うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

新海誠監督作品「天気の子」で一番衝撃を受けたシーンと作品に感じるモヤモヤについて。

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*内容のネタバレを前提にして書いています。未視聴のかたはご注意ください。

 

 

 

 

 

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前回、観終わった直後に感想を書いたが、まだモヤモヤしている。ずっとそのモヤモヤについて考えている。

前の感想記事では「自分の望みのために、その望み以外のものをすべて代償として捧げたのに、予定調和的に生ぬるいラストになったことにモヤモヤしたが、その発想自体が何も捧げていない自分の狭い世界観だったのかしれない」というような感想を書いた。

 

「天気の子」はテーマとして取り上げられていることが、自分に最もフィットしていることだが考え方がずれているのでモヤモヤが半端ないのだ。何を「ずれている」と感じているのか、もう少し掘り下げたくなった。

 

「天気の子」で自分が一番衝撃を受けたシーンは、帆高がパトカーの中で「陽菜が実は15歳だった」という事実を知るシーンである。

「俺が一番年上だったのかよ」とボロボロ涙を流す帆高を見て、刑事の高井が「ちっ、めんどくせーな」と吐き捨てる。

あのシーンに強い衝撃を受けた。

もっと言うなら、そのシーンからあの高井という刑事の一挙手一投足が気になる。帆高に入室するように促す、そのいかにもとうでもよさそうな感じも、逃亡する帆高に激怒するところも気になる。

もし作内で帆高と対比される人間が「帆高を冷たく突き放しつつも、どこか帆高的な部分を残していて罪悪感を抱く圭介」ではなく、高井だったら、そして二人のうちどちらかが死ぬなどする話だったら、自分は何回も劇場に足を運んで「天気の子」を観ていただろうと思う。

それが「ぼくがかんがえたさいきょうの『天気の子』」なのである。

 

*実在した「ぼくがかんがえたさいきょうの『天気の子』」。恐ろしい。

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あのシーンになぜそんなに衝撃を受けたかというと、あのパトカーの中での様子がずっと自分の心象風景だったからだ。

「天気の子」を観てこんな長々と語ってしまうような自分を、仕事もして日常を生きている自分が「めんどくせー」と思っている。しかしパトカーの中で「何かに号泣するほど衝撃を受けている自分」は「めんどくせー」と吐き捨てても、激怒して追いかけて社会の枠組みに押し込めようとしても存在するのだ。

 

自分は「天気の子」は個人の中の「個」と「社会」の葛藤の話だ、と考えている。

 

普段は作者の話はどうでもよくて(むしろ個人的にはノイズとすら感じている。)「自分がその作品に何を感じ、何を受け取るか」がすべてだと思っているが、このインタビューは珍しく読んだ。

「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟 - Yahoo!ニュース

 

その中で新海誠が

「こんな主人公を愛せない」という人がきっと出てくるのは、断言できます(笑)。

こう話している。

確かに帆高は勝手な奴だ。東京にくるまでの船のシーンでは豪雨に大喜びし、陽菜と「晴れ女」の商売を始めたら「晴れってこんなにも人の心を動かす」といい、最後は「晴れなくていい」と言う。

「ほんと自己中で現金だな」と観ていて笑ってしまった。

自分は、そういう帆高を「愛する愛せない」という客観的な視点で見れなかった。豪雨が突然降れば「危ないので船内へ」と言われても甲板で大はしゃぎし、パトカーで突然号泣し、陽菜を求めて他人の目も迷惑も考えられず線路を走り、陽菜と会うためならば東京なんて水没したままでいいと思う帆高が自分の中にもいるからだ。

 

そういう帆高が帆高として生き続けるために何を犠牲にするのか、どこまで社会に抗い続けるのか、そういう話だと思っていた。

自分がつくづく現金だな、と思ったのは、似たようなテーマでも「鉄血のオルフェンズ」のように「社会対別の社会」つまり「集団対集団」の場合は、あっさり自分にフィットしやすそうな体制側につき、社会になじまない集団がつぶれるのを「そうなるよな」と思って見ていたところだ。

「個人にそこまで目が行き届いていない大社会」と「『強い何か』で結ばれている小社会」だったら、圧倒的に前者なのだ。

 

「天気の子」は「雨なんてやまなくていい」とまで言った帆高(や圭介)があっさりと社会と和解し(その和解の過程が書かれておらず)、しかも社会から「人柱」として捧げられた陽菜が社会のために祈り続ける。

「個」と「社会」の戦いを、「個人的な自分」と「社会的な自分」の戦いを徹底的にやって欲しかった自分としては、なんともモヤモヤが止まらない終わり方だった。

「個」と「社会」が戦えば「社会」が勝つが、「個人的な自分」と「社会的な自分」の場合は違う。ただその場合は「個人的な自分」に、終わりが見えない気が遠くなるような果てしない消耗戦をするとてつもない胆力が必要になる。

社会からエネルギーをほぼ無限に供給できる「社会的な自分」の物量はすさまじく、圧倒的だ。

「天気の子」はそのあたりが非常にうまく描かれている。

 

と思っている自分からすると、その「気が遠くなるような果てのない消耗戦」を戦いきり、その相手である「社会」のために祈る余裕すら見せつけられると「そんないいとこどりできるか」という気持ちになる。

まだしも「社会と戦う力が一片もなく、ただ踏みつけられ消えていくだけ」の「火垂るの墓」のほうが見ていて辛くともモヤモヤはしない。(後半のホテルのシーンを観ているとき、「これは『火垂るの墓』では」と思っていた。)

ただ実際に「果てしのない消耗戦を戦いきり、こうやって『天気の子』という映画で社会と皆さんの幸せを願っています」と言われると、僻みっぽい自分も納得せざるえないというが「天気の子」を観た感想なのだ。

 

「消耗戦を戦いきれる人」は案外みんな「戦い後は、祈れる余裕すらあり」それが鴻上さんが「才能とは夢を見続ける力です」と言ったことなのかもしれない。

「『俺の才能を認めなかった奴は、全員(社会も社会的な自分も)水に沈め』というラストが良かったな、沈められた恨み言のひとつでも吐かないと消化不良になりそうだ」と思うのが自分の小ささなんだろう。

 

と、いうのが今のところの感想だが、地上波放送かAmazonプライムで放映されるようになったら、もう一度見てみようと思う。

天気の子

天気の子

 

 

 

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「『強い何か』で結ばれている小社会」は悪いところが出たときだけ注目されるので、怖いと思ってしまうのなかもしれない。

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