街の人々から忘れ去られた辺境の砂漠の砦に配属された青年将校が、「いつか来る」と言われている「タタール人の襲来」を待ち続ける話。
「イタリアのカフカと称される」という部分に興味を持って手に取った。
読み終わったあと、少なくともこの作品については「カフカではない」と思った。
「タタール人の砂漠」に一番近いと思ったのは、「王立宇宙軍オネアミスの翼」だ。ドローゴは「リイクニに出会わなかったシロツグ」に見える。
ある冒険家が「なぜ、冒険に行くのか」という問いに、「冒険に行くと自分が世界の一部分であることを感じることができる」「そしてまた、世界が自分の一部分であることが感じることができ、まだ見ぬ世界を自分の可能性として感じることができる」と答えていた。
シロツグはリイクニに出会うことで自分の中の可能性を信じる力を取り戻し、自分と世界の可能性を宇宙に見た。
ハイデカーであれば「人間は世界内存在である」と言い、今風に言えば「自分探し」ということになるのだろう。
「世界の可能性を見ることが、自分自身の可能性を見ること」
クリス・マッカンドレスがただ一人でアラスカの荒野へ向かったのも、「僕は僕に会いに行く」ためだ。
自分の可能性や夢を見れなくなり、「まあこんなところだろう」と自分を見つけた(と思った)ときに、自分探しの旅は終わる。
青臭いと言われればそうだけど、自分は「王立宇宙軍」も「荒野へ」もすごく好きだ。
色々なコンテンツに触れたときも、「どこかで見たことがあるな」と徐々に心が動きづらくなっていくのがわかる。新しい情報に触れるとき、期待よりも億劫さが上回る。
そういうことが年を重ねるごとに増えてきて、それでも、というよりだからこそ、自分の心が動くものに出会えた時、喜びが大きい。
自分の中に「自分が知らない自分の可能性」を見つける。自分の中に自分がまだ知らないものが眠っていることが嬉しい。
しかし年をとればとるほど、その可能性は小さくなる。もしくは可能性を見つける、自分の視野が狭くなっていき、動きが鈍くなってくる。
シロツグのように、ひと目惚れしたという原動力で宇宙に飛び出すことなどとてもできない。
そもそも誰か(何か)にひと目惚れするほど、心に動きがない。
何かを生み出し続ける人間、何かをやり続ける人間というのは、「心の動き」がすさまじい。「新しいこと」に対する耐性が、常人とは違うのだろう。
かつて持っていた心の躍動感、青臭く自分の可能性を当たり前のように信じられた強さ、それを探し続ける体力は徐々に摩耗していく。
「タタール人の砂漠」は大多数の人が恐らく辿る、そしてどの地点でも一度は感じることを正確に描写した、普遍的な話だ。
始めて砦に向かう二十歳のドローゴが感じる不安と期待、二十五歳のドローゴが感じる焦燥と孤独、四十のドローゴが感じる幻滅、五十を過ぎたドローゴが感じる絶望と諦観、どれも多かれ少なかれ共感するのではないかと思う。
ドローゴの人生は、多くの人が歩む人生そのものだ。
タタール人と実際に戦闘する人のほうが少ない。長い年月と引き換えに手に入れるものは、「自分はタタール人と戦う人間ではなかった」ということを知ることだ。
ドローゴやオルティス、他の砦を去った多くの将官たちが考え続けた通り、「選ばれていない人」のほうが圧倒的な多数なのだ。
そういう意味では、ドローゴの人生が取り立てて不幸で悲惨だとも気の毒だとも思わない。町に残った友人たちとの比較で、ドローゴの人生は無為だったように描写されているがそうも思えない。
「タタール人がいつかくる」という可能性を信じ続けられたドローゴは、他の人よりも幸運だったと思うくらいだ。
馬鹿にされても自分自身も時に疑っても町の人から忘れ去られても、誰とも共有できない「タタール人はいつかくる」という可能性を信じ続けたドローゴのほうが自分は好きだな。
ストーリーにほとんど起伏がなく、ドローゴが砦で過ごす平坦な日常が淡々と描かれているだけだ。それでもどんどん読み進めてしまうのは、たった一人で可能性を信じ続けたドローゴに共感を抱くからだと思う。
ドローゴの人生は、無為であっても無駄ではなかった。
という「無為で無味乾燥な無数の人生あるある」を描いた「タタール人の砂漠」はいい話だし、好きだ。
でもカフカが描いたものとはまったく別物だ。
カフカの話は、こんな風に共感はできない。こういうことを書いていると頭ではわかっても、その恐ろしさや不安を実感できない。
そこに書かれているのは、「タタール人の砂漠」のドローゴのような「普通の人の無為の人生」からはまったくかけ離れた、理解不能な恐怖だと思う。
カフカの話の恐ろしさは、「自分という存在がわからない、実感できない」恐怖なのだと思う。自分というものが、初めから解体されている。
「変身」を読んだときまず頭に思い浮かぶのは、「なぜ、グレゴール・ザムザは虫になったのだろう」という疑問だ。次いで「ではどうしたら、ザムザは虫から人間に戻れるのだろう」ということだ。
でも恐らく「なぜ、グレゴール・ザムザが虫になったのか?」という疑問が思い浮かぶ自分には、カフカが書いていることはわからない。
そう思い浮かぶのは「グレゴール・ザムザはそもそも人間だった」という前提を、当たり前のように信じられるからだ。
「自分が虫ではなく人間であることを実感できず、信じきれない恐怖と不安」を書いているのがカフカの小説なのでは、というのが自分の考えだ。
「審判」はそもそも何の審判なのか、「城」とは何なのか、「判決」ではなぜ突然、父親に死ねと言われなけばならないのか?
「タタール人の砂漠」は(面白いと思うかはともかく)多くの人が言わんとしていることは何となくわかるし、実感すると思う。
対してカフカは、よくわからないか深くコミットしてしまうかがはっきり分かれる作家だと思う。
「タタール人の砂漠」を読んで感じたのは、カフカは奇妙で特異な唯一無二の存在だなということだ。