アルガスを含め男キャラの場合は「なぜそんなことをするのか」という経緯の説明(共感措置)も省かれていることが多い。
訳もなく人を傷つけ貶める嫌な奴として描かれ「何という哀しい笑い声や…」と言ってくれる人も現れない。
前回の記事でこんな風に書いてしまったが、よく考えたら「ダイの大冒険」のようにそのパターンが山ほど出てくる話があった…。
ストーリーの中で読者に対して感情移入措置や共感措置がとられている…読み手が「ある程度、その気持ちはわかる」と思うように描かれている悪役を、「かわいそうな悪役」と呼んでいる。
いくつか枝分かれした類型があるので、自分の頭の中を整理するために分類したい、と思い、その基本パターンである「ダイの大冒険」のバランの話を書き始めたら止まらなくなった。
自分はバランというキャラクターが好きではないのだが(穏当な表現)、この記事でどこが好きではないのかを説明したい。
バランが好きな人は読まないほうがいいと思う。
「人間にひどい目に遭ったから、人間を滅ぼそうとする」という、主語をデカくして八つ当たりをするがそれが八つ当たりだと思い至っておらず、自分のやっていることにある程度正当性を見出している。
これが自分の中で、「かわいそうな悪役」の基本形だ。
この型は見るだけでうんざりしてしまうが、このタイプの代表格が「ダイの大冒険」のバランだ。*1
王と大臣に恨みがあるからと言って、王国全体を滅ぼす八つ当たりの盛大さ。
「人間がこうだとわかっていたら、守ってやりなどしなかった」という恩着せがましさ。
息子を自分の八つ当たりに無理やり巻き込もうとするところ。
そのくせ風向きが変わったら、息子の前に現れる調子の良さ。
最後までアルキード王国の人々に謝らない。
詰めよられると「親とはこうだ」「大人とはこうだ」と訳の分からない言い分で逃げる。
結局は自分の家族ベースでしか物を考えていない……のは別にいいのだが、そういう端迷惑な奴だという視点が物語に入っていないので、すごくアンバランスに感じる。
とバランに対する疑問は枚挙の暇がない。
「物語内と読者の評価や価値観の乖離」がはなはだしいと、読み手は「物語自体がおかしい」という結論を出してしまい、作品批判や主人公のアンチ化が起こってしまう。
「ダイの大冒険」は子供のころ夢中になり今でも大好きな漫画だが、バランの扱いは当時から疑問に思っていた。
こんな奴に強大な力を与える神に支配されるこの世界の住民が気の毒だ、と子供心に思っていた。(自分だったらたまったものではない)
ストーリー内の流れが、終始一貫してバランに対して同情的なところも納得いかなかった。アルキード王国への贖罪、どころか謝罪、どころか言及すらない中での、バランの死ぬまでの流れは、ストーリー上感動的なだけにモヤモヤする。
一見同じ設定に見えるヒュンケルやラーハルト、クロコダイン、ヒムとは何が違うのか?
ヒュンケルは特にバランと真逆なのでわかりやすい。
ヒュンケルはレオナに裁きを求めることで悔恨と謝罪の意思を公の場で表明し、「贖罪に人生を捧げろ」という判決が下されている。
少年漫画的な描写としてはこれで十分だと思うが、さらに言うとヒュンケルはそのあともずっと自分を許していない。
ヒュンケルは、自分から見ると「ずっと土下座している」。
バランは被害者意識につながる無力感(ソアラを救えなかった)に支配されており、ヒュンケルは加害者意識からくる罪悪感(自分は害悪である)に支配されている。
背景ややっていることは同じだが、心象は真逆だ。
ヒュンケル本人にとっては問題は多そうだが、外から見ると、加害行為を悔い改めたことを表明し、レオナが許したあとも自分を許せず責め続けるヒュンケルのふるまいのほうがまともに感じる。
ラーハルトやクロコダイン、ヒムは、自分の言動の動機を「自分の生き方の問題だ」としている。バランのように「相手が悪だから滅ぼす」(相手に原因がある)という発想ではない。
クロコダインが「魔王軍にいたときはハドラーに心の底から忠誠をつくし、その対象がダイに代わっただけだ」と言ったように、自分の価値基準の方向性は一貫している。「自分が認めた相手に忠誠を尽くす」これだけだ。
バランのように「可愛い息子でも、自分に逆らえば殺そうとする」というその場の自分の感情が優先で、支離滅裂だろうと自分の思い通りにならなければ気が済まないという姿勢とは違う。
自分自身で大切だと決めたものであっても、自分に従わなければ態度が変わるところもバランを好きになれないところだ。
こういったバランと類似した背景を持ちながらその後の言動が違うキャラが多いからこそ、他のキャラとの違い、扱いの差がバランへの疑問を余計に際立たせる。
ただ「子供の前で威厳を失わないことが最優先事項で、問題点を指摘すると怒り出したりキレだしたりする。自分でも内心ちょっとおかしなことを言っているなと思っている、というより思っているからこそそういう反応をしてしまう」と考えると、リアリティのあるキャラだったのかもしれない。
バランはストーリー内では良くも悪くも「父親」という軸で動いており(息子であるダイに痛いところを突かれたときのブチ切れ方といい)「子供にとっての親の面倒くささを表現していた」と考えると、周りの忖度した対応(「お父さんは、しょうがないわねえ」的な)も含めて納得できる。
バランは「価値基準も行動指針も、過ちも理不尽さも生きざまも愛情もすべてが父親」で、「父親という仮面」が皮膚に同化しているようなキャラだった。
どんな矛盾も理不尽さも横暴も「それが親だから」「だって父親だから」で済んでしまう。
「間違っていようが、親の言うことは口答えせずにきけ」「お前も親になれば俺の気持ちがわかる」という理不尽なことを、尤もらしいことのように喋っている存在に対するモヤモヤを掻き立てる、という意味ではこれほどのキャラはいないかもしれない。
自分はそういう家族(共同体)の役割に自己を密着させて生き、そこに特に疑問を持っていない人に余り理解や共感を感じないので、そういうところも苦手だったなあと懐かしく思い出した。
父性の影響が強く、父と息子の関係性がフォーカスされている話というと、自分の中では「進撃の巨人」が思い浮かぶ。
グリシャはバランとは違い「息子の前でも、父親であることよりも『自分』であることを優先していた、間違いだらけのカッコ悪い父親」だった。
(引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)
「何だかんだ立派な」バランよりは、間違ってばかりで、息子にまで反乱を起こされた自分のダメさを認められるグリシャのほうが自分は好きだな。
余談
バランもグリシャも「自分の子供を自分の脳内設定に固定して扱ってしまう」という過ちを犯したけれど、そこを指摘されて認められたところを見ても、このふたりは何だかんだ言って子供に愛情がある。
少なくとも子供を自己愛ストーリーの生贄にする親よりは何百倍もマシだ、とは思う。
いま読んでいる「なしくずしの死」の父親がこのタイプで、子供に加害者の役割を押しつけて自分が被害者ポジションに収まる過程が克明に書かれていて、読んでいて憂鬱になる。
*1:八つ当たりだと百も承知で八つ当たりしているタイプはわりと好き。完全に好みの問題だが、「自分をかわいそうと思っている人」が余り好きではないのだと思う