*PS4「レイジングループ」と「宇宙よりも遠い場所」の五話のネタバレを含んでいます。
「レイジングループ」をトゥルーエンドまでプレイして驚いている。
旧くからの因習(かみさま)に支配されとらわれている登場人物たちのアイデンティティを、主人公が支配しコントロールするという解決方法がとられ、それを全肯定して終わったからだ。(主人公が登場人物たちの新たな『かみさま=内部規範』になっただけ)
「休水の人を支配する」陰謀を解決するために主人公が陰謀と同じ方法論を用いている(人の道徳観や価値観、アイデンティティをいじくって人を自分の思う通りに動かす)ので、目が点になった。
主人公がチート能力で物事を解決する話は他にもたくさんある。(好きではないが)
ただ「レイジングループ」は問題を解決するためにその問題の方法を用いて解決している。解決しているように見えて実は解決になっていない。
さらに他者のアイデンティティまで、主人公がすべてコントロールするということを肯定的に見せるのはにわかには信じがたい。
いくら何でも少しは内省する視点が入るだろう、と思っていたら、そのまま終わってびっくりした。
「レイジングループ」は、「一見良いことに見えるので、周りが否定しづらい支配欲」が話の根底にあると思う。
これが何なのかは、「宇宙よりも遠い場所」の五話を見るとわかりやすい。
めぐっちゃんは「行動を支配しようとしていた」が、「レイジングループ」が支配するのは、その村やその人の人生や価値観、何百年と続いた人の業だ。それを他人が「自分の正しさ」でコントロールする(しかも登場人物ほぼ全員に対して)という恐ろしいことをやっている。
先日、鴻上さんの人生相談で「過干渉」の話が掲載されていた。
親として、「どこまで子供の立場を尊重するか」ということでしょう。
鴻上さんは、こういう現象のキーポイントとして「尊重」という言葉を用いている。その人の人格、意思、歴史、価値観を自由でいさせる(支配しない)ということが、「その人を尊重している」ということだ。
「レイジングループ」のストーリーには、この「他者を尊重する」とはどういうことかという観点がない。他者は(言動だけでなく、その自我までも含めて)自分が思い通りに動かしていいもので、そのほうがいい結果が出るという話だった。
プレイしていてかなり不快になった。
一体、どういうつもりでこんな話を作ったのか見当がつかない。考えた末思いついたのが、「そういう行為をする側の気持ちを追体験させるためでは」という可能性だ。
「レイジングループ」をプレイすると、人がなぜそういう「『正しい』ことや『善意』に基づいていれば、他人を尊重せず、支配しコントロールしてもいい」」という思考に容易く陥ってしまうのか、その理由が分かる。
主人公房石(仮)の視点になると、「ループしているから本人たち以上に本人たちのことや色々なことがわかっており、幸福にする力がある。この力で相手を導いてやらねば」という快感に酔えるからだ。
「子供より自分のほうが経験や知識があり、だから子供のプライバシーにも自分が口を出し判断したほうがいい」という上記記事の親と同じ発想だ。
プレイヤーが房石(仮)として「他人のアイデンティティにまで関与し、他者を導く快感」に酔うことに罪悪感を感じないように、「主人公はループに巻き込まれた」「長者たちの非道」というエクスキューズも設定されている。
自分が「レイジングループ」で一番ひっかかったのは、主人公房石(仮)に対して感じるなんとも言えない不快感だ。生理的嫌悪に近い。
他に指摘している人がいるように、物言いが寒いからかチート型の主人公だからかと最初は思っていた。だが言っていることが寒かったり、設定がチートでもここまで強い嫌悪を覚えることは今までなかった。
その理由が最後までプレイしてわかった。
房石(仮)の根底にある強烈な支配欲が、受けつけなかったのだ。
人のアイデンティティまで自分の思うままにしたい、というこの物語は、房石(仮)の強烈な支配欲を軸として作られている。(女性キャラの彼に対する言動の不自然さ=『支配されたさ』を見ると、恐らくそうだと思う)
房石(仮)というキャラは、「わからないものが怖い」という。
自分も人間にとって「わからないものが一番怖い」と考えているが、房石(仮)の「わからない」「怖い」への耐性の低さは異常だ。「わからない」と安心していられないので、他人を「自分とは違うわからないもの=他人」として尊重できず、「わかるもの」として支配しておきたい。
自分の安心のために、人のアイデンティティまで掌握しコントロールしようとするのはそのためだ。
いくら何でも極端すぎるだろうと思うが、ゲームのキャラなので極端なほうがわかりやすいと考えたのかもしれない。
この事象の原因は、「自分の価値が信じられないので、自分に相対する他人のことも信じられない」→「だから他人のすべてを把握し、コントロールできるようにしておきたい」→「支配することでようやく安心が得られる」という流れになっている。
この「『わからない他人』への恐怖と不信からの支配」は、「黄泉忌みの宴の最中に起こる状態」や「藤良村の休水への監視体制」にも共通する。
「レイジングループ」は「黄泉忌みの宴」「藤良村と休水の関係」「房石と他の登場人物たちの関係」「物語全体」と、上の発想からなる「支配―被支配」の関係がマトリョーシカのようになっている。
「自他への不信からくる支配欲」が問題の原因なのに、それを下位層の問題を解決する方法論として用いてしまっている。しかもそれを体現している主人公の房石(仮)を全肯定する作りなので、トゥルーエンドまでいっても根本的な解決になっていない。
「相手に対する不信」は「相手を支配しておかなければ信じられない、安心できない自分の弱さ」からきている。
物語の中にそういう視点がなければ、この問題は解決しない。
「原因は他者」と考えているうちは、この円環から抜け出せない。物語内でも指摘されている通り、支配するものが「正しい」か「正しくない」かを論じるのは意味がない。「支配する側」にとっては、それが「正しい」から支配するのだ。それは三車だろうが、房石(仮)だろうが変わらない。
「自分は正しいから、他者をコントロールしてよい」という発想そのものが問題なのだ。
アイデンティティにまで触れる話は、「主人公が、自分の痛みを引き受けて自分を変える物語」でなければならないのはそのためだ。
自分の中で「レイジングループ」はトゥルーエンドの時点でも、「他者に原因を求めることで、自分を見ないようにする」というループから抜け出せていない。
とすると「『自他を信じられない弱さからくる支配欲とは何なのか』を考えて欲しいためにこういう物語にしたのではなく、制作者がこの構造に気づかなかった」と考えるしかなくなる。
20年以上前に公開された「旧劇場版エヴァンゲリオン」ですら、すでに「自分が傷ついても、気持ち悪い(わからない)他人同士でいよう」と言っているんだが…、と思わないでもないが、この問題は自分も気づかず危ういと思うことが多いので、反面教師になってくれたと思うことにした。
「自分は善意や正しさ、相手のためにやっているんだ」というエクスキューズに容易く流されやすいからこそ、「それは私の弱さが原因だ」と認め、「お前のいない世界に行く」ことでめぐっちゃん本人が「支配ー被支配の関係」を断ちきった「宇宙よりも遠い場所」の五話は神回だと思うのだ。
自分たちが離れなければならない原因を「キマリの弱さではなく、自分の弱さだ」と認め、キマリに伝えためぐっちゃんはすごい。
めぐっちゃんは、キマリに浸食していた自分の膜を自分自身の手で断ち切った。
誰もがハマりやすい問題だからこそ、こういうテーマを繰り返し語っていくことが大切なのかもしれない。
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人狼ゲームの部分は面白かったのに。