ディケンズがミステリーを書いていた、しかも未完、知らなかった…、ということでさっそく読んでみた。
結論から言うと「ミステリー」という言葉から想像されるような、かっちりとしたミステリーではない。
あらすじと結末は、ディケンズの親友のジョン・フォースターがディケンズから聞いた話を伝記に記していて、ほぼ判明しているらしい。トリックもないので、あとは犯行がどう暴かれるかだけになっている。
いわゆる「ミステリー」というよりは、犯人の心理に話が帰結するノワール小説に近い。
この物語の独創性は、終末において殺人犯が自分の一生を回顧するに当って、殺人犯である自分ではなくて、誰か他人がその誘惑にかられたような口ぶりで語るところにある。
最後の数章は死刑囚の独房の中で語られる形式になる。まるで他人ごとのように犯人が丹念に物語る悪の結果として、彼がそこにいれられたのである。
(引用元:「エドウィン・ドルードの謎」 チャールズ・ディケンズ 小池滋訳 解説P425より 白水社)
第二章のエドウィンとジャスパーの会話を読み返すと、ジャスパーが自分の悪性やその悪意がエドウィンに向けられていることについて、警告を与えているように読める。
ジャスパーの中では延々と自分の中の「悪」(ジャスパーが言うところの野心というか、憧れというか、不安というか不満のようなもの)と戦い、葛藤が続いていたのかもしれない。
ジャスパーが心の奥底に封じ込めていた悪、二面性とその葛藤を中心に話を進めていたほうが面白そうだったなと思った。
せっかくなので、現在「謎」と言われていて諸説ある部分について考えてみた。
エドウィン・ドルードは生きているのか、死んでいるのか?
自分は生存説を推したい。
理由は登場人物の大勢が、「エドウィン・ドルードは死んでいる(殺されている)」と思っているから。
物語の表層上が「こうだ」となっているものがそのままそうだった、というのは面白くない。
「エドウィン・ドルードがどこに行ったのかが焦点になっている」のであれば、「実は死んでいた」というほうを推す。
同じ理由で「ジャスパーが犯人ではない可能性」も考えたかったが、話の流れやディケンズが生前残している言葉を読むとこの点はくつがえりようがないようだ。
ダチェリーは誰なのか?
エドウィン・ドルード生存説の流れから考えると、ダチェリーの正体はエドウィン・ドルード。
ただ訳者解説にあるように、エドウィン・ドルードだとすると変装する理由がない。
すぐにみんなの前に姿を現して、「ジャスパーに殺されかけた」と告発すれば済む話だ。
これは意識が朦朧としていたために、本人も「ジャスパーに殺されかけた」とイマイチ確信が持てなかった。そのため正体を隠して証拠を集めているのではと考えた。正体を表せば、ジャスパーによって再度狙われる可能性がある。
またジャスパーとドルードは元々は深い関係性だったことを考えると、ドルードもジャスパーが自分を殺そうとしたとは考えたくない、もしくはそこまでジャスパーを追い詰めたのは自分ではないかという葛藤もあったのではと考えられる。だとすると「ジャスパーの犯罪」に確信を持ってから告発したかったのでは、と思う。
難を言えば、エドウィン・ドルードはどう見てもそんな色々なことに気をまわしそうな人間には見えないところだ。
他の登場人物が変装している場合も、「そもそもなぜ正体を隠さなくてはならないのか?」というのがよくわからない。
ネヴィル説で「ネヴィルはとても変装して真相を探り出すような性格には見えない」と書かれていたが、どの登場人物もそういう人間には見えない。
物語的にも、探偵役はターターとグルージャスで十分では?と思う。
完結していれば「そういうことか」と納得がいったのかもしれないけれど、今のところはどの説もしっくりこない。というよりダチェリーの存在そのものがピンとこない。
ジャスパーはなぜエドウィン・ドルードを殺害したのか?
同じことはジャスパーのローザへの恋についてもいえる。(略)
だから、彼のエドウィン殺人の真の原因はもっと複雑なところにあったのではないかと思えて仕方がない。
(引用元:「エドウィン・ドルードの謎」 チャールズ・ディケンズ 小池滋訳 解説P474より 白水社)
訳者の解説でも言及されていたが、自分もジャスパーがエドウィンを殺害した動機がローザへの恋から(それだけが原因)というのはピンとこない。
ローザがジャスパーの生徒になったのはおよそ「三か月前」(P30)だ。
この本の登場人物はすぐに人を好きになるが、それでも三か月で仲の良かった自分の甥を殺すことを決意するほど、というのはちょっと考えられない。
それよりは訳者が推測しているように(同性愛の関係まではいかないにしても)、ジャスパーは元々、エドウィンにかなり屈折した爆発寸前の愛憎を抱いていて、それがローザと出会うことで決壊したと考えたほうが納得できる。
ローザの存在は原因ではなく、きっかけに過ぎないのではと思う。
第二章のジャスパーとエドウィンの会話を読むと、様々な思いを胸に押し込めて葛藤しているジャスパーと、そのジャスパーの思いに気づかない善良だがのんきで鈍感なエドウィンのあいだには元々大きな断絶があったように見える。
ジャスパーの葛藤を「自分への忠告」としてのみ、しかも軽く受け流している(ように見える)エドウィンの様子を見ると、こういうことがずっと積み重なってきてジャスパーは悪意を増幅させていったのだろう。
またジャスパーが潜在的にエドウィンに恋心を抱いていたとすると、甥であるから決して手に入らないエドウィンの代替として、ローザを手に入れようとしたと考えることもできる。
エドウィンとローザは、エドウィンは鈍感、ローザは敏感という点は除いても、ギリギリまで婚約をお互いに破棄することを言い出せなかったところや出会ったばかりのヘレナやターターをすぐに好きになってしまうところを見ても、「意思が余りはっきりしないフワフワした性格」という意味では似ている。
どちらにしろジャスパーのローザに対する執着は、物語の深層ではジャスパーのエドウィンに対する執着を表すもののように思える。
まとめ
「エドウィン・ドルードの謎」はミステリーとしての面白さよりも、ジャスパーが抑えきれない悪に蝕まれていく様子、そのことに気づかず周りの人々が悪気なくそれを増幅させてしまう様子の面白さが勝っている。
ジャスパーと同じように「性格に悪を内包している」と指摘されているネヴィルは、ジャスパーに濡れぎぬをきせられるところを見ても、ジャスパーの写し絵と考えることができる。
ネヴィルは賢明なクリスパークルによっていい方向に導かれたが、ジャスパーは善良だが鈍感なエドウィンによって悪を刺激されてしまい、明暗がわかれたと考えると面白い。ネヴィルが最後、ジャスパーとの対決で命を落とす予定だったというのも示唆的だ。
ジャスパーは「嵐が丘」のヒースクリフや「悪霊」のスタヴローギンのように、この時代の価値観からはみ出ててその価値観を破壊するような「悪」の人物だが、ヒースクリフやスタヴローギンほど徹底していない。周りの登場人物も他の二作品とは違い、「悪」に魅了されたり取り込まれたりしていない。
これは物語に自分の悪性のすべてをぶちこんで主観的に語りつくすことが上手いエミリ・ブロンテやドストエフスキーと、自分の作品に対して「お話」として距離をとるディケンズの違いなのかもしれない。
ディケンズはその距離の取り方が上手さによって様々な登場人物、様々な物語が書けるのだけれど、「エドウィン・ドルードの謎」ではその距離のとり方が物足りなく感じた。
最後のジャスパーの告白をディケンズがどう書くのか、読んでみたかった。
「月長石」に影響を受けて書いたらしい。