*ネタバレしています。
内容は予想通りだったけれど、力点の置かれ方がぜんぜん違っていた。
「なぜ、外から見ると異様とも思える組織に、人が心酔してしまうのか」
「こういう組織の中で、人がどのように人格を荒廃させられ、他人からの支配を受け入れるようになってしまうのか」
「その手法を細かく見ていくと、『自分だけは大丈夫』とは思えない恐ろしさを感じる」
こういうものが読みたいのであれば、「事実は小説よりも奇なり」で、実際に起こった事件の関連の本を読んだほうがいいと思う。
心酔してしまう人の気持ちを追いたければ、林郁夫「オウムと私」、村上春樹「約束された場所で」Toshl「洗脳」が自分としては良かった。
「洗脳の手口とそれになぜ人があらがえないか」は、連合赤軍事件の総括の過程や北九州監禁事件の一連の流れが個人的には実感しやすい。
「なぜ、社会を捨ててこういった組織に走る人がいるのか」は、そもそも彼らがそういった組織に入る前から相手のことをわかっていたどころか見てすらいなかったのでは、突き詰めると自分自身のことさえ人はわかっていない、という逆転の発想で描かれた是枝裕和の「Distance」を超えるものは出てこないかもしれない、と改めて思った。
社会秩序や法律を守るうえでは、それが「正しいことである」(と自分も思っている)ということはおいておいて、こういった組織に入る人々が異常で、自分たちの社会が正常である(正しい)という考え自体に疑問を持たないとこの問題は永遠に答えが出ないのではと思っている。
こういった新興宗教にハマる人は「自分たちは違う」異常さ(弱さ、愚かさ何でもいい)を持っており、自分たち(社会的文脈)でも理解できる欲望や欲求を持つ教祖が彼らをただ利用している、という構図のこの話は「社会的なまともさ」から一歩も出ていない。
個人的には「社会(的な自分)の正常さを疑わない視点で、自分たちが理解できる枠組みに落としこんで」このテーマを語るのは、かなりズレていると感じた。
ただ「カリスマ」は、「なぜ人は社会から逸脱した異常に見える組織に魅せられ、とらわれてしまうことがあるのか」というテーマを語りたいわけではない、ということに最後まで読んで気づいた。
ある種の新興宗教のような閉鎖集団の恐ろしさはただのモチーフに過ぎず、求めても得られぬものをそれでも求めてしまう渇望について描かれている。
平八郎が「優しく美しかったころの母」を求めるのもそうだし、三蔵が佐代子に執着するのもそうだ。
個人的には佐代子及び麗子が、「渇望の対象」としての人格しか備えていない、トロフィーワイフ的なところが気になって仕方がなかった。
平八郎、城山は佐代子や麗子について言及するとき「優しくて美しい」ばかりを連呼するので、人格や彼女たちの考えなどの中身には興味がないのだとわかる。
類似の事件について書かれた本を読むと、そういう個人の中身を見ず必要ともしない他者(社会)の視点に、疑問なり耐えきれない気持ちを持つ人が、「人間らしさ」を求めてこういった組織に走ることが多い。「約束された場所で」でも、一般信徒にとってはそういった「性的な抑圧や評価」から解放された場所だった、という話が出てきていたと思う。
物語全体が実際起こった出来事のセンセーショナルな部分だけを取り上げて、そういう風にしか個人を見ない社会の視点をなぞっている、ように見えてかなり残念だった。
人格が無になった麗子を洗脳から解く解決方法が「城山が彼女のカリスマになること」というのも、ストーリーを描くためのものと割り切っているのだと思うが、その手法が現実の事件でも使われ問題になっているので、そこを割り切っていいのかなど色々と気になった。
「類似の事件をテーマにしているみたいだから、その視点で読むものだ」ということにとらわれず、ある種の理想を求め続ける男の物語として読めば面白い。
実際、平八郎の視点で読むとけっこう面白かった。
佐代子と麗子が宗教にのめりこむ過程やその後の変貌が同じことの繰り返しだし、城山の劣等感の感じ方や表し方が余りに類型的すぎて退屈なので、平八郎の話に絞ったほうが最後のどんでん返しの衝撃も増すので良かったのではと思う。
氷室が真実も知ったあと、なぜ平八郎に付き従い続けたのか、など掘り下げたら面白そうな部分もたくさんあったのに、テンプレの表面をなぞっただけで終わってしまったところが残念だった。
話もキャラクターも表面をただかじっただけの印象なので、原作はもう少し掘り下げているのかもしれない。
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