うさるの厨二病な読書日記

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【映画感想】「ヱヴァンゲリヲン新劇場版Q」を観た雑感+TV版、旧劇場版、「序・破」の個人的なまとめ。

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

  • 発売日: 2019/12/01
  • メディア: Prime Video
 

 

「序・破」の感想。

www.saiusaruzzz.com

 

「ヱヴァンゲリヲンQ」を見たので、とりあえず「シン」を見る前の雑感を書いてみた。

 

「エヴァンゲリオン」は(あくまで自分から見ると、以下全部そう)、「自分とは違う、訳が分からず恐ろしい他人とどういう風に一緒にいればいいのか」ということを延々と試行錯誤し続ける話だ。

「他人」は、ATフィールドをぶち破って侵略してくる使徒であり、触れ合えばセカンドインパクトが起こる。個人主義的な色彩が強い現代でも、ここまで「他人」に対して、強い恐怖心が前面に出ている話は余り見ない。

話の方向性は、その恐怖をどう乗り越えて他者とつながるか、というものなのに、恐怖心を乗りこえるほうになかなか話が進まない。

進んでいるか進んでいないかもよくわからない蝸牛の歩みのようで、しかもちょっとつつかれると殻の中に閉じこもり、しばらく進まなくなる。

 

それでもTV版のラストは、「他者の視点の集合体としての自分」が自分なのか、他者の視点によって規定されたのではない「自分」とは何なのか、という「他者に左右されない自分」を認識した。

旧劇場版では「傷つくくらいなら、自他の区別をなくしたい。それこそが人にとっての最適解ではないか」という問題提起に対して、「お互いに気持ち悪く傷つけあうだけだとしても、他人同士として生きていこう」と結論を出している。

TV版で「自分」を、旧劇場版で「他人」を認識して、やっと「自他を自分自身の視点で識別し、『訳が分からず気持ち悪い他人』と生きていこう」という結論が出た。

TV版のエヴァにはまったくピンとこなかった自分も、旧劇場版を観終わったあと「いい話だ。綺麗に終わったな」と思った。

 

「序」「破」はその旧劇場版を踏まえ、「他人と共に生きていく『大人』の話になった」と感慨深かった。

自分の「序・破」の感想をまとめると、

10年以上たって、ついにゲンドウは「大人」に、「親」になった。

これにつきる。

 

自分にとって「エヴァンゲリオン」はゲンドウが主人公で、ゲンドウの問題がシンジに投影されているに過ぎない、という風に見ている。

その問題を(ゲンドウの代わりにシンジが)解決したのがTV版→旧劇場版の流れだ。「もしゲンドウが元から大人であり親であったら、エヴァはどうなっていたか?」という、シンジがあくまで自分自身の問題としてのみ向き合う仮説が「新劇場版」だと思っていた。

 

ところが「Q」では、アスカがさんざんシンジを罵っていたように、ゲンドウもシンジも「ガキ」に戻っている。

TV版のスタート地点に戻ってしまっている。

「序」「破」からの流れを見ると、TV版、旧劇場版を逆再生で見せられているような気持ちだった。

「誰かのためじゃない。あなた自身の願いのために」

「自分自身の願い」としてレイを助けたら、サードインパクトが起きた。

ユイのためにゼーレの思惑にのったゲンドウとシンジのやったことは、「自分自身の願いのために世界にインパクトを与えて変貌させる」というまったく同じことだ。

自分の中でゲンドウとシンジがほぼ同一人物に見えるのは、そのためだ。

「Q」のシンジは、他人の思惑がなければ「自分」を維持できない、だから他人の思惑にすぐに乗ってしまう、そして何か不本意なことが起こると「僕のせいじゃない」と簡単に「自分」を手放す、という意味では、これまでのシリーズは何だったんだ、と思うくらい初めに戻っている。

 

だから「Q」(旧)なのか。また一からやり直すのか?

と驚いた。

唯一の違いと言えば、アスカがしきりにシンジを「ガキ」と罵ることで、「彼がガキであることはわかっています」と作内で明示されていることくらいだ。

 

作内でなぜかシンジばかりが責められ成長を求められることも、前から不思議だった。(特に「Q」は、14年のブランクがあるのだからそりゃあ「ガキ」のままだろうと思う)

「他人」は息子だろうが父親だろうが怖い。怖いから息子だろうが父親だろうが「他人」には心は開けない。(ATフィールド全開)

元々はゲンドウが抱えるこういった問題が、息子であるシンジに波及している。

シンジは子供だから子供のまま(あのまま)でいいと思うけれど、ゲンドウは親だからさすがに子供のままじゃまずいだろ、なのに何故シンジばかりが怒られ、成長をうながされるのか? とずっと引っかかっていた。

 

親子関係が問題として主人公に影響を与えている話はたくさんあるが、なぜ「エヴァ」だけが「親の影響は仕方ないとして、子供である主人公が自分の問題を乗り越える」ではダメなのか、というとシンジはゲンドウの代替物に過ぎないからだ。(作内のレイとユイの関係に似ている)

ゲンドウが解決しなければならない問題の痛みを、シンジに先送りにしている(しかも真に解決しなければならない問題を外している)のだ。

ゲンドウから波及している「他人が怖いガキのまま」「他人に心を開くくらいなら世界が壊れてもいい」問題を(解決する必要はないにせよ)問題として認識せずフォーカスせず、「シンジの問題」にすり替えて語り続ける限りはそれは問題の核心をぐるぐる回るだけになるのでは、と見ていて思う。

旧劇場版ではレイがゲンドウよりもシンジを選ぶことで、解決したと思ったけれど…。納得がいかなかったのだろうか。

 

「エヴァンゲリオン」は「自分(ゲンドウ)の問題を他人(シンジ)に押しつけ解決する体裁を整えることで、解決しようとはしていますと言っている話」というのが自分の考えだ。大元であるゲンドウの問題から目をそらすためにシンジを主人公として前面に立てているのでは、と思うくらいだ。

「逃げちゃダメだ」と言いながら、どこまでも逃げ続ける。むしろどこまでも逃げ続けたくなるほど怖いから、「逃げちゃダメだ」と連呼していた。

それを「自分」(ゲンドウ)ではなく、「他人」(シンジ)の問題として語ることが一番の問題なのでは、とつい思ってしまう。

その「自分の問題を他人を通してしか語れない」という仕組み、そういう形でしか語ることができないことから逆説的に伝わってくる痛みと恐怖の強さにこそ「エヴァンゲリオン」の面白さがあると思う。

ゲンドウが「逃げちゃダメだ」と言って話が始まったら、「普通の話」になってしまう。実際、「課題を持たない普通の父親であり『他人』として存在するゲンドウ」を設定して、シンジ本人の問題として話を作った「序・破」は、「普通の話」だった。

 

「Q」がゲンドウが「ガキ」である「旧」に戻ったのは、「シン」でついにTV版から長く続いてきたループに決着をつける結末を見せようとしているからでは、と期待してしまう。

何回でも同じ地点に戻ってトライしてきた、逃げ続けているように見えて、「逃げちゃダメだ」と踏ん張ってきたゲンドウの話の結末がついに見れるかもしれない、今からそれがどんなものになるかと楽しみだ。