犯人が誰かはわかっていた。
犯人が殺害を決意していることを、町中のほとんどの人が知っていた。
どうやって殺そうとしていたかも知っていた。
なぜ犯人が相手を殺すのかも知っていた。
犯人自身が話していたからだ。
それにも関わらず、被害者は犯人によって惨殺された。
ある田舎町で実際に起きた事件を基にして、ガルシア=マルケスが殺人が起こる過程を克明に描いた小説。
150ページ足らずの短い話なので、読んだことがない人は実際に読んでもらったほうがよいと思う。
以下ネタバレあり。
ジャンルは「冷血」のようなノンフィクションノベルに分類される。ただ「冷血」とは明らかに書こうとしていることが違う。
「冷血」が犯人の内面も含め、「事件そのもの」を書こうとしているのに対して、この話は事件を手段として用いている「何か」を書こうとしている。
サンティアゴ・ナサールが、未婚であるアンヘラ・ビカリオと関係を持ったために、その恥に対する復讐としてアンヘラの兄二人に殺される。
このことは物語の最初からわかっている。
作者にはわかっている。読者にもわかっている。
恐ろしいのは、本の中の登場人物たちも全員わかっていた、ということだ。
犯人であるビカリオ兄弟が、「サンティアゴ・ナサールを殺す」とそこかしこで吹聴していた。
しかしビカリオ兄弟の言葉を聞かず「知らなかった」という人も、ある意味「知っていた」のではということが暗示されている。
物語内の人間としては彼らは本当に知らなかった。しかし彼らの現実の枠外の運命としては、当のサンティアゴ・ナサールすら殺人が起こることを知っていた。
誰もがそれを「何かによる動かしがたい運命だ」と知っている。だから「殺害を防ごうとした行動」「殺害するとは夢にも思わなかった行動」「殺人には何も関係がない行動」すら、
「サンティアゴ・ナサールがビカリオ兄弟に殺される」
という確定された未来のための行動になってしまう。
サンティアゴ・ナサールが普段は使わない表口から家に戻ろうとしたのは何故なのか、サンティアゴ・ナサールの母親であるプラシダ・リネロが、息子が家に戻ったと勘違いして扉に閂をかけてしまったのは何故なのか、ついさっきまで一緒にいたクリスト・ベドヤがサンティアゴ・ナサールを見つけられなかったのは何故なのか、なぜ誰も、台所の床に落ちていた殺害について克明に書かれた手紙を見つけられなかったのか。
ビカリオ兄弟は自分たちの犯罪を止めてもらおうと様々な人に訴えかけていたのに、なぜ誰も彼らを止められなかったのか。
アンヘラ・ビカリオの相手は、本当にサンティアゴ・ナサールだったのか。
バヤルド・サン・ロマンは、なぜアンヘラ・ビカリオと結婚しようと思ったのか。
誰かの悪気のない行動、殺人を阻もうとする行動すら、詰め将棋の一手一手のように、
「サンティアゴ・ナサールがビカリオ兄弟に殺される」
という結末を避けがたいものにしていく。
誰が何のために、サンティアゴ・ナサールを殺そうとしているのか。
誰が何のために、ビカリオ兄弟に殺人を犯させようとしているのか。
そこにあるのは個人の意思ではない。
よくあるような共同体の空気、同調圧力でもない。
町内にはサンティアゴ・ナサールを心配し、何とか殺人を防ごうとした人間も大勢いた。
しかし殺人を起こさせまいとした彼らの行動も、例えば殺人犯から息子を逃れさせようとしたプラシダ・リネロのように、むしろ殺人の一助になってしまう。
それは誰も彼もが「サンティアゴ・ナサールがビカリオ兄弟に殺される」という「事実」を知っていたからだ。事実なのだから、事実になるように動かなけばならない。
サンティアゴ・ナサールもそれを知っていた。
だから腸を腹からはみ出させながらも、叔母に向かって「おれは殺されたんだよ、ウェネ」と答え、「最初からの予定通り」台所まで歩き死んだのだ。
こういう風に書くと荒唐無稽な馬鹿げた話に聞こえるが、事実と予言の転倒は日常でもよくある。
最近の例だと、トイレットペーパーの買い占め騒動が思い浮かぶ。
誰かがその騒動を画策したわけではない。その結果で利益を得ようとした人間はいても、利益を得ようとしてあの騒動を起こした誰かがいたわけではない。
主体は不在なのに、事象だけが起こる。
それでも虚偽が事実になり、虚偽だとわかっていてもそれが事実になってしまったために、加担したくなくとも参加せざるえなくなってしまった人も含めて、「事実」に否応なく参加してしまう。
そして多くの人が参加すること、参加しなくともそれが事実であると認識することによって、「預言(デマ)は事実になる」
この事例はまだしも原因や経緯が単純だし見えやすいが(大変だけど)これがもっと複雑であれば、予言を成就するためだけに動くことになる。
事実が起こったから予言が当たったのではない。
予言を当てるために、事実が起こってしまう。
そういうことは往々にしてあり、その円環の内部に入ってしまうと個人の力は無に等しい。
ということがすごくよくわかる話だ。
この話が恐ろしいのは、自分がその円環の中にいたら、どれほど無力かということをまざまざと実感するからだ。
自分がサンティアゴ・ナサールだったら殺されるだろう。
ビブリオ兄弟だったら、どんなに周りに止めてくれと訴えても殺人者になるだろう。
アンヘラ・ビカリオだったら、「自分の相手はサンティアゴ・ナサールだ」と答えるだろう。
プラシダ・リネロだったら、結果的に息子を死に追いやるだろう。
そして床に置かれた、犯罪を詳細に予告している手紙は、誰にも見つけられないだろう。
自分が生きているこの世界も既に「予告されている」としたら?
そういう恐ろしさを含んだ話だった。
この話に近いと感じたのは、「八月の光」と是枝裕和の「DISTANCE」だ。
「DISTANCE」という物語が始まるためには、車とバイクがなくならなければならなかった。だから車とバイクはなくなったのだ。
逆の言い方をすれば、
「車とバイクがなくなったから、彼らはコテージに泊まらなければならなくなった」「車とバイクがなくなったから、『DISTANCE』が始まってしまった」
と言える。そして自分はこの「車とバイクがなくなったら、コテージに泊まるしかない」ということこそが、事件の実行犯たちが感じたことだったのでは、と思うのだ。(略)
よくわからない理由で「車とバイクがなくなる」というありえないことが起こったとき、人はもしかしたら誰でも「自分をコテージに泊まらせるために、このありえないことが起こったのではないか」と感じてしまう(「固有の物語」を見出してしまう)のではないだろうか。
「予告された殺人の記録」は、 「『DISTANCE』の中で、車とバイクをなくしたものは何なのか」を的確に言い当てた話だ、と思った。
「八月の光」は、円環の存在がわかりやすい。