うさるの厨二病な読書日記

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【小説感想】「ザリガニの鳴くところ」 主人公の相手役が一番ヤバい奴に見えて怖かった。

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「ザリガニの鳴くところ」を読んだ感想。

ザリガニの鳴くところ

ザリガニの鳴くところ

 

 

1960年~70年代、差別や偏見が横行するノースカロライナ州の湿地で、親に捨てられて、貧困の中でたった一人で湿地で生きる少女の姿を描く話。

作者は湿地の保全運動を行っている動物学者で、湿地の自然描写はすごくよかった。

動物や湿地帯の細かい描写は読みごたえがある。

この話が「湿地で一人で生きる話」かもしくは「湿地そのもの」が主人公の話であったら良かったと思う。

「荒野へ」みたいな話だと思った…。「勝手に期待してすみません」案件。

 

以下は自分ががっくりきたポイントについて。

 

「ザリガニの鳴くところ」で一番不満だったのは、「クズな男をクズだとわかっているのに、結局はクズな男に落ち着くオチ」だ。

「父親・テイト・チェイス」の三者を「カイアにとっての他者」という見方をすると、ずっと「他者に支配されており、その支配から逃れたいと望みながら、最終的には他者から支配されることを選んだ」という話になってしまう。

「他者との関わり」という(恐らくこの話で重要だと思われる)テーマで見ると、この「救いのなさ」に無自覚なところがすごく引っかかる。

 

自分が「父親・テイト・チェイス」の三者に共通していると思うのは支配欲だ。

「他人」(カイア)を自分の思う通りに動かしたい、自分の都合のいい存在でいて欲しい、自分の都合がいいように扱いたいという欲望が共通している。

カイアの父親を見ると支配欲を持つ人間の仕組みがわかりやすく、人物像がリアルだ。

「支配欲」はどこからくるのかは、「レイジング・ループ」の記事で考えたことがある。

この事象の原因は、「自分の価値が信じられないので、自分に相対する他人のことも信じられない」→「だから他人のすべてを把握し、コントロールできるようにしておきたい」→「支配することでようやく安心が得られる」という流れになっている。

(【ゲーム感想】トゥルーエンドのあとも「支配ー被支配」のループから抜け出せない「レイジングループ」にがっくりくる)

 

「自分の価値が信じられないので、他人が自分の存在そのものに価値を感じてくれると思えない。だから他人と共にいる関係が、支配することでしか成り立たない(支配しなければ、他人は自分を踏みつけるか逃げていく)と思っている」「他人を虐げてその価値を下げることで、相対的に自分の価値を上げることでしか自分の価値を感じられない」のでは、というのが今のところの考えだ。

加害者の立ち位置から見たDVや虐待の仕組みがわかりやすい。

またカイアは自分自身がチェイスから暴力を受けることによって、父から暴力を受けた母が感じていた気持ちがどういうものかに気づく。

「暴力がどれほど人に無力感を味合わせ、自尊心を奪うか」は、頭での理解と実際に自分が暴力を受ける側になって体感するのとではまったく違う、ということが描かれている。

この点が「ザリガニの鳴くところ」のいいところだった。

 

「ザリガニの鳴くところ」の不思議な点は、カイアの口を通して「テイトがチェイスと同じ。いや、見ようによってはもっと悪い」ということが語られているのに、何故か「同じかもっと悪いものに戻る」ところだ。

テイトはチェイスや父親とは違い、カイアに(物理的な)暴力は振るわなかったので一見マシに見える。

しかしそれは「一見」にすぎず、人生に関わる存在や人間関係という視点で考えると、父親やチェイスよりも性質が悪いのではと思う。

テイトの性質が悪い点は、カイアが最終的にテイトの下に戻ったように、やっていることは同じなのに「一見、良いように見える」ので「何が問題かがわかりにくい」ところだ。

 

チェイスは結婚を餌にカイアを騙したが、テイトも出版を餌にカイアに近づいているので発想としては似たようなものだ。

カイアを一方的に捨てて、謝罪を受け入れるように迫る、全面的に謝らなければならない立場で容姿を批評する(ドン引きした)、謝罪を受け入れてもらっていないのにカイアの家に入れてくれるよう頼む…どころか「入ろう」と指示する(訳の問題か?)、聞かれてもいないのにチェイスの所業をカイアに告げる(言うつもりはなかったけれど、勢い余ってついみたいなことを言っていたが。)など、その言動は「失礼」「無礼」という概念を遥かに通り越している。

「カイア個人の領域」を尊重する姿勢が一切ない。

テイトは「口では色々言うが、結局は自分に都合のいい理屈を見つけて、カイアに干渉したいという欲望を常に優先させる」ところが、読んでいてやばい奴にしか見えない。余りにひどいので何か裏設定か、もしくはそうせざるえない事情が明かされるのかと思ったが、何もなく単にこういう人間であることに驚いた。

 

作内でもカイアがこの点を指摘しているし、カイアの人間不信の一因としてテイトとの関わりがあげられている。

「カイアにとっていいこと」かもしれなくても、カイアの意思を尊重して「学校に行け」「もっと人と関われ」ということは言わず、カイアから求められたことだけを助け、自分たちの助けを受け入れるかどうかをカイアに選ばせるジャンピン・メイベル夫妻のような「その人を尊重するとはどういうことか」ということを体現している存在も出てくる。

だからテイトの問題が分かっていないわけではないと思う。

それにも関わらず、テイトがその点を省みたりカイアに対する姿勢を変えたりすることもなくカイアと結婚する、という展開がよくわからない。

カイアがテイトの「支配」を選んだことも、「結果的に」物語がいい方向に展開したので「幸せになったのだから、いいのでは」という結論になってしまう。

それは結果論で、問題は自分の自由意思を相手が尊重しないことにあり、その場合何か歯車が狂ったときは自分が逃げ出すか相手を殺さなければならない状況にまで追い詰められる、とチェイスとの関係や父親と母親の関係で語られたのに。

「父親・チェイス・テイト」を「自分を支配下に置こうとする者」とすると、結局はそれが「いい顔」さえしていれば受け入れてしまう。そこが問題なのではとつい思ってしまう。(父親はカイアが子供だったから仕方ないが)

 

弱い者は「支配を受け入れて、それが結果的にいい支配であることを願うしかない」「悪い支配に対抗しうるのはいい支配のみである」という結論に気が滅入る。

と思っていたら、最後に「チェイスを殺したのはカイア」ということが判明したので、テイトも「心の中で殺していた」というオチだろうと考え、いい話だったと思うことにした。

 

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