10月2日(金)にBリーグが開幕した。
アルバルク東京対川崎ブレイブサンダースは開幕にふさわしい好カードだった。
バスケを久しぶりに観て、突然「SLAM DUNK」について語りたくなったので語りたい。
「SLAM DUNK」は、「自己探求を通じて、自己実現(悟り)する物語」ではないかと考えている。
「自分が何者であり、何のために生まれたか知るまでの話」だ。
主人公の桜木が、「『自分がバスケット選手であること』を悟る」話なのだ。
「SLAM DUNK」で一番好きなキャラは魚住で、その次が赤木だ。
一番好きなシーンは、泣きながら「辞めたい」と言う魚住に田岡が声をかけるシーンだ。
でかいだけ? 結構じゃないか。
体力や技術は身につけさすことはできる。
だが、お前をでかくすることはできない。
たとえオレがどんな名コーチでもな。
(引用元:「SLAM DUNK 完全版」15巻 P152)
最初に読んだときは、このシーンの良さがよくわからなかった。「デカいだけじゃない、お前にはこんないいところがある、とかそういう話にはならないのか」と思っていたくらいだ。
時間が経ってから気づいたが、田岡はこのときものすごく重要なことを言っている。
魚住(と赤木)にとって、「なぜ自分は自分なのか(自分は何者なのか)」の命題が、「なぜ自分はデカく生まれたのか?」ということに仮託されている。
魚住と赤木は「デカいだけでヘタ」という同じ記号を背負っており、「デカく(自分として)生まれたこと」の意味を探求する、コインの裏表である。
「武士」と揶揄される赤木は、「強要するなよ、全国制覇なんて」「お前とバスケをやるの息苦しいよ」と言われ、チームメイトをバスケを辞めたいと思わせるほど追い詰めている。
同じころ魚住はチームメイトから「魚住がいると練習が休めるな」「とんだ期待の新人だぜ」と陰口を叩かれ、自信を失い涙を流して毎日バスケを辞めたいと思うほど追い詰められている。
「デカいだけでヘタ」と他人から言われ自分の存在意義が危機に瀕したとき、赤木は「武士」のようなストイックさで己を追求し続ける。そしてその「強さ」で他人を引かせてしまう。
同じころコインの裏である魚住は、自分の存在意義を見失い「他の人間が言う、『デカいだけで無意味』」という言葉を受け入れ始め、「自己探求(バスケ)を辞めたい」と思い始めている。
(引用元:「SLAM DUNK 完全版」15巻 P151)
(引用元:「SLAM DUNK 完全版」23巻 P244)
このふたつのシーンの涙は、「デカいこと(=自分とは何か)」を探求するうえで現れる、強さと弱さを表している。対象的な涙なのだ。
魚住は他人から「デカいだけでヘタ」という自己像を突き付けられ、「デカいことに意味がない」→「自分が自分であること」に意味を見出せない状態になっている。(これは物語上、その役割を魚住が引き受けているだけで、赤木も同じ問題を抱えている。)
だからこの時、「自分はただデカいだけで意味がない」「バスケ(自己探求)を辞めたい」と泣く魚住に、田岡が「デカいことがお前自身なのだ」と言ったのは、魚住にとってとても重要だったのだ。
田岡のセリフに、魚住(含む赤木)は「自己」を見出す。
「デカいことが誰かにとって意味があるのか、もしくは無意味なのか」ではなく、「デカいことそれ自体が自分の一部なのだ」と気づく。
ここから魚住と赤木の「デカく生まれた自分」の自己探求が始まる。
その道はもはや「デカいだけでヘタ」という他人の評価は関係ない。
「デカく(自分として)生まれたこと」の自分だけの意味を、自分自身で探し始める。
コインの裏表である二人は、赤木が強いときは魚住が弱音を吐く。魚住は赤木の弱さを代弁し、赤木は魚住の強さを背負っている。
そして赤木が弱っているときは、魚住が激を飛ばす。
山王戦で赤木が河田に圧倒されたとき「あんなカッコ悪い赤木は初めて見たな」「お前は鰈だ」「おそらく現段階でオレは河田に負ける。でも湘北は負けんぞ」と魚住が赤木に「自分であることの意味」を取り戻させる。
二人は山王との戦いを通して、ついに「自分がなぜデカく生まれたのか(なぜ自分は自分として生まれたのか)」を悟る。
ヘタクソなフェイダウェイで逃げるんじゃねえ!!
体を張れ!
むかっていけ! それがお前のプレーだろうが!
そのデカい体は!
そのデカい体はそのためにあるんだ!
(引用元:「SLAM DUNK 完全版」24巻 P41)
このシーンは、「デカいだけでヘタ」というイメージを他人から与えられていた魚住と赤木が「自己」を獲得した瞬間なのだ。
すごいシーンである。
「SLAM DUNK」の凄さは、特に山王戦後半はこういうシーンが連続しているところなのだが。
自分は「SLAM DUNK」は表向きのジャンルの他作品とは一線を画す、「自己探求の果ての自己実現を約束する書」だと思っている。
他者(社会)評価による自己実現は定番だが、「自分が何者であり、何のために生まれたか知るための自己探求の回路として機能してしまう*1話」というのはなかなか見ない。
エンターテイメントの枠内で収まりながら、その回路が確立しているところが「SLAM DUNK」のすごいところであり、唯一無二の名作である理由だと思うのだ。
河田と対峙したときの赤木と比べると、沢北と対峙したときに「ありがてえ、贋物じゃねえ」という(言える)流川はこういう「赤木・魚住的自己のゆらぎ」とは無縁だ。
だから流川には、赤木にとっての魚住的キャラが必要ないのでは、違う種類の「弱さ」を持つ三井には安西先生がいる(信仰がある)、とか色々と考えると面白い。
*1:ストーリー上、主人公が自己探索する話は多いけれど、読み手に「回路として機能する」まではなかなかいかない。本来であれば「機能してしまう」というのはけっこう危うい。