うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

アルガスについて考えたことで反省会。

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ここ最近、「ファイナルファンタジータクティクス」のアルガスについて考えたことから、色々と考えたのでまとめて反省会。

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これまでのあらすじ

ファイナルファンタジータクティクスは繰り返しプレイしたくらい好きだが、アルガスのことは「プレイヤーを煽って、ストーリーを盛り上げる装置だろ(興味なし)」と長年思っていた。

ネットで見かけた「アルガスは平民を見下しているのではなく憎んでいるのでは」という感想をきっかけに、ン十年ぶりにアルガスを「人として」考えてみた。

その結果、アルガスは「自尊心を踏みつけられた過去があるから、他人の自尊心を貶める、しかしそれでもまったく気が晴れない苦界(後述)を生きているのではないか」と気づいた。

アルガスは自分の中でン十年ぶりに「物語装置」から「嫌いなキャラクター」になった。(←いまここ)

 

反省点

自分にとって物語は、「作り手が作った絶対的なテキスト」ではなく読み手との相互作用によって読み手の内部に現出するものだ。(だから同じ物語でも、読み手によって感じることが違う)

物語(作り手にあらず)と読み手の一種のコミュニケーションが読解であり、そのコミュニケーションを通して読み手が自分を相対化でき、その相対化した自分ともコミュニケーションを取れることが、物語の最も素晴らしい点だと思っている。

「お話の都合だろ?」という姿勢は、物語に対して不信感を以って相対しているということだ。信頼関係が崩れていて、コミュニケーションを成り立たそう(読み手である自分に作用させよう)という意思がない。

 

最終的にそういう不信の目で眺めるしかない作品もあったけれど、「ファイナルファンタジータクティクス」のストーリーは、自分の中でそういうものではない。

それなのに自分のわからないものだけは都合よく「お話の都合」で片づけて、そのことを省みようとしなかった。

アルガスの話にずっとこだわっているのは、そのことに自分の中で忸怩たる思いがあるからだ。

 

ここから言い訳と反省文。

 

なぜアルガスを「物語装置」として処理してしまったか、というとすごく不自然なキャラに見えたから

自分がなぜアルガスに興味を持てなかったかというと、不自然なキャラに思えたからだ。

・あの時代の貴族ならそれほどおかしいとは思えない考えを、なぜわざわざ大声で主張するのか。

・ミルウーダやディリータ、平民に対してならまだしも、自分より身分が高いラムザに対しても突っかかっており、言っていることは階級主義者なのに行動はある意味公平なので訳がわからない。

・「世界のためになすべきことをしろ」とラムザに言いつつ、自分は平地に乱を起こすようにラムザやディリータを煽っている。(適当になだめすかせばいいのでは)

アルガスの行動は、何が目的でどんな考えからどんな動機でやっているのかまったく見当がつかなかったのだ。

だから「主張を叫ぶこと自体が目的なんだろう」→「キャラではなくプレイヤーに主張している」と思っていた。

 

自分の観測範囲ではアルガスは物語のキャラクターとして機能よりも、「アルガスの主張をプレイヤーがどう思うか」という視点で語られることが多い。

「アルガスの言うことの賛否是非」ではなく、「アルガスはどんな奴で何を考えていたのか?」という視点の話は余り見たことがない。

アルガスの言葉の矛盾への突っ込みは割りと見るけど、その矛盾にアルガスの本質があるのでは、という話には(自分も含めて)なかなか行き着かない。

例えばアルガスは「家畜」とミルウーダを罵りながら、ミルウーダをとらえた後は「敗者」と言っている。

どちらも侮辱なのでつい聞き流してしまうが、よく考えたら「敗者ということは、自分と勝ち負けを競う対等の存在として見ているのでは」と突っ込みたくなる。

 

こういう矛盾がところどころあからさまに描かれていながら、(戦闘→戦闘後の会話で矛盾しているということは、恐らく意識的にこういう設定にしているのだと思う)なぜ「その矛盾にこそ、アルガスの真意があるのでは」ということに考えが行かないのか。

①アルガスの主張が、現代に生きる多くのプレイヤーの価値観に引っかかりやすい(主張そのものに目が行きがちになる。)

②アルガス側の事情がほとんど語られない、共感措置がとられていないので、「アルガスという人間そのもの」には興味がわきにくい。

この二点が重なっているからでは、と思う。

 

仮にアルガスの内面がこのような矛盾を抱えていると考えて、それを加味してアルガスを眺めた場合、「『大奥』の千恵(家光)と同じでは」と思い至った。

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この方と同じ苦界に落ちてようやくわかるとは(略)

この方はきっと今まで幾度も幾度も打ちのめされてきたのや。

女としてのご自分を踏みにじられて来たのや。

 (引用元:「大奥」2巻 よしながふみ 白泉社)

 

 「大奥」を読んだことがない人のために説明すると、千恵は自分の母親を殺されて自分の父親(本当の家光)の代わりとして城に無理矢理連れてこられた。

女性としての尊厳を踏みにじられるような扱いを受けてきて、その腹いせに側近の男たちを女装させて辱め嘲笑っているのが上記のシーンだ。

 

「なぜこういうことをしてしまうのか」という事情が語られている(共感措置がとられている)家光でさえ、自分は最初このシーンを見たときドン引きした。

「自分が傷ついているからといって他人を傷つけていいわけではない」と思うし、有功もこれより前のシーンで「自分だけが傷ついていると思うな」と怒っている。

だが有功は、同じ経験をしたことがあるから「何という哀しい笑い声や」と気づく。

自分が貶められた、辱められた、という感覚があると、他人を辱め貶める人間がいるのは、

「貶める側に回るときだけ、自分が貶められたことを忘れられる」

という効能の他に

「自分が貶められた経験を瘡蓋を剥がすようになぞっている」

という広義の自傷行為的な意味合いがあるのでは、という風に考えている。

一時は忘れられても、自分の傷口が治るわけではなく新たな犠牲者を出すだけで、その新たな犠牲者がこの現象をまた引き起こす。

まさに「苦界」というにふさわしい。

 

アルガスを含め男キャラの場合は「なぜそんなことをするのか」という経緯の説明(共感措置)も省かれていることが多い。*1

訳もなく人を傷つけ貶める嫌な奴として描かれ「何という哀しい笑い声や…」と言ってくれる人も現れない。(観測範囲の問題かもしれないが)

「かあさん、たすけて」が最期の最期にならないと言えないところに、男ならではのしんどさがあるのかもなあとは思う。

 

尊厳を貶められても「千恵現象」に走らない「グノーシア」のレムナンのようなキャラもいるので同情する気にはなれないが、好き嫌いはともかくアルガスはアルガスなりの背景や事情や業を背負った血の通ったキャラだった。

なぜ自分が面白いと思った作品を信じてもう少し考えなかったんだろう、というのが今回の反省点だ。

そのことにン十年も経ったいま気づかせてくれた「自分とは違う他の人の物の見方」は大切だ、ということも教えてくれた。

 

アルガスを血の通った人間として嫌いになれて良かった、としみじみと思っている。

心置きなく成仏?してくれ。

大奥 3 (ジェッツコミックス)

大奥 3 (ジェッツコミックス)

 

 

 

なぜ男キャラはこういう「共感措置」が省かれやすいのか、というと以前この記事で書いた「無力感や無能感に対する耐性の低さ、『無力であることは悪である』という考えは男性特有のもののような気がする」というとことにつながるのではないか、と思っている。(主語デカい系の話なので、嫌いな人はスルー推奨)

 

追記:…と思ったけど、よく考えたら「ダイの大冒険」みたいにそのパターンが繰り返し出てくる話がある。

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*1:追記:よく考えたらそんなことはなかった。