うさるの厨二病な読書日記

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【映画感想】新海誠監督「天気の子」 世界は俺の思い通りになるという傲慢さ

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新海誠監督の「天気の子」を観に行ったので、とりあえず初見の感想を書きとめておきたい。

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観終わった直後は、かなり腹を立てていた。

何故なら途中までは、これぞ自分が見たかった新海作品だと期待値がすさまじく上昇していたからだ。

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「言の葉の庭」の感想記事で書いたが、自分が新海作品で一番魅力に感じているのは

 

「結界の内に自分しかおらず気持ち悪いと思われても、結界の外の人間は気持ち悪い奴らとして切断する、というより存在しないものとして扱う」という極端な「対世界感覚」

 

だからだ。

自分の中では「君の名は。」はこれを余り感じなかったので、面白くなかった。

この「極端な対世界感覚」を維持するために、新海作品では色々なものを代償として天秤にのせている。

「鉄血のオルフェンズ」風に言うと、「チップを賭け続けている」。

 

この感覚が復活しているといいな、と期待半分不安半分だった。復活しているとしたら何を賭けてくるんだろう、とそこが楽しみのひとつだった。

そうしたら期待にたがわず、すごいものを賭けてきた。

東京を水没させたことではない。

それはもう「雲のむこう、約束の場所」でやっている。「結界の外側の世界を切断して捧げる」のは、むしろ新海作品ではおなじみのことだ。

 

「天気の子」では、「自分の未来」「社会的な自分」を賭けてきたのだ。

これにはびっくりした。そこまでやるのか。

 

「自分の未来」は、作内で再三再四主人公の帆高に「似ている」と指摘され、対比される圭介である。

圭介は「大人になった帆高」であり「社会でうまく生きようとしている帆高」だ。

娘のために帆高を冷酷に切り捨て「今まで通りにしよう」とし、「空に行ってしまった大好きな人に会えないのは仕方がない」だから「社会の制約に従って、彼女を求めるのはあきらめよう」とする帆高だ。

 

帆高は自分を必死になだめようとする圭介に銃口を向ける。「娘と一緒にいるためには誘拐犯にされてはたまらない」「こんなことをしたら、お前の人生も終わりだ」と言う自分に、自分自身の未来に銃口を突き付けたのだ。

今この瞬間、自分の大切なものを手に入れられるなら、自分自身の未来も、そしてそこに含まれる未来の娘もすべて捨て去る。

この「代償」は、作内で圭介と刑事のセリフの中で明示されている。

作内の帆高も「未来の帆高である圭介」も、その「代償」を捧げることを選んだ。あの人にもう一度会うためなら、殴られけられ、つかまり、社会に牙をむき、東京を水没させても、そして自分の未来すらもいらないと「代償」を捧げたのだ。

おいおい、娘もかよ。

とさすがにビビった。そして感動した。帆高、お前すごいよ。

 

だが「未来」を代償に捧げてしまったら、もうこの物語の結末は(仮に主観的には満足でも)客観的にはとんでもなく悲惨な状況にしかならないのでは、と思っていた。

 

ところが、だ。

なぜか三年後、水没したままの東京でみんな平和に暮らしている。

圭介なんて三年間で仕事に成功している。娘とは雨が降り続いているのに、会うことができている。(義母はなぜ許したのだろう? 仕事が成功したからか?)

帆高は保護観察処分になったが、圭介にも夏美にも凪にもあの出来事は何の影響も及ぼさず、みんな平和で幸せそうだ。

 

あの「こんなことをしたら帆高の将来は終わり」みたいなセリフは何だったんだ? 帆高を助けても何の影響もないなら、「帆高と関わったら誘拐犯にされて、自分の人生は終わり」という葛藤自体がいらないじゃないか。

しかも東京は水没したままなのに、立花さんや圭介が「お前らのせいじゃない」「元々、東京はこういう場所だった」と罪悪感を軽減する措置までしてくれる。

人々は平和に、特に支障もなさそうに暮らして(そんなわけない)誰一人、こんな風になったことを困ったり呪ったりしていない。

 

何なんだ、この強引なハッピーエンドは。

あんな大騒ぎして「大変なこと」をしでかして、「世界も未来もいらない」と言って実際に東京は犠牲にしたのに、何のお咎めもなしで、むしろあのころよりもずっといい世界になっているってどういうことだ?

「何も犠牲にしなくとも世界は俺の都合がいいように動く」ということか? 「大人になったら、優先順位が動かせなくなる」のは、動かしたら何かを犠牲にしなきゃならないからだろ。そうじゃなきゃ、その場その場で動かし放題だ。

何なんだ、この適当で傲慢な「俺を中心に世界は回っている」と言わんばかりの世界観は。

 

と観終わった直後は、かなり腹を立てていた。

しかし、あることに思い至ってハッとした。

 

そうだ、自分の世界観なら「何かが欲しいと思ったら、代償を支払うのは当たり前」だ。そしてそれは社会一般の価値観でもある。

その法則は作内でも再三再四、「帆高を助ければ誘拐犯にされて娘に会えなくなる」「陽菜に会おうとすれば、帆高の将来はめちゃくちゃになる」「一人が人柱になって異常気象が止まるなら、それを歓迎する人間のほうが多い」という風に提示されている。

だから「天気の子」も、その法則にのっとって描かれるのかと思っていた。

 

しかし違う。

「帆高を助けるかどうか」を圭介が葛藤して抱える前から、もっと言うと「天気の子」が始まる前から代償は支払われ続けていたのだ。

世の中に抑圧され、その価値観を主張すれば殴られつかまり、社会の枠組みに押し込められそうにされ、逃げても逃げてもどこにも行く場所がない。ついには自分自身にすら「(社会と)話しえばわかる」「大人になれ」と蹴り飛ばされ、「お前がいると社会の中で生きていけない」と冷酷に突きつけられる。

新海作品は、ずっとその代償を支払い続けていたのだ。

最も象徴的なのは、帆高が陽菜に会うために、線路を走るシーンだ。

自分たちには理解できないもののためにとんでもないことをする帆高を、見ている人間たちはバカにし、あざ笑い、キモイと言う。

いい加減大人になって、社会の法則に従って生きろよ。

そういう人たちの言葉をはねのけて、「みんなの言うことが尤もで、それが正しいのでは」と思う自分に銃口を突き付けて、「天気の子」の世界にたどり着いたのだ。

 

「天気の子」の世界観が傲慢なのは当たり前だ。

あれは作内でも言われていた、社会における普通の世界観を描いているのではない。

「新海作品特有の世界観」を描いているのだ。

「圭介が処罰を受けるどころか、あんなに仕事で成功しているのはおかしい」なんてたわごとなのだ。「綺麗なオフィスに移転して、仕事も順風満帆」というのは、ものすごく控え目に謙遜して描かれた「帆高であり続けた圭介」なのだ。

 「代償なんてとっくに捧げつくした。そして、世界は俺の思う通りになった」

 

「いまこの瞬間の自分の望み」以外のすべてをチップとして捧げ、たどり着いたのが「天気の子のラスト」なのだ。東京を水没させようが、未来を捨てようが、娘もその中に含めようが、人々はその水没した東京で平和に生き、「天気の子」を観にきている。

何も捧げていないのに「世界は自分が思う通りの法則で動いているはず」という傲慢さを持っていたのは、自分のほうだった。

 

「天気の子」を観てイマイチすっきりしないのは、むしろ「線路を走る帆高を嗤った代償」を、陽菜を思い泣く帆高を「ちっ、めんどくせーな」と思ってしまう代償を支払わせてくれないからだ。

「俺の世界観の傲慢さ」で、完膚なきまでに叩きつぶして欲しかった。このままでは、抗弁することも腹を立てることもできず、消化不良を起こしそうだ。

 

「言の葉の庭」の「相沢先輩とその仲間たち」の扱いを観ても、物語上役目を終えた結界の外の人間は、罰を与えるほどの注意すら払われなくなり存在を抹消されている。

その徹底した結界の外への無関心さが、一番際立っている話かもしれない。

 

というのが、今のところの感想だ。

 

もう少し自分の中のモヤモヤを掘り下げてみた。

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 小説版は、またちょっと違うのだろうか。

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天気の子 (角川つばさ文庫)

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