これまでの感想の変遷
(一期を観終わった直後)
(全話観終わった直後)
(全話観終わった一年後)
これだけ書いても「オルフェンズ」について、腑に落ちない部分がある。上の記事でもメインで書いている「鉄華団の思考停止問題」だ。
上の記事で鉄華団に対して、滅んで当たり前と思うくらいいわく言い難い不可解さと怖さを感じるのは、「団員が不自然に思考停止しているから」「自分個人の中に共同体への不信があるから」と書いている。
ただよく考えれば、比較対象として出した「乙女戦争」のフス派に対しては違和感はあっても、「滅びて当たり前」とは感じなかった。むしろ歴史上、滅びるとわかっていることが辛かった。
「オルフェンズ」は、「居場所のない者たちが、社会に反抗して自分たちの居場所を求める話」という一見よくある話だ。
しかし他の類似の作品では、体制側の視点で見て主人公が参加している集団に対して「滅びて当然では」と思うことはなかった。
「オルフェンズ」や鉄華団は特別なのだ。
一体、鉄華団のどこに他の作品に出てくる集団とは違う怖さを感じているのだろう、ともう少し掘り下げたくなった。
「鉄血のオルフェンズ」で一番わからなかったのは雪之丞だった。
このことを考え始めたのは、自分が「オルフェンズ」で一番よくわからなかったのは雪之丞だ、と気づいたことがきっかけだ。
44話で雪之丞はもっととんでもないことを言っていて、鉄華団を脱走しようとしたザックに、
「お前みたいのが鉄華団にもっといたら、オルガも楽だったろうに」
と言っている。
雪之丞は「オルガが楽じゃなかった」ことも知っていたし、なぜ楽じゃないのかというと「ザックみたいに自分の頭で考える人間が他にいなかったから」なこと気付いていたのだ。
(【アニメ考察】「鉄血のオルフェンズ」オルガはなぜ火星の王になれなかったか?など、物語内の人間関係について。)
44話で驚いたのは雪之丞が「気づいていた」という事実そのものよりも、その言いかただ。「気づいていたけれど、どうしても言えなかった」という感じではない。
ものすごくあっさりとした、天気の話でもするような言い方だった。
雪之丞の中に、「鉄華団をとめなければ」という葛藤が一切なかったように見える。
彼らのことがわかっていて、仲間と思っていて、見守っていた雪之丞が、なぜ彼らが自滅するのをただ見ていただけだったのか? そしてただ見ているしかない自分の無力さへの葛藤やジレンマが一切ないのは何故なのか?
記事を読み返すと、この点にかなりこだわっている。。
自分だったら仲間だと思っている人たちがこのままだと破滅するとわかっていたら、そのことについて自分の意見を言わないということは考えられないからだ。仮に言えなければ、言えないことに悩むからだ。
しかし雪之丞はそうではない。その理由が、どうしてもわからなかった。
だが、ある人から「雪之丞はオルガの『大人アレルギー』を汲み取っていたから、自分の意見を言わなかった」というコメントをもらって、自分の中で何かがつながった。
雪之丞は大人だから、「オルガが楽じゃなかった」ことを知っていた。なぜ楽じゃないかというと「ザックのように自分の頭で考える人間が他にいなかったから」ということに気付いていた。
しかし、それを言ってはいけなかった。なぜかというと、「大人だから気づいたこと」を言ってしまうと「大人」になってしまうからだ。
鉄華団でいるためには、「孤児」でいなければいけない。
そこには善悪も是非も損得も理屈もない。「大人であってはならない」というのは、いかなる社会的な、外の世界の法則をすべて超えた、鉄華団にとって絶対的なルールなのだ。
「大人であるからといって、仲間ではなくなってしまうのか?」
という当たり前の疑問、「一般的な」「社会で当たり前の感覚」を超越したもので結ばれている、彼らはそのルール内にいるからこそ「疎外された孤児たち」なのだ。
彼らは「鉄華団」というルールを信奉していることのみをもって、「孤児」であり「鉄華団」なのだ。
雪之丞は「鉄華団」でいるためには、「大人であってはならない」ことが分かっていた。だから、気づいていても何も言わなかった。
この法則はメリビットが実証している。オルガや鉄華団に対して「大人として」忠告したメリビットは、一期の最後で急速にその存在感を失う。
彼女は二期では完全に言うことを諦めてしまっている。諦めてしまったのもあるし、雪之丞と付き合い始めたので余り他のことに興味がなくなったのでは、とも思える。
(【アニメ考察】「鉄血のオルフェンズ」オルガはなぜ火星の王になれなかったか?など、物語内の人間関係について。 )
と以前書いたが、これはメリビット側の問題ではないと気づいた。
彼女は鉄華団のルールに抵触したので、鉄華団から放逐されたのだ。雪之丞を通してかろうじてつながってはいるが、「存在」としてはいないも同然になった。
二期のメリビットは鉄華団やオルガに仕事以外で関わらなくなり、デクスターで十分代替できる存在になった。
( 「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」感想&くっそ長い物語の分析&感想)
物語の深層で鉄華団を監視し、動き続ける「粛清回路」
この考えを突き進めていって、恐ろしいことに気づいた。
「鉄華団」は、物語上固い絆で結ばれているが、閉鎖的な組織のような粛清や私刑は行われない。タカキのように、組織から離れたいと申し出れば自由に離れられる……ように見える。物語内の描写だけならば。
しかし、実は物語の深層では粛清や私刑が行われているのではないか。
一期であれほどオルガに信頼され頼られていたメリビットが二期で「存在しなくなった」のは、事実上の粛清だったのではないか。
物語の表面上はそんなものは存在しないかのように描かれているが、深層では「鉄華団のルールに逆らう者は粛清される」という回路が働いている。
雪之丞はそれを知っている。だから、気づいても何も言わなかった。「鉄華団の法則に逆らう大人」になれば、メリビットのように粛清されるからだ。
この考えでいくと、ビスケットの死は実は逆なのではないかと気づく。
今まで「ビスケットが死んだから、鉄華団は暴走して悲惨な末路を迎えた」と考えていた。しかし実は「サヴァランの言葉に迷いを抱き、鉄華団の暴走を止めて社会に迎合しようとしたから、ビスケットは物語の深層回路によって粛清されたのではないか」
ビスケットの死後のオルガと三日月の会話、三日月の暴走、二期の始まりのビスケットの墓を前にした二人の会話も「自分たちの判断ミスで仲間が死んでしまった」というよりも「自分たちの結束のために仲間を粛清された」後として見るほうがしっくりくるのだ。
オルガはこの粛清回路から鉄華団の面々を救い出そうとして、二期のはじめでは会社を設立し社会の中で生きようとした。
鉄華団のメンバーは、社会の中で生きようとそれなりに試みている。オルガも「みんなを斬ったはったなどせずとも、暮らせるようにしてやりたい」と言っている。生きるためには、社会とうまくやっていくしかない、ということがわかっているのだ。
しかしそういう彼らに対して、社会の中で生きられないようにする回路が働き罰を与える。ガランが来襲し、アストンが死ぬ。
彼らが「社会とうまくやっていこう」とすると、粛清回路が働きだしことごとく邪魔をする。そういう提言をする人物を抹殺したり、社会からの圧力が加わって人が死んだりする。それを知っている雪之丞は、「気づいていても」口をつぐむ。
鉄華団は、結果的に社会からどんどん疎外され続ける。
「粛清回路」は、「鉄華団が社会から疎外されること」を求めている。
この粛清回路は、鉄華団の面々に「社会から疎外されること」を求め続ける。そのルールに抵触すると、粛清されたり団から追放されたり誰かが死んだりする。(物語上はアストンやビスケットのように戦死したり、タカキのように自分から離れる、という風に描写される。)
「考えるのはオルガの仕事」と言って、団員が思考停止していたなどに代表される鉄華団の不可思議なところ、強い絆で結ばれた仲間同士の集団のはずなのに、メンバーの言動が同調圧力が強烈な閉鎖的な集団のごとく「余計なことは言わない、考えない、なるべく組織に同化しようとする」不自然さが、「粛清回路がある」と考えると納得がいくし辻褄があう。
鉄華団の面々は、この「ルール」がわかっている。そのルールがわかっていて信奉していることをもって彼らは、一般的な社会におけるすべての事柄から疎外される「オルフェンズ」なのだ。そして「そのルールを信奉することで他のすべてから疎外されることによって」彼らは鉄の絆で結ばれている。
アトラとクーデリアは、三日月以外の鉄華団とは別の世界で生きている。
「鉄血のオルフェンズ」の不思議なところは、他にも色々とある。「オルガを中心とした鉄華団」と「三日月を中心とした三角関係」がほぼ交わらない点もそうだ。
アトラの不思議なところは、鉄華団の内部の人間でありながら、ごく限られた人間(三日月、雪之丞、ビスケット、年少組)としか接点を持っていない。個人的なつながりを持っているのは、三日月とビスケットくらいで、他の年長組とは話をしている描写すらほとんどない。
(「機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズ」第一期の長~い感想&二期への期待)
自分は前から、この点が不思議だった。
アトラやクーデリアは、年長組はおろか、オルガとすらほとんど話している描写がない。実務的な話はしているが、軽口や雑談をする描写はほとんどなかったと記憶している。いくら三日月のことが好きでも余りに落差が激しい。
仮説として思い浮かんだのは、アトラやクーデリアとオルガたちは別世界の人間なのでは、ということだ。
アトラの実体は「三日月、クーデリア、アトラ」の三人で形成される世界に存在している。だから上記の意味でとらえれば鉄華団ではないし、彼女はその三人の世界にしか基本的には興味がない(興味をもちようがない)ので、粛清回路の射程内にはいない。
社会を動かそうとするクーデリアは年齢に関係なく、「大人」なのだ。だから鉄華団ではない、ということは前にも書いたが、もう一歩踏み込むと、「鉄華団ではないから」オルガを始めとする鉄華団の面々とは(本当の意味では)話せない。
アトラや名瀬と違うのは、クーデリアの「社会を変革したい」という強い思いは鉄華団に影響を与えてしまい、鉄華団ではないものにしてしまう可能性があるところだ。
クーデリアは、粛清回路(そのものではないにせよ)に最も近い存在である三日月すら変える力を持つ。
唯一彼の考え方や生き方に影響を与えそうになったのがクーデリアである。
一番、象徴的なエピソードが18話の「声」である。
ここで「オルガとは違い」「声だけで敵をとめた」クーデリアを三日月は「すごい」と言う。自分が見た限りでは、三日月が自分の考え方の方向性を変えるようなことを言うのは、ここくらいだ。
ここで、「三日月が変化する」という大きなフラグが立つ。
(「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」感想&くっそ長い物語の分析&総評)
この記事で「『オルフェンズ』は元々は『クーデリアルート』だったが、『オルガルート』に変更されたのでは」と書いた。クーデリアは登場人物たちの中で、唯一物語を導けるくらい(粛清回路と同等の)強い干渉力を持つ。
彼女が「みなさんと私の道は違う」と言ってその干渉力を発揮しなかったから、鉄華団は社会と接点を持つ機会を失い、粛清回路に支配されるオルガルートを突き進んだという見方もできる。
その影響を受けないようにするために、オルガや年長組はクーデリアと分断されている。
それまでまったく話している描写がなかったチャドやユージンが、最後は生き残って「お嬢」とよんでクーデリアに仕えている。
それまで彼らがクーデリアと関わっている描写がほとんどなかったため、普通であれば「エンディングのよくある描写」にすぎないものがすごく不自然に見える。
彼らは鉄華団が壊滅したあと、「大人」になってクーデリアと同じ世界にやってきたのだ。だから鉄華団が滅んだあとは、クーデリアと関われる。「孤児」ではなくなった彼らは、ラスタルと手をつなぐクーデリアを支え、社会の中で生き社会を変える側に回った。
オルガの目的は、この粛清回路から穏便に鉄華団を連れ出すことだったのでは。
ユージンやチャドが大人になれたのは、オルガの死は「死そのもの」ではなく、大人との和解であり、鉄華団が大人と和解することをもって粛清回路から逃れられたからではと考えた。
オルガの死は「疎外され続けることをもって孤児だったという状況」が消滅したことを表していると思う。
この「疎外され続けることをもって孤児」という状況こそ、鉄華団が信奉したものであり、その信奉を維持するために粛清回路が働き続けていた。
オルガは自分の死をもって、自分たちがとらわれていた「粛清回路」を打破し、生き残った仲間たちを「斬ったはったせずにすむ世界=大人の世界」に連れて行ったのだ。
鉄華団や「オルフェンズ」という話が恐ろしいのは、彼らは「粛清回路」に一方的に囚われていた犠牲者ではないところだ。
彼らの「疎外されていることこそが唯一の存在の証であり、この世で信奉する唯一の絆」という思いが粛清回路を生み出し駆動させ続けたのだと思う。
ビスケットが死んだあとのオルガと三日月の会話に、それが表れているように感じる。
「大人」たちが彼らをよってたかって潰そうとしたのも当たり前だ。
彼らの中には「疎外されている状況」という神に対する狂信がある。狂信しなければ彼ら自身が粛清されるからだ。しかし、「疎外されている状況」を作るには、社会に対して常に敵対行動をとらなければならない。
「社会に対して敵対行動をとり続け疎外されること自体が目的であり、存在の証」なんていう集団は恐ろしすぎる。
ジュリエッタの「彼らの居場所は、戦場にしかなかった」「ただひたすらに生きるために戦う」という指摘は、一見ぼんやりとした「よくある物事をきれいにまとめようとする言葉」に見えて、かなり的確だったのだなと思う。
「鉄血のオルフェンズ」という物語の深層には、そういう狂信を強いる「神」が眠っている。「社会のすべてから疎外される孤児でいなければならない。それこそが自分達の唯一の居場所であり存在の証」というタイトルは、恐ろしい重みを持つ呪いのようだ。その呪いの中でしか、鉄華団は存在することができなかった。
クーデリアはその神を止める力を持っていたが、自分の目的を優先し、オルガは仲間たちのためにその回路を壊そうとして自分の命を失った。
「オルフェンズ」は一見、孤児たちと彼らと対立する社会の話に見えるが実は違うのかもしれない。
粛清回路という居場所しかなかったが、同時に内部に抱え込んだ爆弾であるそれをどう穏便に処理するかを葛藤していた孤児たちの物語と、余りにそれが強力な爆弾ゆえに彼らごと始末しようとした大人たちという二重構造になっているのだ。
この話を不可解に感じながら強く心惹かれるのは、「『疎外される』という状態にしか、自分たちの居場所はない」という恐るべき狂信と、それを持たざる得ないほど人を追いつめる世界の不条理さを的確に描いているところにあったのだと思う。
つくづくすごい話だ。
自分だけで考えていたら鉄華団のことがわからずモヤモヤしながらも、それ以上は何も考えずに終わっていたと思う。
感想を書くことで、それを人に読んでもらうことでこんなにも考えが広がっていく、色々なことが考えられるということを教えてくれたことでも、「鉄血のオルフェンズ」という作品に感謝している。
細かい部分は記憶が曖昧なのでプライム対象になったら(せこい)、もう一度この視点で見てみようと思う。
(追記)
笠井潔「テロルの現象学」の中に出てくる
「破滅を宿命的に強いられた者だけが思想を極限化していく」
この言葉が鉄華団をよく表していると思う。
個人的には「テロルの現象学」の第一章を読んで、「鉄血のオルフェンズ」がなぜああいう話になったのかという納得が深まった。