うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

第27話の藤吉郎と光秀が話すシーンを見て、「麒麟がくる」の面白さが突然わかった。

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今までも普通に面白いとは思っていたけれど、どちらかと言うと斜めな視線で見ていた。

ドラマだとしても、さすがに個人的な関係や個人の動向で物事が動きすぎだし、登場人物のモチベーションが「個人的なもの」が多いことも気になった。信長の「人の役に立って人に認められたい」をはじめとして、「家」という概念が希薄でまるで現代人のようだ。

まあ一話ごとの動きが大きくキャラクター性も明確な、わかりやすいドラマにしているのかなと思って見ていた。

 

だが昨日放送された第27話「宗久の約束」を見て、自分はこの話の面白さを何もわかっていなかったと突然気づいた。

自分にそういう気づきを与えてくれたのは、京の動向を探りにきた藤吉郎と光秀が話をするシーンだ。

このシーンを見て、初めて「『麒麟がくる』とはこういう話だったのか」と目から鱗が剥がれ落ちるように分かった。(という感覚になった)

 

「子供のころ、親は針を千本売れば飯を食わせてやると言っていたが、その約束を守ってくれたことはなかった。信長は無茶苦茶な要求をするが、その要求を果たせば必ず褒美をくれた。約束を守る信長はすごい。だから自分は信長に忠誠を尽くす」

藤吉郎は自分の今までの人生について、だいたいこんな内容を光秀に語る。

拙い言葉で語られる話を、光秀はひと言も口を挟まずに聞いている。

この時の光秀の表情がすごい。

人によって解釈が分かれるだろうが、自分は「キツさ」を感じた。もしかしたら「自分が光秀だったら、この話は聞いているのがキツい」と思ったから、そう感じたのかもしれない。

 

このとき藤吉郎が語っているのは、自分の世界観の話だ。

「自分にとって世界がどう見えるか。そしてその世界がある日を境に、いかにして180度変わったか」という話をしている。

「自分がいくら頑張っても世界は変わらない、ひとつも応えてくれない、という世界から、自分がその要求を満たせば応えてくれる、そういう世界に変わった。信長が世界を変えてくれた」

「世界を変えてくれた」信長は、藤吉郎にとって神だ。

藤吉郎はこのとき、「神をこの目で見た奇跡」を語っているのだ。

だから藤吉郎は信仰を告白するかのように、憑かれたような眼差しの恍惚とした表情をしている。

「信長に仕える方策」を与えてくれた駒は、藤吉郎にとって神さまに引き合わせてくれた社のようなものだ。だから駒に対する感謝が、あそこまで真摯で切実なものになるのだ。

 

対して光秀は、人々が平和に豊かに暮らせる「大きな国」という仕組みを夢見ている。現在の姿はどうあれ、光秀が夢見る「大きな国」に「仕組み」として最も近いものが幕府だ。

光秀はその「仕組み」がしっかりと機能し人々を守れば、戦は起きないと考えている。

光秀はそういう世界観を持っており、その世界観でまさに子供のころの藤吉郎のような人物を助けようとしているのだ。

 

しかしその世界観は、藤吉郎にとっては、自分が実際に目にした「世界を変えてくれた神」に比べれば何の意味もない。

いま自分が感じている「自分が頑張れば頑張っただけ報酬が返ってくる手ごたえ」以上に、実感できる世界などどこにもない。

だから信長にどこまでも付き従い、戦を続け、かつての自分と同じ境遇の者に不幸をもたらしてしまう。

しかしそういった構造をどれだけ説いても、「実感のできない世界」など藤吉郎にとっては存在しないも同然なのだ。

頭ではわかっても、「目の前にいる神」を捨てて「実感できない世界」に従うことなどできない。

その人物が実際に経験し、受け取ったり感じた物事から出来上がった、しかもそれが「世界が変わることを目の当たりにした」ほどの体験からできたものならば、それを覆すことは不可能だ。

光秀には恐らくそれが分かっている。

藤吉郎が話している世界観に、自分の世界観が一瞬で負けることが分かっている、藤吉郎が「世界が変わった」という衝撃から受けた感動に比べたら、自分が語る「大きな国」など何ほどの意味も持たないことが分かっている。

自分の理想は常に敗北を約束させられている、という虚無。

光秀が浮かべていたのはそういう表情なのではと思う。

 

「麒麟がくる」の登場人物は、藤吉郎に限らず、自分という個人の体験から、世界の法則性を見出している。(信長と義昭の金銭に対するズレも世界観の違いを表している。)

光秀は逆に、「大きな国」という世界の法則性を作れば、個人の幸福度は変わるはずだと信じている。

武士の棟梁である幕府の存在にあれほどこだわるのは、恐らくそのためだ。

「麒麟がくる」の登場人物たちの間に横たわる齟齬は、階級や境遇などから生まれる「価値観のズレ」ですらない。

極端なことを言えば、彼らはまったく別々の世界に住んでいる。

だから「価値観のズレ」のように対立すら起こらず、信長が光秀がいう「大きな国」を誤解しているように、話が噛み合わず物事だけが進んでいく。

 

光秀が望んでいるのは、この別々の世界観を統合することだ。

「大きな国」とは、まったく違う世界を見ている人々がお互いを認め合い、豊かに暮らせる国なのだ。

だがその光秀の理念は、例えば藤吉郎が持つ「個人的信仰」の前には何の意味もない。

そういう大勢の人にとって、空虚で何の意味もないことを、それでも信じて語っていく、そういうキツさを「麒麟がくる」の明智光秀は抱えて生きていくのでは、と思う。

 

駒は、今まではよくある「庶民目線を代弁するキャラ」と思っていた。彼女は恐らく「複数の世界を結ぶ特異点」なのだ。

色々な人物が駒の下に集結するのは、そのためだと思う。というより、色々な物ごとが彼女の周囲に磁石のように引きつけられる事実を以て、「駒は光秀にとって、様々なミクロの世界観の集積地帯」と解釈したほうがすっきりする。

 

今までも何となく自分が今まで見てきた類似のドラマと違うなとぼんやり感じていたが、何が違うのかよくわからなかった。

「世界観を集約する困難さ」を主人公が背負っているのか、だから登場人物が個人的体験ばかりにこだわるのか、と思ったらいっきに見るのが面白くなった。

 

そう考えると、「ミクロの世界観に敗れた光秀」と「神を殺された藤吉郎」の最後の対峙が今から楽しみだ。

ドラマを見る目をいっきに変えてくれるような圧巻の演技を見せてくれた長谷川博己と佐々木蔵之介なら今回以上にシーンを見せくれるに違いない、と今から待ち遠しい。