最初にこの本の概要について説明すると、「すべてのデジタル、ネットワークは害悪。使うのをやめよ」という反テクノロジーを主張する本ではない。
日常生活や仕事を行ううえで必要不可欠なもの、緊急時に使用しなければならないものを否定しているわけではない。
この基準に従えば、仕事で利用しているテクノロジーの大部分は『必須ではない』には当てはまらない。(略)
同様に(整理の)検討の対象からはずしたほうがいいテクノロジーは、それが家族の送迎などに重要な役割を果たしているものだ。
(「デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する」 カル・ニューポート/長場雄他訳 早川書房 ()内は引用者)
「それが本当に必要なものかどうか見極めて使用しよう」「自分がそれを使っているのか、それとも相手の利益のために使われてしまっているのか見極めて前者のみを使用していこう」というのが主な内容だ。
「漠然とした『便利』という言葉ですべてをまとめず、利用と依存の見極めをもう少し正確に考えて、デジタルネットワークとの付き合い方を見直してみよう」という本である。
くれぐれも『便利』と『必須』を混同しないこと。
(「デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する」 カル・ニューポート/長場雄他訳 早川書房)
ネットが出現し始めたころは、「情報はあればあるほど良い」「便利であればあるほど良い」という漠然とした神話があった。
ところが現代まで時代が進むと、
「個人が処理しきれる情報には限界があり、その取捨選択のしかたをアナログ時代よりももっと限定的なものに預けてしまっているのではないか」
「便利=労力を省いて有意義な時間を生み出すために使っているものに、いつの間にか注意や時間を侵食されているのではないか」
ということに、多くの人が気づき始めている。
SNS疲れという言葉が登場し、「SNSから離れたい」という文言もチラホラ目につくようになってきた。
便利。
多くの人とつながれる。
多くの情報が入る。
というのは「漠然といいことに聞こえる」けれど、今のネットワークの環境は「便利」と「便利から逸脱しての依存」との境界がものすごく曖昧に作られている。
もっと言うならば、その境目を「本当にこれは便利なのか、必要なことなのか、なければならないものなのか」ということを利用者に考えさせないように作られている。
「考えさせないようにする」ことで、滞在時間を長くし利益を生む「注意経済(アテンション・エコノミー)」とどう付き合っていくか、ということが本書の主眼になっている。
本書で書かれている「魂がハイジャックされる」という物言いは大げさに響くけれど、言わんとしていることの方向性としては恐らくそんなに間違っていない、というのが自分の実感だ。
有益かどうかは問題ではない。主体性が脅かされていることが問題なのだ。
(「デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する」 カル・ニューポート/長場雄他訳 早川書房)
「使っているようでいて、使われている。しかも『使われている』の割合が、大部分を占め始めているのでは?」という話だと思っている。
利用者に「便利で面白く、今や生活にはなくてならない使われるもの」と錯覚させることで、「注意経済」は利用者の時間を使っている。
そしてそのことに多くの人が危機感を抱きながらやめられないのは、本書で指摘されている通り、「その人たちの意思が弱いから」というような個人の特性の問題ではない。そもそもどうすれば「人がそのコンテンツに注意を向けなければ落ち着かないほど夢中になるか」ということを、考えて作られている。
私が知るかぎり、日常のなかのオンラインで過ごす部分に振り回されている人々の大半は、意志が弱いわけではないし、愚かなわけでもない。(略)
ところが、日常のいろいろな場面で顔を出すほかの誘惑は退けられるのに、スマートフォンやタブレットのスクリーンの奥から手招きしているアプリやウェブサイトにはなぜか抵抗できず、本来の役割をはるかに超えて生活のあちこちに入り込まれてしまう。
(「デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する」 カル・ニューポート/長場雄他訳 早川書房/太字は引用者)
コンテンツの「本来の役割」とは何なのか?
それは人それぞれ違うと思う。また同じ人の中でもコンテンツによって異なると思う。
それをひとつひとつ精査し、何をどのようにどれくらいの割合で使うか、それが本当に必要かを考えることで、「主体的に使う側」になる。恐らくそれが本当に人がデジタル分野に求める「便利で効率よく、自分の生活を豊かにする使い方」なのでは、ということが語られている。
自分がこの本に興味を持った理由はふたつある。
ひとつは恐らく今後は「情報の取得のしかた」ではなく、個々人の状況に応じた「情報の制限のしかた」のほうが問題になってくると感じている点だ。
「情報の制限のしかた」というとかなりネガティブに聞こえるが、自分の中では、
「個人が処理しきれる情報には限界があり、その取捨選択のしかたをアナログ時代よりももっと限定的なものに預けてしまっているのではないか」
この危機感がかなり強い。
ネットが出現して多くの情報が受け取れるようになっても、結局のところは受け取れきれないと、知らず知らず自分の都合のいい情報を偏って受け取るようになるのではないかという危機感がかなり強くある。
あくまで自分個人の考えだが、ネットは広大だからこそ、「自分」という軸が非常に強く働く場なので、情報の範囲は狭くとも「自分」という軸が働く余地がない、アットランダムな情報が飛び込んでくるアナログ情報に意識的に重点を置いたほうがいいのではと思っている。
リアル書店はこういうとき重要なのかもしれない、と最近書店に行かなくなって気づいた。
ネットとリアルを比べてどちらがいい、どちらがダメと白黒つけるのではなく、かといってどちらかのメリットに押し流されるのではなく、「欲しい本が分かっていたり、電子書籍で欲しければネットで購入」「漠然と面白い本はないかなと探したければ、書店まで歩いて(←重要)のぞいてみる」など、何事においても意識的に使い分けを考えていきたい。
このあたりは他にも問題点に気づいている人がたくさんいるし、全体的には今は過渡期なんだと割と楽観的に考えている。ただ自分個人の問題に限れば、もうそろそろ考えなければならないと思っていた。
もうひとつは単純に、スマホを触る時間が自分でも長すぎると感じていたことだ。
それこそこの本に書かれている通り、優先してやらなければならないことや仕事面の勉強までおろそかにするようになってきていた。
「空いた時間を気晴らししているだけ」「調べものをしているからむしろ有意義」と思っていたが、そこから芋づる式にネットを見てしまったりしている。
「一日何回スマホを触ったか」「トータルしたら、どれくらいネットサーフィンに費やしているか」を調べたら恐ろしいことになっているのではと思い、自分の生活を見直したいと思っていた。
この手の話で一番に思い浮かべやすいのはSNSだと思うけれど、自分の場合はゲームだ。
「課金はしていない」と思っていたけれど、そもそも課金要素がほとんどなく滞在させることが目的の典型的な「注意経済」狙いなので、まんまとハマっていた。
またレスポンスで注意を引くものになれてしまうと、「レスポンス中毒」になってしまうような怖さがある。
自分が受信したり発信したりする「情報そのもの」よりも、その情報に対する反応に目がいってしまうような逆転現象が起きて、「情報そのもの」を受け取ったり判断する力が鈍っているように感じることがある。
このあたりは人によっても条件や環境がまったく違うとは思う。
仕事などで必要不可欠な人もいるだろうし、節度を守って使いこなしている人もいると思う。本書に書いてあるようなことが分かっていて、自分で使い方を細かく管理しコントロールしている人もいるだろう。
ネットが基本的には「便利で生活を豊かにするもの」であることはそうだと思う。こうやってブログを書いたりするのは楽しいし、ネット通販なども頻繁に利用している。それらはメリットのほうが遥かに大きいと感じている。
ただそういう「基本」にすべてを包括して、使っているようで使われてしまっているような危うさを感じたとき、「それがどういうことなのか」「どういう風に考えればいいのか」というひとつの指標となる本だと思った。
とりあえずスマホゲームやめよう(低い目標)