前々から読みたいと思っていた乃木坂太郎の「第3のギデオン」が三巻まで無料になっていたので、全巻購入して読んでみた。
ずっと前から読みたいと思っていたが、「最終巻で急激に失速する」「描く気がなくなったのか?」などの感想を目にしていたので読むのをためらっていた。
テーマの急激な切り替えは無理があったかもしれない。
実際に読んでみて、「うーん、確かに知らないで読んでいたらがっかりしていたかもしれない」と思った。
「フランス革命」という背景に合っていた「平民と貴族・身分」という当初の対立軸を、「父性とは何なのか」というテーマに切り替えたのは、さすがに無理がある。
この話はジョルジュとギデオン、二人の主人公が常に表裏一体の存在になっている。思想や立場が繰り返し反転しつつも、二人でひとつの運命を背負っている。
この二人の分離する軸も「貴族として育てられた平民」と「平民として育てられた貴族」から、「父親に愛された義理の息子」と「父親に愛されなかった実の息子」にシフトしている。
その切り替わりかたがかなり急激なことと、終盤近くになると主要登場人物のすべてが「自分が父親に愛されていたかどうか」にアイデンティティのすべてを支配されているため、一巻から見るとひとりの人物としてかなり不自然に感じる。
特にギデオンは、一巻当初は「娘を愛する父親」「子供たちのために良い国を残したい」「そのためには暴力では何も解決しない」という「自分が父親であること」が人物像の主要素だったため、終盤近くの「自分が父親に愛されていたか」で人格まで変わってしまうのは納得がいきづらい。
ギデオン一人でも「父親」にこだわるさまが納得しがたいのに、登場人物たちの革命への原動力を「個人が父親に対して愛情を求める気持ち」に集約してしまうのは無理がある。
国や国王を「父」に見立てて革命を引き起こす、というのは解釈としては面白いので、もう少しうまく見せられればなと思った。
それでもルイ16世が「父」として確立しているならば、まだ話はまとまっていたとは思う。
登場人物たちそれぞれの多種多様な父性を巡る物語を受け止める「ルイ16世が『父』になる物語」も同時進行してしまったために、話が落ち着きどころがなくなってしまっている。
終盤のルイ16世の物語は、「父親になる過程」と「父とは何か」を描いた名作。
「第3のギデオン」のルイ16世は、ありとあらゆるテーマを背負わされている。
「国家=父」という像を背負う前に、「個人としての自分」を抑圧していたというテーマも抱えている。ルイ16世は「他人の嘘が分かってしまう」という能力のために、人と関わる、特に妻であるマリー・アントワネットと向き合うことができなかった。
父親以前に「夫」として確立していない、「夫」として以前に「男」として確立していない。
それらをすっとばして「国=父親像」を追求しようとしたという問題点を持っていた。
本来であれば「ルイ16世の物語」として、「男」→「夫」→「父親」という個人を確立し、その「個人」とは別の「国民の父親像」を作り、そこで初めて「荒ぶり暴力に走る子供(国民)たちを受け止める父親(国家)」の物語が成立する。
終盤が「ルイ16世の物語」になったのは、恐らくこのためだと思う。
物語のラストで「父とは何か」を語るためには、「男」→「夫」の過程を急速に進まなければならない。
だから「国王である余」ではなく「何も持たない俺」として、マリー・アントワネットに告白したのだ。
好きな女性一人と正面から向き合う力がないのであれば、国民全員と「父として向き合う」ことは不可能だからだ。
このルイ16世の物語は、とても面白かった。
「男」が女性と向き合い、主体的に「夫」「父」となる内面を丁寧にたどる物語はなかなかない。
エリザベートがルイに告白したときに叫んだ「お前らカッコよく死ぬこと以外考えられないのかよ」は、国だの大義だの信念だの「意味のあることにしか命をかけられない」、正面から向き合えば「意味」など簡単にこっぱみじんに砕ける可能性のある、「人と向き合うこと」を拒絶する、「男のロマンの物語(逃避ともいう)」に対する痛烈な弾劾だ。
「お前らカッコよく死ぬこと以外考えられないのかよ」
これは「男の物語」の本質を言い当てた、名台詞だと思う。
「カッコ悪い自分」を見せることこそ、人(特に好きな人)と向き合うことなのだ。その自分を受け入れてもらうことでしか「夫(妻)」にはなれず、「夫(妻)」にならなければ「父(母)」にはなれない。
ルイが国民の前で「父として語る」前には、この過程は絶対に必要だった。
多くの創作では「父親」は、「目標となるもの」「乗り越えるべき壁」としてあり、「父親の愛」はそういう目標や壁、もしくは家族全体を守るものとして存在している。すでにそこに確固として「存在するもの」として、語られていることが多い。
終盤の「ルイ16世が男になり、夫になり、父親になる物語」はこれだけを取れば、名作だと思う。
問題は本来は登場人物それぞれが背負うべき「父親である自分」「息子である自分」「それぞれの父と息子の物語」を、フランス革命に負わせてしまい、国家を父に見立てて「息子である自分」に自我のすべてを託してしまったところだ。
主人公たちが「父」を放棄し、ルイ16世に押し付けたことが一番残念だった。
「第3のギデオン」では「父親と息子」の関係性が繰り返し反芻される。
「息子を愛する父親」「息子を愛せない父親」「息子の愛し方が分からない父親」「父親に虐げられる息子」「父親に愛されない息子」「父親の愛に気づかない息子」様々な種類の父親と息子が出てきており、息子だったものがあるときは父親になる。
ギデオンは「娘の愛し方が分からない父親」であると同時に、「父親に愛されない息子」またルイとの関係においては「父親の愛を信じられない息子」になる。
ジョルジュは「父親から愛されていないと信じる息子」であると同時に、ビッグ・モーターとの関係では「息子の心に気づかず、虐げる父親」でもある。
主人公二人は「息子として父親の愛情を求める」と同時に、「父親とは何なのか」を語る存在なのだ。
それなのに主人公のギデオンは、最後は「父親としての自分」を捨ててしまって、ひたすら「息子として」父親に復讐することだけを考えている。
主人公二人のクライマックスのセリフが「三番目の俺だ」「どうすれば『父』って奴になれる?」「愛しているよ、親父」なのは象徴的だ。
主人公二人はこの長い物語を通して、やっと「息子として父親に愛を伝えられるようになった」だけなのだ。
「父親としての自分」を放棄しルイ16世に押しつけ、息子として父の愛情を求めてダダをこねていただけ(これは物語内でも指摘されている)ということに驚く。
「第3のギデオン」を読むと、「父親になる」(ジョルジュが戸惑っていたように、生物学的な、ではなく)とはこれほど大変なことなのかと気が遠くなる。
確かに「第3のギデオン」が到達した「父親像」は今まで語られてきた「背中で語る」的な父親像よりも遥かに重い。
「第3のギデオン」は、「父とは何なのか」という問いに対して、これほど様々な要求を「息子たち」にぶつけられ、
「誰も陛下の言葉を聞いちゃいない、誰も心を動かされない」中で、
「この孤独に耐えるのが『父』」
というひとつの答えを出している。
本来であれば、「第3のギデオン」は、「父親の愛を求めて駄々をこねるだけだった息子」主人公二人が、「孤独に耐え、子供を愛する父親」に成長する物語だ。
愛情を求めて父殺しを行った息子たちが、最後の最後に父親の愛情に気づき(「第3のギデオン」がやったのはここまで)「自分」を確立し、自分が選んだ相手と向き合って「夫」になり、「父親」になって「誰も陛下の言葉を聞いちゃいない、誰も心を動かされない」孤独を自分も味わって、父の気持ちを分かって父殺しの罪が償われてこそ、物語は完成すると思うのだ。
その苦しみを、すべてルイ(歴史や国家)に背負わせているアンフェアさが、この物語の最大の欠点だと思う。
個人の問題を国家や歴史、大義や信念に託して向き合わないことこそ、エリザベートが批判した「お前らカッコよく死ぬことしか考えられないのかよ」だ。
「父と息子の物語」に切り替えるなら、これから普通の人になった二人が、「カッコ悪く」あたふたしながら、「愛する」とはどういうことなのか悩みながら父親になっていく様も描いて欲しかった。
そうするとフランス革命という歴史とは食い合わせが悪い個人の話になってしまうので、終わらすしかなかったのだろうけれど。
まとめ
「第3のギデオン」はここに書いた不満点を差し引いても、なお面白い。
三巻までは「これをどうしたら、つまらなくなるんだ?」と首をひねりたくなるくらい、息をもつかせぬ面白さだ。
話も面白いし、キャラクターもよかった。
個人として国王として悩みぬいて、誰に対しても誠実でいようとしても、時には誤ったこともしてしまうルイ16世が一番好きだ。自分を子供扱いするギデオンに不満を持ち、親離れして自分の道を歩むソランジュは魅力的だった。よくいる中性的なキャラかと思っていたジョルジュが、意外と男らしい、というより男そのものなところもよかった。
好悪是非はともかく、どのキャラも生き生きとしていた。誰もが「それはない」という許容しがたい部分と、共感や同情もできる部分を合わせ持っていた。
余りにテーマが複雑すぎたのでは、描きたいものが多すぎて詰め込みすぎたのでは、と思うものの、それをここまでまとめあげたのはすごいと思う。
「父は何か」「父になるとはどういうことか」「息子が父になるまでの過程」というテーマと正面から向き合った面白い話だった。