「進撃の巨人30巻」を読んだ。
かなり衝撃を受けていて、モヤモヤをそのまま語るのであまりまとまっていない。
モヤモヤしたまま語りたい。
この巻を読んで、なぜこの話にこんなに惹かれるのかがわかった気がした。
自分が「進撃の巨人」という話の根本から感じるものは、強烈な怒りだ。
この話は何にそんなに怒っているのか。初期のころから繰り返し語られているが、20巻で特攻をする前のエルヴィンのセリフが一番わかりやすい。
「それこそ唯一、この残酷な世界に抗う術なのだ。兵士よ怒れ! 兵士よ叫べ!」
この話は、世界に対してすさまじく怒り狂い続けている話なのだ。
この「世界に対する怒り」は、他のことを語るための「方法」ではと今まで思っていた。
しかし30巻を読んで、この話は「怒りそのもの」なのではと感じた。
(引用元:「進撃の巨人」30巻 諌山創 講談社)
自分にとっての「進撃の巨人」は、このエレンの表情だ。
「我々がただ何も知らずに世界の怒りを受け入れれば、死ぬのは我々エルディア人だけで済むのです」
「いつも他の人を思いやっている優しい子だからね。この世界は辛くて厳しいことばかりだから、みんなから愛される人になって助け合いながら生きていかなきゃならないんだよ」
これらの言葉に対する、このエレンの表情が「進撃の巨人」のすべてだ。
以前書いたが、自分はずっと「世界を『自分』というものをすりつぶし押しつぶす仮想敵に見立てていたマグマのように煮えたぎる怒り」を感じながら生きていた。
ここで書いた「世界」は、「社会」とは(少なくとも自分の中では)違う。
「我々がただ何も知らずに世界の怒りを受け入れれば、死ぬのは我々エルディア人だけで済むのです」
とジークやフリーダに思わせるもの、彼らをその結論に導き、その結論を「正しい」と思わせる何かのことだ。
ユミルを二千年間奴隷として、「いつも他人を思いやっている優しい愛される子」にし続けてきた「何か」だ。
「進撃の巨人」では、対立する人間たちが「対立する陣営や人に怒る」のではなく、最終的には「世界そのもの」に怒りを転換させる。というより元々ある「世界に対する怒り」をそのときそのときの状況で、「対立する陣営に仮託していたこと」に気づく過程の話のように見える。
エレンは最初は自分たちに理不尽に襲い掛かかり、人々を喰らう巨人に怒りと憎しみを向けていた。しかし巨人が正体不明の自分たちには理解しがたい存在ではなく、同じ人間だったと気づき、巨人の正体だったライナーたちに怒りを向けるようになる。
しかし単身でマーレに潜入し、マーレの地で生きている人たちの姿や、マーレでライナーたちが置かれている現状を知ると理解を示すようになる。
自分の中の漠然とした怒りや恐怖の対象、「訳がわからない」「自分とは違う気持ち悪いもの」「理不尽に自分たちを踏みにじる」と思っていたものが何なのか、エレンは知っていく。
自分が憎悪の対象としていた「巨人」は自分と同じ、何かから抑圧されている人間だった。そして自分もまた誰かにとっては「巨人」だった。
「ライナー、お前と同じだよ。もちろんムカつく奴もいるし、いい奴もいる。海の外も壁の中も同じなんだ」(25巻)
エルヴィンが新兵たちに特攻を強いたときに、特攻の対象であるジークや巨人に対してではなく「この残酷な世界」に対して怒れ、叫べと告げたように、対立している陣営同士の全員が「この残酷な世界にそれぞれ怒っている者たち」なのだ。
その怒りだけならば、「進撃の巨人」はどこかで見たことのあるまあまあ面白いだけの話だったと思う。(それでも十分すごいが)
自分がずっとそういう怒りを抱えて生きてきたように、世界を自分を抑圧する何かに見立てて怒りを覚えることは、よくある話だからだ。
「進撃の巨人」が他の創作と一線を画すのは、「抑圧され怒れる被害者である自分」と同時に、「その世界の一部であり誰かを抑圧し怒りの対象となる、加害者である自分」も描いているからだ。
「自分は世界から抑圧される被害者であると同時に、対立する者にとっては抑圧する世界という加害者になる」
一人の人間の中にそのふたつは、内包されていることを描いている。
「加害者であり悪である、誰かにとっては『残酷な世界』である自分」を「被害者である自分」に突きつけ続けている構図こそ、「進撃の巨人」が唯一無二の物語であると自分が感じる点だ。
「進撃の巨人」の登場人物で、一方的に「抑圧され傷つけられるだけの被害者」は存在しない。
ライナーたちは壁の外では利用されマーレから抑圧される被差別者であると同時に、壁内では住民たちを裏切り殺戮する加害者だった。
エレンは壁の中で巨人たちに襲われ殺される被害者であると同時に、グリシャを唆してフリーダたちを皆殺しにし、マーレを襲い子供まで殺した。
フリーダの幼い弟妹たちは、「早く殺してよ、姉さん!」「私たちの楽園が壊されちゃう」と叫ぶ。
ハンジやリヴァイは自分の「正しさ」のためにサネスを拷問した。
エルヴィンは新兵たちに死ねと命じた。
30巻のジークとコルトは、写し絵になっているのでわかりやすい。
弟であるエレンを大事に思い、救いたいと願うジークが、同じように弟を思うコルトの必死の頼みを断り、ファルコを「叫び」によって変身させる。
「弟を守りたい」というジークの思いが、「弟を守りたい」と願うコルトの思いを無残に踏みにじる。
無垢の巨人となったファルコのなんとも言えない醜悪さが、この構図の残酷さをそのまま表している。
サネスがハンジに「こういう役にはたぶん順番がある。役を降りても…誰かがすぐに代わりを演じ始める。どうりでこの世からなくならねぇわけだ」(14巻)と告げたように、誰かにとっては自分がハンジやサネスの役割を演じている。
一方的に可哀そうな被害者になるから世界は残酷なのではない。
自分が誰かにとっては、残酷で無慈悲な悪になる、自分という存在の中に「誰かにとっての悪」を既に内包している、この世界のありようが残酷なのだ。
ユミル(やジークやフリーダ)が、物分かりよくエルディア人を安楽死に導けば世界は平和だ。
彼らが「自由に」ふるまえば、世界は滅びる。
そのときに「優しく思いやりがあり愛される人間として」物分かりよく
「我々がただ何も知らずに世界の怒りを受け入れれば、死ぬのは我々エルディア人だけで済むのです」
と言って世界のために滅びるのか。
エレンのように世界中の人間から唾棄され蔑まれ憎悪されても、
「オレは進み続ける」「オレがこの世を終わらせてやる」
と叫ぶのか。
「他人から自由を奪われるくらいなら、オレはそいつから自由を奪う」
自分と他人の自由は相容れない。
「進撃の巨人」という物語の前提になっているこの発想は、本来は今の時代、受け入れがたい。
色々な歴史から教訓を得て、現状の理想は成り立っているからだ。しかしそれが理想にすぎないことを、多くの人がうすうす気付き始めている。
良かれと思って必死に築いた理想の内情が、結局は何ひとつ変わらない対立する陣営同士の潰しあいにすぎない、ならざるえない「残酷な世界の在り方に対する怒り」にこそ、「進撃の巨人」がこれほどまでにヒットした理由があるのでは、と自分は思っている。
エレンはどこまでも自由だ。
「父親が俺をこうしたわけじゃない。俺は生まれたときからこうだった」
誰かの影響も属性も環境や歴史からの影響もすべてを拒絶し、ただ「自分」として「自分の言葉」を発する。
だから二千年の「奴隷の傷みの歴史」を背負ったユミルにも、ユミルの民としてでもユミルの民に抑圧された者たちの代弁者としてでも父親グリシャの思想を受け継ぐ者でもなく、「お前は奴隷でも神でもない」と告げられる。
ただの自分として、「自分の歴史」であるユミルを呪縛から解き放って、「世界の怒りを受け止めることが正しい」という考えの奴隷ではなく「自由でいい」と言うことができる。
それは「ユミルの民」としての歴史を背負い、その歴史に縛られ抑圧され続けた、グリシャやジークやライナーたちへの言葉でもある。
「自分」としてのみ存在して、「世界にとって悪である自分」を背負い「世界の怒り」と戦うエレンがどんな結末を見せくれるのか。
「進撃の巨人」は、自分が結局は持ち続けることができなかった怒りと希望を同時に思い出させる。だから新しい巻を読むたびに、繰り返し励まされる。
「世界の残酷さ」を認めたうえで、新しい希望を見出せるのか。
「進撃の巨人」ならそれができるのでは、と勝手に期待してしまう。
続き。