反ユダヤ主義の差別的言動から国家反逆罪に問われたルイ‐フェルディナン・セリーヌの「なしくずしの死」。
差別的な文句は一か所以外は気づかなったが、そういう背景が気になる人は読まないことを推奨。
この本に出てくるのは、貧しく弱く何をやってもうまくいかない人たちばかりだ。
何をやってもうまくいかないから貧しく弱いのか、貧しく弱いから何をやってもうまくいかないのか。
彼らは、貧しくとも心は美しく愛に満ちあふれている、わけではない。
自分の悲惨な境遇を自分よりも弱い人間に当たり散らし、思いつくことは馬鹿げたことばかりで、うんざりするほど考えなしで、お互い同士で憎みあい馬鹿にしあい貶めあう。
自分よりも弱い人間を貶め虐めているときだけは、自分の悲惨さを忘れられるという卑しさを持っている。
その卑しさ、間抜けさ、浅はかさ、どうしようもなさがこれでもかというほど克明に描かれている。
物語の前半は、主人公フェルディナンが両親の下で育つ幼少期から青年期が描かれている。
父親は職場で冷遇されていて、それでも生活のために働かざるえず、いつ解雇されるかとビクビクしている。
そういう自分の人生の不遇さの鬱憤を、家族にぶつける。
親が愛情を持って最善のことをしたにも関わらず、迷惑ばかりをかける社会でやっていけないどうしようもない息子、というストーリーを信じ込み、そこに慰めを見出だして生きている。
息子を自分に課せられた十字架、と思い、だから自分は不遇なのだ、自分は何も悪くないと信じ込むことで、かろうじて呼吸している。
息子を自分の人生の生贄にしてそれを恥じず、そのことから目を背け続ける父親はクソだ。
だがこの父親に反逆し、絶縁した後半に、父親の代わりの擬似父親として出てくるクルシアルの運命が、この話の救いのなさをさらに深める。
クルシアルはいい加減な山師的な人物であり、父親に負けず劣らずやることなすことうまくいかない。適当な言動で人に迷惑をかけまくるどうしようもない人間であるが、この物語で唯一、フェルディナンに干渉しようとせず、そのままの人間として受け入れてくれた人物である。(エドワール叔父さんはまともで親切ではあるけれども、素のままのフェルディナンを受け入れているようには見えない。)
ところが物語で唯一フェルディナンという人間そのものを愛してくれたクルシアルの末路がひどい。
悲惨である以上に滑稽なのだ。
「心底同情したくなり、人生について考えたくなる」そういう真摯さがかけらもない。
この話は全体を通して悲惨が極まると滑稽に見えてしまう、ということが書かれており、クルシアルはその悲惨の極限の滑稽さが凝縮したような人物だ。
気球の興行イベントが時代の波に押されて駄目になったクルシアルは、電波によって農作物を育成するという事業を思い立つ。家財を売り払って、極貧生活に耐え、起死回生で農業に晩年をかける。
この発明は、いい加減でつまづきだらけのクルシアルの人生の集大成だ。
クルシアルの妻のイグレーヌも、必死で農作業に従事する。
そうしてやっとの思いでできたジャガイモの描写が、ひどい。
彼女はぼくを起こした。ぼくにいもを見せたくて。いや! そいつはどうもあんまり立派じゃなかった。電波ん中で育ったやつは、根にくっついた粒状突起、見るも厭わしい。(略)しなびて、固くなって、汚らしく朽ちて、しかも蛆がいっぱいたかって!それがクルシアルのいもだった!(略)彼女は絶対に確信していた。マダム・デ・ベレールは、この栽培は失敗だと。「これをよ、フェルディナン、これをあいつは中央市場へ売りに行こうって言うの? え? これを! 一体、誰が買うの? ふざけるんじゃないわよ! ああ! あの老いぼれ! ちっとは考えてみるがいいんだ! こんな汚物みたいなものをあいつから買おうなんてウスノロをどこで見つけようっていうんだろう?」(略)まったく、見るも忌まわしいいもどもだった!これがさんざん手塩をかけたいもだとは! 細心の注意を払って種を選んだいも! 夜となく昼となく心ゆくまで面倒を見たいもだとは!黴が生えて、虫が、無数の足が生えた害虫がウヨウヨたかって。しかも何て匂いだ! ヘドが出るような! この寒さだというのに。こいつはなんたって普通じゃなかった。異常な現象だった!顔が歪むほど臭かった。いもが匂うなんて、こりゃ滅多にあるこっちゃない。前代未聞の災厄。
(引用元:「なしくずしの死」(下) ルイ・フェルディナン・セリーヌ/高坂和彦訳 河出書房新書 P354-P355/太字は引用者)
クルシアルの妻は激高して、氷点下の中を虫がたかるいもを除去しようとする。しかし虫は既に畑全体を汚染している。
クルシアル一家は怪しげな電波で土壌を汚染したと思われ、村人から避けられるようになる。
言及するのは野暮だとは思うが、このいもこそクルシアルの人生そのものだ。
どれだけ手塩をかけ、細心の注意を払い真剣に挑んだとしても、結果は見るもおぞましいものが生まれるだけだった。
このいもの描写の醜悪さ、執拗さ、こめられた悪意のすさまじさに心が震える。
それと同時に、いもの詳細な描写、クルシアルの妻の叫びもどこか滑稽だと思ってしまう心の動きをとめられない。
寝ているフェルディナンを叩き起こして、臭くて蛆だらけのいもを突き付けて、夜中に外に飛び出て虫だらけのいもを掘り続ける。
こんなに真剣に苦しみながら、なぜ人から見るとおかしなことばかりしてしまうのだろう。
「なしくずしの死」はこういう悲惨さが極まった滑稽さの連続だ。
上巻ではどうしようもない現実を忘れようと、フェルディナン一家がイギリスに行く。
貧しいひとが集まった三等客室は、荒れた天気のせいでゲロまみれになる。人々がお互いにゲロをぶちまけ合う描写が、数ページに渡って描かれている。
こういった汚い描写に加え、性描写も多い。下心をくすぐるようなエロさとは無縁で、とにかく汚なく醜く読んでいてうんざりしてしまう。
汚物溜めの底をすくって、手当たり次第にぶちまけまくるような話だ。
訳文ではわかりにくいが、『「なしくずしの死」は「この卑猥な叙事詩はフランス語ではない、俗語で書かれている」と言われるほど革命的なものだった』(あとがきより)と評されているように、文体破壊を特徴としている(らしい。)
なぜこういった言語を「発明」したのかと問われて、セリーヌはこう答えた。
なぜ自分でもそれを作り出すのかと言うと、それは、この言葉がすぐに死ぬからだ、と言うことは、この言葉が生きたからだ。私が使っている限り、この言葉は生きているからだ。言葉も、万物の例を漏れずいつかは死ぬ。(略)私の言葉や文体もたぶん遠からず死ぬだろう。だがその時、私のはほかの凡百の言葉より幾分の利点を持つことになるだろう。それはこの言葉が一年でも、一月でも、一日でも「生きた」ということだ。
(引用元:「なしくずしの死」(下) ルイ・フェルディナン・セリーヌ/高坂和彦訳 河出書房新書 P484/太字は引用者)
人生を賭けて必死にあがいたのに、虫だらけでゲロのような臭いがしたジャガイモになってしまうクルシアルの人生が確かに存在したということを、その人生を語った言葉が消えることで逆説的に証明しているのかもしれない。
苦しみにあえぎ傷つけあう持たざる人たちが叫ぶ、「世界に対する巨大な否」は、この悪意と卑猥さで臭いたつような醜悪さに満ちた言葉でしか生きることができない。そしてその言葉が消滅することでしかそういった人たちがいたことを証明できない、セリーヌはそう考えたのかもしれない。
「なしくずしの死」に出てくる人物たちは余りに欠点だらけで醜く汚く惨めで、良いところを見つけるほうが難しい。
それでも誰一人として嫌いになれないのは、冷たく悪意に満ち溢れた語り口に見えて、たぶん誰よりも作者がそういう人たちの側にいて共感していたからだろう。