入れるふり」くらいはする。

結界で強固に閉じられた世界で、「お前はこの中には入れない」ということを明確に告げられている。「関係ないのに何でそこいるんだ?」と言われていることを前提としてみなければいけないものが多い。

 

「結界の強固さ」を極限まで高めたのが、「言の葉の庭」。

その「結界の強固さ」を極限まで高めたのが「言の葉の庭」だ。

「ほしのこえ」や「秒速5センチメートル」や「雲のむこう、約束の場所」、「君の名は。」は設定が現実離れしていたり、作品内で流れる時間が長いので、読み手が自分と重ねる度合いが低い。

例えば「ほしのこえ」だと、太陽系の外で戦っている少女と地球にいる男性の、時間を超えた恋なので、そもそもが自分と作品内の世界を比べない。「現実ではありえない設定」「十年近い思い」などを結界として使っているので、さほど排他感がない。

 

ところが「言の葉の庭」は、物語の背景が日常だ。

年上の女性と男子高校生の恋の話であり、都内の庭園が主な舞台のため、「読み手がこの世界に存在できない言い訳」がない。

むしろ「新宿御苑をモデルにした庭園」という現実にかなり近い設定のため、「自分がその世界に存在できない違和感」が直接的だ。

「読み手が疎外されている」という前提がまずあり、そこからさらに二重三重四重に結界が張られている。

まず改札を通らないと入れない庭園、という設定が絶妙だ。

気軽に出たり入ったりできる開かれた公園ではない。柵に囲まれ、門や改札を通らなければ入れない場所。東屋という特別な空間。

場所だけでも結界性が高いのに、さらに「雨の日」の「午前中」という二重の結界を張ってくる。

強固に閉じられた世界だから、二人は心の交流をし、お互いの秘密を分け合える。

 

「言の葉の庭」を見て、本来自分には何ひとつ関係ない他人の恋愛話が面白く思えるのは、自分にとっての共感するポイントが見つけられるからであって、そういうものが一個もないとすさまじく不気味に見えるんだなと気づいた。

タカオがユキノの足を測るシーンは、他人の情事をのぞいているようで見ていられなかった。自分が見たことある中でも屈指のエロいシーンなのだが、足に触ってサイズを測っているだけのシーンがなぜそんなにエロく見えるのか。

 

主人公の二人、タカオとユキノは見ているほうそっちのけで、少しずつ距離をつめ、彼ら二人にしかわからない方法で交流を重ね、二人にしかわからない言語で言葉を交わし、二人にしかわからないやり方で性行為をしているのだ。そして何が何だかよくわからないうちに、二人の魂は深く結びつきあっている。

 

地球以外の言葉を話す宇宙人の恋愛を延々と見せられているようなもので、とにかく訳が分からない。

そして相手はこちらに何かを説明する気もない。何故ならそれはタカオとユキノ二人だけの関係、問題であり、見ている人間には何の関係ないからだ。

初めから自分には関係のないことをわざわざ見に行って、最後に「えっ? あなたいたんですか? ずっと見ていたんだ、キモ……」と言われて終わるのが、自分にとっての「言の葉の庭」だ。

 

見ている人間をすべて「相沢先輩」にしてしまうのが、「言の葉の庭」の恐ろしさ。

「言の葉の庭」のすごいところは、「キモイ」と思う人のためにちゃんと立ち位置が用意されているところだ。

相沢先輩とその仲間たちだ。

「キモくない? ユキノ、年いくつか知ってんの?」

主人公たちの心の交流の美しさがわからず、結界の外の価値観で彼らの関係をはかり、主人公たちをあざ笑い、「キモイ」という言葉で彼らを排他しようとする人間たちだ。

結界の外の人間である相沢たちは、「キモイ」と断じたユキノを排除しようと虐め抜き、ユキノを結界の内に引きこもらせた。

結界の外にいたときはユキノは彼女たちの攻撃に耐えきれず、傷つき、心身共に追い詰められたが、結界の内の世界に入った今は、「相沢先輩とその仲間たち」は二人には傷ひとつ負わせられない。

タカオは喧嘩をして傷を負ったが、その傷はタカオとユキノに影響を与えるものではない。女子生徒たちが先生に知らせにいったのであの後騒ぎになったと思うが、その騒ぎがタカオにどう影響したのかということは描かれていないことを見ても、物理的には傷に見えても何の影響も与えない意味のないものであることがわかる。

あの騒ぎ自体が、二人にとっては「二人の思いの強さを表すためだけにあり、結びつきをさらに強めるもの」という要素しかない。

そういう要素としてしか相沢先輩をはじめとする結界の外の住民は、二人にとって意味をなさない存在なのだ。

 

「言の葉の庭」を見ているあいだ、ぞわぞわしっぱなしだった。

27歳の教師と15歳の高校一年生の恋愛なんてありえないだろう、ちょっとないのではと思っていた。相沢先輩が出てきた瞬間、取り巻きの一人として結界の外にはじき出された。ひどい。

相沢先輩のやったことが許せない、という自分の主要な感想は、主人公二人にとってはどうでもいいだろう。あのあとの展開を見ると、二人の結界の内にすでに「相沢先輩たち」は存在していないからだ。(浄化された)

 

人と人とはお互いが「よくわからない気持ち悪いもの」であるからこそ、その気持ちを前提として同じ世界で生きていく方法をお互いに探りあうというのが、自分の基本的な考え方だ。(旧劇場版「エヴァンゲリオン」が、このテーマを扱っていた。懐かしい。)

「自分とは違う特性や感性、価値観を持つ他人」を尊重する心を持つ多くの人は、自分だけのものに過ぎない気持ち悪いという感覚を、自分に対して何をしたわけでもない他者に投げかけたりはしない。

だから日常では「自分が他人にとっては異物である」という感覚を、つい忘れがちになる。

 

「言の葉の庭」は、「美しさ」と「キモさ」を同時に突きつけてくることで日常で忘れているその感覚を思い出させる。

「言の葉の庭」の世界や情景や、タカオのユキノに対する思いや二人の交流や、「人に救われる」ということはどうことなのか、描かれていること、語られていることのすべてが美しい。結界の内側の世界も、結界の張り方もすべてが美しい。

「言の葉の庭」で唯一気持ち悪い異物は、相沢先輩のしたことは許せないものの「キモくない? ユキノ、年いくつか知ってんの?」と方向性としては似たようなことを考えて見ている自分ではないか。

「言の葉の庭」自体はそんなことを主張しているわけではない。

ただ美しくそこに存在しているだけなのに、勝手に混乱してしまい、その混乱を起こすものに負の感情がわいてくる。怖い。

 

「言の葉の庭」は、「自分が他人にとっていかに気持ち悪い存在か」を教えてくれる。

「言の葉の庭」はすごい。

自分がいかに他人にとって気持ち悪い存在になりうるか、というより「他人の世界に存在していられないか」「存在してはいけない存在にすらなりうるのか」ということを教えてくれる。

 

それでも美しさに心惹かれて、また見に行ってしまう。排他される感覚、存在してはいけないほど、こちらの存在が不快で醜く感じる人がいることを思い出すために。

余りに美しく閉じられた世界は、そこから排他される不快さがあっても美しく見え惹かれてしまう。

小説 言の葉の庭 (角川文庫)

小説 言の葉の庭 (角川文庫)

 

 小説版は他の登場人物のことも細かく描かれているようなので、アニメ版とは別物かもしれない。

「あそこまでされたら、いっそ警察に届けでりゃあ良かったんだ」って、相沢先輩たち…何をしたんだ…、ということに興味がある。それも書かれているのだろうか。

 

余談:他の新海誠の作品について。

 

「結界の内に自分しかおらず気持ち悪いと思われても、結界の外の人間は気持ち悪い奴らとして切断する、というより存在しないものとして扱う」という極端な「対世界感覚」が、新海作品の一番大きな魅力だと自分は思っている。

 

「秒速5センチメートル」が好きなのは、「世界のルールがよくわからず、世界からいつの間にか排他される感覚(排他される側の感覚)」を描いた話だからだ。子供のころ、この感覚がかなり強かったからだと思うが、秒速の世界は居心地がいい。 

逆に「君の名は。」にほとんど興味が持てなかったのは、この感覚がだいぶマイルドになっていたからかもしれない。「社会性が身についている」と寂しく思ったのだと思う。

多くの人に受け入れられるためには、維持するのはなかなか難しい部分だとは思うけれど、「美しい世界から無視され、排他される不快さ」が味わえる作品はなかなかないのでぜひ残して欲しい。

「天気の子」はこの感覚が、もう少し復活しているといいなあ。

 

見てきた。

www.saiusaruzzz.com

 

 

 「気持ち悪いを巡る話」について、さらに考えてみた。

www.saiusaruzzz.com

 

 

 

*1:あくまで作品に対して。

創作においてはこの「気持ち悪い」感覚を狙って出す場合がある。ホラーに多いが「進撃の巨人」の巨人の造形もこれを狙っている。

なので作品に「気持ち悪い」と思うことはありうる、というよりこの感覚を読み手に想起させなければ失敗と思う作品も多い。(『妹の姉』はそこはかとなく気持ち悪い違和感を出すことを狙っていると思うが、それに成功しているところが最もすごいところだと思っている)

作品に対してか創作者に対してか、創作者に対してにしてもその言動に対してか、価値観や経歴など人格を含んでいるのか、それを切り分けて丁寧に説明することは、誰もが持ちうる差別意識に自分が流されないために重要なことだと思う。

*2:あくまで作品を見て自分が感じた、というだけでどういう意図で作られているのかは知らない