1963年に起こった「吉展ちゃん誘拐事件」をモデルにして描かれたフィクション。
幼いころ義父から虐待された影響で脳機能に障害を抱え、周りから「莫迦」として扱われてきた宇野寛治が犯人として設定されている。
悪さっていうのは繋がっているんだ。おれが盗みを働くのは、おれだけのせいじゃねえ。おれを作ったのは、オガとオドだべ。
(引用元:「罪の轍」 奥田英朗 P514 新潮社)
宇野が殺害した吉夫に自分を重ねたように、子供のころ、義父に当たり屋をやらされて被害者だった彼が、大人になって義父と同じ子供に対して加害者となった。
「虐げられていたころ死んでいれば被害者、生き延びれば加害者」という構図は、創作でも実事件でもよく出てくる。
ただ結局のところ、「自分が加害者と被害者どちらに感情移入するか」に過ぎないのではないか、という思いもある。「被害者であったときに放置されていた人間が加害者になったとき、彼もしくは彼女が被害者か加害者か、もしくはその割合がどれくらいであるかも、社会がジャッジするのか。『被害者』『加害者』も、社会が決めるのか」ということに、違和感を覚えることもある。
だからと言って、悲惨な事件を見聞きしたときに心からすべての感情を締め出すこともできないししたくない。
自分の中でも余りはっきりした軸ができておらず、それぞれの事件や状況で考えがあっちにいったりこっちにいったりする。
そういうモヤモヤを抱えた中で「犯人にも同情すべき理由がある」という話を、情感たっぷりにやられるたらうんざりしてしまっていただろう。
「罪の轍」はタイトルや帯の宣伝文句からしてそういう内容だろうと身構えていたが、そうではなかった。
作者の視点や情感、価値観がほとんど入っておらず、作品や人物とのあいだに距離がある。作者は犯人である宇野寛治とも刑事たちとも、被害者とも等距離の場所に立っている。
「罪の轍」をくっきりと示す上記の寛治の言葉に対しても、刑事たちに強い感銘や衝撃どころか、少しの揺さぶりを与える様子も描かれていない。
刑事たちはある程度、寛治の境遇に同情を示しつつも、あくまで自分たちが生きてきた刑事としての価値観や職務への責任をもって寛治に相対する。
この本の核心に迫る寛治の言葉に対しても、「だから何だ」くらいの対応を示し、寛治から情報を引き出そうとする姿勢を崩さない。
だがそれと同時に、大場や落合は、自分たちがずっと追ってきた寛治に他人とは思えないという親しみや思いやりを感じていることもわかる。大場や落合をはじめとする刑事たちの中で、それは「被害者である吉夫の無念を晴らしたい」「被害者家族の気持ちに寄り添いたい」という思いとまったく矛盾しない。
この「矛盾のしなささ」にリアリティがある。
大場や落合は骨の髄まで刑事なのだ。
「罪の轍」の一番の読みどころは、警察という組織の内部事情、記者や弁護士、社会活動家たちや暴力団との関係、そしてそういう中で時に白黒つけられないグレイな事情も加味しながら自分たちの最善を尽くす刑事たちの人物像にある。
組織の中でしがらみと格闘しながら、時にそれを利用しながら生きる落合、大場、岩村、仁井といった刑事たちはどこかにいそうで、それでいながら見たこともないくらい魅力的なキャラクターだ。
山谷で生きる町井兄弟や暴力団員の立木、反権力に執念を燃やす松井や近田などの「敵役」でさえ、彼らが吐く呼吸すら見えそうなほど圧倒的なリアルさがある。
「罪の轍」を読むと、警察と暴力団は同じもののコインの裏表ではないかと感じる。根っこが同じものが、権力として一般社会を守る側と侵食する側に分かれているだけだ。その成り立ちから縄張り意識の強さなどの価値観、考え方、距離の近さは驚くほどだし、薄々そうなのだろうと感じる通りだ。
警察という権力機構は純白ではなく、むしろ犯罪と一般社会の間に立つ灰色の障壁なのだと実感できる。
「警察庁長官狙撃事件」を見たときも感じたが、警察は組織も権力も巨大なだけに、内部が驚くくらい複雑だ。署同士の縄張り意識、課と課の対立、キャリアとノンキャリアの意識の違い、学歴の差や出世のスピードの差、それらのすべてが利害関係とそれを度外視した面子の問題などと共に絡み合っている。
それでいながら情報収集などは「個人事業主」に例えられるほど、個人主義で秘密主義という外の世界の人間にはよく理解できない、複雑怪奇さがある。
その世界で「チンピラを殴っても捕まらないから刑事になった」と嘘ぶきながら生きてきた大場は、登場人物たちの中でもひときわ輝いている。
「罪の轍」の面白さの半分は、大場の魅力だと言っていい。
骨の髄まで刑事でありながら、上役にも敬語を使わない図太さも、実力を示すまでは「大学出の頭でっかち」と落合を認めない頑なさも、刑事として宇野を的確に追い詰めながら、相手を対等の人間として扱うところも、すべてが矛盾しているようでまったく矛盾していない。
現場の刑事として何十年も生きてきた大場の存在感が、「報道被害」や「警察の内部の問題」「加害者の生い立ちと犯罪の関係性」などともすれば散漫になりそうな話に重みを与え、道しるべになっている。
クールで一匹狼で、だが意外と面倒見がいい仁井もいい。
「罪の轍」で唯一、欠点を上げるとすれば、余りに大場の存在感が鮮烈すぎて、主役である落合やタイトル的に中心であるべき宇野を食ってしまっているところだ。二人とも別に悪くはない描かれ方だと思うが、相対的につまらなく感じてしまう。
寛治の薄幸の少年時代と美しい礼文島の対比や、昭和三十年代の山谷で生きる人々の風景など目に浮かぶようなので、映画化かドラマ化を見たいなあと思う。「警察庁長官狙撃事件」もドラマ化できたのだから、大人の事情でできないということもないだろう。
大場は國村隼で見たいが、「警察庁長官狙撃事件」の原警部と被るんだよな。自分の中の勝手な妄想だと私生活は孤独な人物だと思うので、そういう背景が出せる人で見たいという気持ちが強い。
仁井は自分の中では、伊勢谷友介で再生されている。玉山鉄二もいいな。高良健吾もイメージに近いけれど、30代半ばから後半だと思うのでちょっと若い気がする。
宇野はイメージ的には福士蒼汰が近い。年齢がちょっといっているのと演技力がどうなのかな、という気持ちはある。
などと色々と妄想するのが楽しい。
映画か、もしくはスペシャルドラマで作ってくれないかな。