うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【小説感想】ミステリー×民族学×幻想×ハイデガー 奥泉光「葦と百合」

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*ネタバレ注意。

葦と百合 (集英社文庫)

葦と百合 (集英社文庫)

  • 作者:奥泉光
  • 発売日: 2014/11/07
  • メディア: Kindle版
 

 

(あらすじ)

学生時代、自然と共生するコミューン「葦の会」に入って音信が途絶えた恋人と友人のことを思い出し、式根はその跡地を訪れる。

しかし「葦の会」は遥か昔に消滅し、恋人と友人は二人だけで森へ消えたと聞く。

「葦の会」に関わりがあった地元の人間・直也と草壁、直也の親戚の少女・有紀子の力を借りて、式根は自分と別れたあとの恋人と友人がどういう風に生きていたかを調べる。

二人が最後に生活した小屋に泊まった夜、草壁が崖から転落して死亡する。

草壁の死は事故なのか? それとも森に存在する何者かの仕業なのか?

 

(感想)

少し複雑な作りの話だけれど、ハイデガーが言うところの「客観的認識」と「実存論的認識」の違いを視点に取り入れると比較的わかりやすい、と思った。

話中話という入れ子構造を取ることが、それぞれの登場人物が個々の「実存論的時間概念」の中で成立する存在であることを表していて、その人物たちが共存在として関与し合うことで物語という「宿命」を作っている、と考えると自分の中ではしっくりくる。

作内でも「右手にカント、ハイデッカー」(P217)と出てくるのも、そういう考えが入っているという印のようなものと捉えることもできる。

ハイデガー入門 (講談社学術文庫)

ハイデガー入門 (講談社学術文庫)

  • 作者:竹田 青嗣
  • 発売日: 2017/04/11
  • メディア: 文庫
 

 

ハイデガーの考え方を使うと「葦と百合」がわかりやすいのではなく、「葦と百合」を読んだことで「ハイデガーが言っていることは、もしかしたらこういうことなのか?」と思えた、というほうが正しい。

 

「ハイデガー入門」はたぶん、これ以上できないくらいハイデガーの考えを易しくわかりやすく説明してくれていると思うけれど、それでも何回か読まないと中身をうまく咀嚼できなかった。

ハイデガーの考えの難しさは、例えば「現存在」のような、ハイデガーが考える「人の在り方を規定するための条件や機能を全て含めた概念」を表す造語(?)が当たり前の前提として出てくるからだと思う。

それを「(正確にはそうではないが)今の段階では、『現存在=人間』という意味で読んで」と言ってもらえると、とりあえず何とか理解できる。その前提がなく

現存在は、おのれが存在しているかぎり、存在者を道具存在者としてそのつどつねに出会わせている。[18節]

(引用元:「ハイデガー入門」竹田青嗣 講談社 P71/原本「世界の名著74『ハイデガー』『存在と時間』責任編集・訳 原佑)

 

と言われても、「日本語でオケ」という言葉しか浮かばない。 

用語もニーチェのように「ルサンチマン」や「永劫回帰」などならば、わからないなりに何となく厨二心がくすぐられるのだが、「被投性」「相互共存在」「存在論的差異」と言われても、固くてイマイチ気持ちが盛り上がらない。

「頽落」と「死の先駆的決意」は比較的わかりやすいが、だから政治利用されやすかったのかなと思う。色々な人に真っすぐに刺さりそうな考え方なので、利用されやすそうだ。

 

というようにハイデガーの思想は、どこかとっつきにくさを感じる。

「葦と百合」が仮にハイデガー哲学の見方を取り入れているならば、「葦と百合」を読むとハイデガーは無茶苦茶面白いことを考えて話しているんだなあということが伝わってくる。

一方で実際的な話ではない形而上の抽象的な思考の話には面白さを見いだせない、という人は、時間の無駄だったと思うかもしれない。

好みがはっきりと分かれそうではある。

 

実際的な話であれば、序盤の一時盛んだったコミューン思想の是非は読んでいて面白かった。

自然発生的に生まれた文明や社会の在りようを、少数の人間の考えだけで否定して人工的に別の社会を作ろうとすること自体が「不自然」なのでは、と思うし、宗教や政治思想と絡んだときに実際に起こった問題も考えると、つい批判的な目で見てしまう。ただその思想が盛んではなくなった後の世代の人間が、その視点だけであれこれ言うのもフェアではないかもしれない。

直也と有紀子がやり合っていた、民俗や歴史を学問として扱うときのスタンスの話も面白かった。

衒学趣味や知的ナルシズムが苦手という人もいそうだが、自分はこの著者に関してはこういった部分も楽しめる。苦手な著者もいるので、どこが違うのだろうと考えると、知識を楽しむこと自体が目的かどうかではと思う。

他の対象への批判や自己主張の色合いが強いと、とたんに興ざめしてしまう。

 

それぞれが自分の語った「おとぎ話」に縛られ、縛られた自分がある対象物から「意味」を見出だし、「見出だした意味」によって自らの「物語」を補強していき、その中で生きてしまう。

そういう風に「現実」を作り上げることでかろうじて生きることが出来る人もいるが、それは「客観的認識」(と信じること)で生きている人も変わらないのかもしれない。

「客観認識」と「実存論的認識」を切り分けて、どれが誰の認識であり「おとぎ話」(*いかなるおとぎ話も述べない)なのかということを考えて、話の構造を全体的に考え直したい……けれど、すごい時間がかかりそうなので、のんびり後で楽しみながらやってnoteに書こうかなと思っている。

 

「ある行動の事実はこうだった」ではなく、「ある行動に後付けで語られた意味が、いつの間にか事実になってしまう」ことは往々にしてある。

そういう話が好きな人にはおススメしたい。

 

「殺人が予言されたのではない、予言されたから殺人が起こった」

話の作りは「予告された殺人の記録」を思い出した。

www.saiusaruzzz.com

 

内実を読むと、やはり色々と問題があるのかなと思う。

カルト村で生まれました。 (文春e-book)

カルト村で生まれました。 (文春e-book)

  • 作者:高田かや
  • 発売日: 2016/02/12
  • メディア: Kindle版
 

 

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)