銀河英雄伝説の同盟側ではビュコックとアッテンボローが好きだ。
昔々メルカッツが一番好きな兄ちゃんと「ビュコックとメルカッツは、艦隊戦で戦ったらどちらが強いのか?」というテーマで語り合ったことがある。
子供のときって本当暇だったよなあ、と言いつつ、大人になった今も考えてしまうんだな、これが。
原作が手元にないためうろ覚えの記憶に基いている。確認して間違っている部分があったら修正する予定。
「強さ検証」では恐らく、
ヤン
ラインハルト
キルヒアイス
双璧
双璧の一階級下の将官
双璧の副将クラス(バイエルラインなど)、アッテンボロー
この順位がメジャーではと思う。
双璧の下のクラスは一長一短あり、レンネンカンプのように「ただの戦争屋」と言われ現場指揮は優れているが……というタイプもいれば、メックリンガーのように戦略眼が優れている参謀タイプもいるので一概には比べられない。
自分はミュラーは頭ひとつ抜けているのでは、と思うけれど、特に根拠はなくただの印象だ。
ヤンから双璧までは、戦略構想もできるし現場指揮のレベルも高いというバランスの良さ、苦手な分野のなさが一番の強みなように思う。
銀英伝本編では戦略レベルのことを無視した戦術レベルの強さは無意味だと繰り返し語られている。「同条件で戦ったらどちらが強いのか」という仮定自体が馬鹿げているとも言われている。それでも「双璧が戦ったらどちらが強いのか」を考えてしまう兵士のようについ考えてしまう。
昔は「ビュコックのほうが強い」と主張していたが、冷静に考えるとメルカッツに分がありそうだ。
アスターテのときはラインハルトの策の真価を見抜けなかったが、あのときはキャラ立ちしていなかったなどの事情がうかがえる。
そのあとの作内描写から考えると、メルカッツは双璧と同じくらい、もしくはそれよりはやや落ちるけど条件次第では、くらいの強さを誇っている。
ビュコックはマル・アデッタ以外では、艦隊戦を戦っていないので(確か)考えるための材料がかなり乏しい。
マル・アデッタは元々敗戦確定の戦いだったので評価しづらいけれど、帝国軍の予想を覆せた描写が一回もなかった(終始、帝国側が余裕だった)ところを見ても、手堅い用兵はできるがそれ以上ではない、という評価が妥当かと思う。
公平に考えるとレンネンカンプやケンプあたりと互角くらいの印象だ。
念のため、ゲームの数値はどうなっているのだろうと調べてみた。
ビュコック 統率18 機動13 砲撃15 空戦14 防御17 計77
メルカッツ 統率19 機動14 砲撃15 空戦17 防御14 計79
意外と差がない。
(参考)
ヤン 統率18 機動15 砲撃15 空戦16 防御18 計82
ラインハルト 統率18 機動16 砲撃18 空戦15 防御15 計82
ミッターマイヤー 統率16 機動20 砲撃17 空戦13 防御16 計82
ロイエンタール 統率17 機動15 砲撃18 空戦14 防御17 計81
成長率などもあるし、数値ではわからない実際にプレイしてみての使いやすさや役に立ち度なども不明なのではっきりは言えないが、ゲームの数値でも、強さの評価は「双璧→メルカッツ→ビュコック」だ。
ビュコックが好きな点は、マル・アデッタに至るまでの流れと死ぬ間際のラインハルトとの会話が大きな要素を占めている。
行動としては民主主義の精神に殉じていながら、ラインハルトには個人として語りかけているところがビュコックの人柄をよく表している。
だからこそラインハルトに(無駄に)刺さってしまった、という流れ弾的なところもあった。あそこで思想を全面に押し出して話していたら、五巻のヤンとの会話の繰り返しになってしまう。ストーリー的にも同じことを繰り返しても仕方がないので、ああいう感じになったのではと思う。
負の感情とは言え、公の思想としてはピンとこないものでも、意外とその精神性につながるものはラインハルトも持っているとわかるところ(というより誰よりもわかっているところ)が良かった。
マル・アデッタと言えばチュン・ウー・チェンも好きだった。パン屋の三代目。
子供のときの目線だと、二十七歳のスーン・スールも十分大人なので、ビュコックがスーン・スールを連れて行かずチュン・ウー・チェンの申し出を断れなかった流れを「大人の世界とはこういうものか」という思いで読んでいた。
大人になると、このシーンの感想、というより見る目そのものが変わる。「大人になるにつれ、ビュコックの気持ちが分かるようになってきた」というより、「ビュッコクの気持ちがわかるようになってきたことで、自分が年を取ったことに気づいた」
メルカッツで印象的なのは「自分も昔はブラウンシュヴァイク公のような価値観を持っていて、公のようになっていたかもしれない」という述解だ。
「銀英伝」は一見、メタ視点で勧善懲悪を保っているように見えて、意外とグレーな価値観も描写されている。
「メルカッツのように高潔で公平な人物でも、若いころ、貴族の価値観に染まっていた。そのときはブラウンシュヴァイク公のような価値観を持っていた」というところに、人の弱さや難しさがある。
この話で思い出すのは、「カラマーゾフの兄弟」のゾシマ長老だ。
ゾシマ長老も貴族に生まれ、農民出身で自分の従卒だったアファナーシィを苛立ちのままにいきなり殴りつける。従卒の身分の者はその拳を避けたり顔を庇うことすら許されておらず、直立不動で殴打を顔面に受けなければならない。ゾシマ長老は自分の残忍な衝動に「人間はここまで堕ちてしまったのだろうか。人間が人間を殴るとは!」とおののき、信仰に目覚める。
「立派な」「高潔な」という個人の範疇では超えられない価値観や環境の檻を、人と人の偶然の結びつきによって超えうることがある、というのは本当にそうだなあと思う。
どんなに優れた人でも、一人分の視野は暗く狭くなりがちだ。
「自分もそういう人間になっていたかもしれない」と認められるメルカッツは、やっぱり立派な人だなあと思う。
メルカッツが「亡命しながら、帝国軍の軍服を着たままでいる」ことが話題に上ったとき、「ビュコックの爺さんにも帝国の軍服が似合ったとは思えない」と出てきた。
長い年月、「友人を作る思想である民主主義を守るために戦ってきた叩き上げの軍人」「ブラウンシュヴァイク公のようになっていたかもしれない帝国貴族」として色々な意味で宇宙の対極で生きてきた二人は、直接会ったら何を話していただろう、ということが、強さの比較と同じくらい気になる。
案外、気が合いそうな気がする。
でも鎖をじゃらつかせているフェラポント神父のほうが好きだなw