うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

女の子の力を信じて応援する「荒ぶる季節の乙女どもよ。」が素晴らしかった。

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荒ぶる季節の乙女どもよ。DVD 第四巻

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アニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ。」がよかった。

 

「異性相手では物理的には受容的にならざるえない女性が、性的に主体的になり、自分自身の性衝動と向き合うとはどういうことなのか」

というのは、語るのが難しいテーマだと思う。

「女性の性的な部分」を女性が発信するととかく揶揄されがちだし、同性の中には男の欲求に従っていると嫌悪する人もいる(実際こういう感想を目にした)からだ。

そういう社会や大人の目を、そっくり主人公たちが内面化している様子も書き込まれていて、「性に興味を持つのは良くないこと(特に女性が)」という罪悪感があり、その罪悪感と性的なことへの興味のはざまで揺れ動くさまが共感できるように描かれている。

 

自分はこの年頃のとき真性の厨二で、異性同性含めて恋愛にはほとんど興味がなく、ゲームや漫画のことで頭がいっぱいだった。主人公たちが「性に振り回されている」と思う気持ちがよくわからなかった。

ただもっと大枠的に、「よくわからん世間(主に大人)からの抑圧と、自分の欲求がぶつかる苦しさ」や「その苦しさが圧倒的なエネルギーを持っていて、やり過ごすことができず、それに振り回される辛さ」や「正しいとか間違っているとか考える軸すらまだなく、爆発的なエネルギーに振り回されどこかに突っ走ってしまうさま」とか、「そういう間違ったりみっともないことをすることさえ新鮮だった」ころのこととかが的確に描かれている。

ただひたすら「あのころのエネルギーのすさまじさと美しさ」に圧倒され、みとれながら観ていた。

 

類似のテーマの「ちさ×ポン」と違って見ていて楽しく元気が出たのは、「性的な抑圧」から離れた部分で共感したり懐かしんだりするポイントがあったからかもしれない。

www.saiusaruzzz.com

 

「ちさ×ポン」と同じで、男キャラの扱いがけっこうひどい。

泉が告白をはっきり断らず和紗に責められるシーンは、なぜ自分の自然な欲求を人前でさらされて「ひどい」とか言われなきゃあかんのだろう、と見ていて思った。

新菜が電車の中で自分の身体をさわらせるシーンも、この年頃の「あかん暴走」を描いているので作品としてはいいし、あくまで「思春期の女子の揺れ動き」がテーマだから、「男女逆だったらどうか」などのピント外れな指摘をするつもりはない。

ただ男目線で見るとあんなことをしておいて、肉体的に反応するとそれを指摘して揶揄するのはひでえと思う。こういう出来事が前提になっている「精神的に惹かれるのは和紗だけど、性的に惹かれるのは新菜」発言を責められるのも酷だと思う。

「女性が男性の性欲を自分の性欲を基準にしてジャッジし、性欲それ自体(自分に向けられたものでもなく、誰かに強制するものでもないもの)を理解しがたい醜いもののように糾弾する」様もリアルだなあと思った。問い詰められたから正直に言ったのに「最低」呼ばわりされたら、自分だったら立ち直れないか、女性不信に陥りそうだ。

メインのテーマではないからか男キャラが無茶苦茶寛容で、主人公たちのこういう言動も受け入れ許してくれる。ミロ先生は大人だからある程度は、と思うが、泉は懐深すぎだろう。天城もどんだけ人がいいんだよ…。

 

「女性が主体的に自分の性と向き合う」というテーマを描くと、現状は「実在しなさそうなくらい都合のいい(多くのことをただ受容してくれる)男性像」を描くか、「女性を相対的に受動的な存在にしてしまう男の罪悪感をつつく」作りにならざるえないのかもしれない。

女性側の文脈で、「受容的な(ならざるえない)性の苦しさ」や「物理的には受容する側だからこそ、精神的に主体的になるとはどういうことか考えざる得ない、しかしその主体性は社会からは忌避されたり抑圧される辛さや怒り」を描くと、対置される男性としては責められているような気持ちになるのかもしれない。

「ちさ×ポン」はこのあたりに反発している感想をたまに見る。

そんなつもりはないのだろうが、「女性のことを理解しその困難を受け入れなければ、即悪」という風にも受け取れるので、一般的な男性(というより一般的な人間)にはハードル高すぎる。男がどうこうというより、同性も含めて社会の偏見や抑圧が一番原因として大きいと思う。

 

男女という属性の話で「男が変わらなければ女は幸せになれない。だから男が変わる『べき』だ」という文脈は、「結局は女性の幸せは男次第で、女性は主体的な存在にはなれない」という話につながっていく(旧来の社会の価値観のなぞっているように聞こえる)ので個人的には好きではない。

「男性という他者との関係」においても、それをどうするかそこで何を考えるか何を選ぶかは自分であり、だからどうなるかは自分(女性)次第、という話であって欲しい。

そういうことを語ると、槇村さとるの「イマジン」のように、若干説教臭くなってしまうのかもしれないが。

 

「荒ぶる季節の乙女どもよ。」は「男という他者の変化で自分の状態が変化するわけではなく、説教臭くもならず、女性が自分の性に自分自身で向き合うとはどういうことなのか、かなりいい線まで掘り下げていると思う。

魅力的な男から「選ばれて愛されることで」自己実現して幸せになる私、もいいんだけれど(そういう話で好きな話もたくさんあるけれど)、自分の性を自分で獲得して相手を「選んで愛する」私、という文脈も女の子たちに伝えて欲しい。そういう「主役となる」女の子を応援する創作がもっと増えるといいなと思う。

 

「荒ぶる季節の乙女どもよ。」に出てくる文芸部員たちは、みんなそれぞれ危うくて友達や気になる異性を傷つけてしまう「正しくなさ」を持っている。

でも悩んで間違って色々と失敗して、時に自分の必死な思いが誰かを傷つけても、その「間違っている」道筋自体が尊い。

感情や衝動に振り回されがちな女の子や、かつてそういう女の子だった、そして今もそういう女の子を身の内に持っている女性たちにそう言ってくれる、エールのような物語だった。

荒ぶる季節の乙女どもよ。 コミック 全8巻セット

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キャラではモモちゃんが一番好き。

「私が男だったらそうやって引き留めた?」

には、ハッとさせられた。

みんな自分の視点でしか世界が見えず、傷つけあっているんだな。