「私がこうやって生きているのは妹のおかげなの」
トトさんは会うたびにそう言った。
「さっき食べたお昼も、妹が作ってくれたのよ。私と違って何でもできるし、動いていないと気が済まない子なの、昔から」
トトさんは、僕が勤める事務所の顧客だ。
正確には顧客である鈴木さんの奥さんだ。
鈴木さんは、大きな家と土地をたくさん持つ資産家だが、一度事業に失敗してからは生活が荒れている。
一日の大部分酔っ払っている。飲んでいないときも、何を話しているのかよくわからない。
若いころヤクザの事務所に監禁されたが、大立回りの末ヤクザの親分に気に入られ、酒を酌み交わしたというのが一番の自慢だ。
監禁された理由や酒を酌み交わした親分の名前や風体が、聞くたびに変わる。
鈴木さんは半月に一回くらい、よくわからない理由で事務所に電話をかけてきて僕を呼び出す。
約束の日時に家に行っても三回に二回はいない。
トトさんが申し訳なさそうに謝り、相手をしてくれる。
妹が買ってきたコーヒーとお茶菓子を出してくれる。
トトさんの話は鈴木さんの話で始まり、そのうち妹の話になる。
「妹は何でもできるし、優しくて天使のようなの」
とトトさんは自慢する。
そうこうするうちに鈴木さんが帰ってくる。
「俺の悪口を言っていただろう」と、必ず絡まれる。
「言ってないわよ」
トトさんが答える。
「妹の話をしていたの」
鈴木さんはブツブツ文句を言いながらどこかへ行ってしまう。
トトさんは帰りに必ずお土産をくれる。
「妹が作ったの。事務所の皆さんで食べてね」
僕がお礼を伝えてくれるよう頼むと、トトさんは言う。
「気にしないで。妹はね、人に何かしてあげて喜んでもらうのがすごく好きだから」
トトさんが死んだとき、鈴木さんの言っていることはいつも以上に訳がわからなかった。
話を総合すると
「あいつには迷惑をかけた」
「天使のような女だった」
「俺にとっては女神だった」
ということを、表現を変えて繰り返していた。
トトさんと出会った場所や結婚の経緯は、十五分ごとにコロコロ変わった。
例の酒を酌み交わしたヤクザの親分が、恋敵になった五分後に仲人として再登場したりした。
やっと口を挟む隙間ができたので、僕は言った。
「トトさんの妹さんも、さぞお力落としでしょう」
鈴木さんは火がついたように話しだした。
あんなのらくらした穀潰し、トトが人がいいことにつけこんでぶら下がってやがるんだ、俺は何度も言ったんだ、身内だからって甘やかすことはねえって、そんなに何でもかんでも面倒を見てやる必要はねえんだ、あいつはトトが病気になったときだって心配なんかしていなかった、姉さんが死んだあとの私の生活はどうなるの、私はどうしたらいいの、お金だってそんなにないんだから一人でやっていくなんて無理ってそればかりで、うちに居座るつもりでいやがるけどおれはトトとは違う、断固としてあいつにいうことをいってやるつもりだ、あいつがうちいるけんりなんてないし養ってやる義務なんてないけれどトトがどうしてもっていうからおいてやっているのにおれにたいしてのたいどがなっていない居候のくせにちゃわんのひとつも満足にあらわなねえでどこかのじょおうさまにでもなったつもりかよいけすかねえ
トトさんの妹の名前は、トコになったりテトになったりタコになったりした。
タコは名前ではなく悪口だったのかもしれない。
何を話しているのかわからなくなったので、僕は適当なことを呟いて電話を切った。
鈴木さんが消えたと聞いたのは、その半年後のことだった。
鈴木さんの家や土地は売り払われ、鈴木さんとトトさんとトトの妹が住んでいたは取り壊された。
ただっ広い空き地の真ん中に、「売地」と大きな赤い文字で書かれた看板がぽつんと立てられていた。
「奥さんが亡くなって一か月後くらいかな、鈴木さんから電話があってね」
鈴木さんの話になったとき、所長が不意に打ち明けるようにそう言った。
「ぜんぶ売ることにしたって言うんだよ。何もかもぜんぶ」
所長は少し黙ってから、続けた。
「トトの妹にそう言われたって」
鈴木さんは例の支離滅裂な話し方で、「トトの妹にもできる限りのことをしてやりたい」と三十分ばかりまくしたてたらしい。
「トトの妹は天使だ、って言っていたよ」
所長はそのときのことを思い出したらしく、ちょっと笑った。
「それにしても鈴木さんはどこに行ったのかねえ」
たいして期待していない、お菓子のおまけでも開けるような口調で付け加える。
「元気にしているといいけれど」
「売地」の看板の前を通るたびに、僕は鈴木さんとトトさんとトトの妹のことを思い出す。
そうして鈴木さんがどこかでまた酔っぱらって、名前がコロコロ変わるヤクザの事務所に監禁された話をしているのか、トトさんの妹はなんという名前でどこに行ったのかとかあれこれ考えて、そのたびに笑うのだ。